2021年11月21日
12月1日には伝統の無縁供養の法要が勤められます。
「無縁供養」という言葉から、無縁仏への供養と受け取られて、どうしてそんなことをする必要があるのかと思う人も多いと思います。
しかし祥雲寺の歴代住職はこの行事をとても大切にしてきました。
無縁供養は万物への感謝の供養です。
私たちが生きてゆく一日一日が、実は意識することもできない無限の縁から生まれた恩に支えられているのだということを知って、感謝の誠を捧げる供養です。
例えば、食べ物について考えてみればよい。
食べ物がなければ私たちは生きていけません。
その食べ物は他のものの命です。私たちは他のものの命を糧として自らの命を養っています。
食べ物となるには、まず命を生み出す天地の恵みがあり、それを育て刈る人、運ぶ人、調理する人、多くの人と物との関わりがあります。
食べ物に限らず、生きてゆく全てが他のものによって支えられていることを理解するのはたやすいでしょう。
大切なのは、そのことを恩と思い、感謝へとつなげてゆくことです。 「恩」という漢字は、自分の利益になったことの原因を心に留めるという成り立ちだそうです。
経典のインドの原語も同じ意味です。
そして、その思いを慈悲の心でもってお返ししてゆくのが感謝であり供養なのです。
報恩感謝からは、人を傷つけるような行ないは出てきません。
他のためになる行ないをし、共に生き、共に喜ぶ行ないが生まれてくるのです。
報恩感謝は人倫道徳の基(もとい)であり源(みなもと)なのです。
供養について付け加えることがあります。
供養は慈悲の心からなされるものですが、慈悲哀愍(じひあいみん)と言って、あわれみの心をともないます。
供養の施主が、知る人に対しても、知らざる人に対しても、自分と同じくこの世を生きたことを共感するのがあわれみです。
無縁供養塔には、明治の箒川列車転覆事故、大正の関東大震災の供養塔がそれぞれ納められ、平成25年には東日本大震災の犠牲者への供養塔も建てられました。
令和3年11月15日
宇都宮市東戸祭1-1 祥雲寺住職 安藤明之
十八日の朝詣りは午前6時半から行います。