祥雲寺ブログ
ごあいさつ
祥雲寺の歴史

祥雲寺の歴史

  • 祥雲寺は文明二年(西暦1470年)、戸祭備中守高定公が、居館の鬼門の守りとして現在地に建立しました。開山は鹿沼市玉田町瑞光寺第三世雪江良訓禅師です。
    現在戸祭元町には堀の内が転化したらしい「本能寺」とか「中城」という屋号を持つ家があり、「中城」には薬師堂があります。備中守の館はこの薬師堂を中心とする戸祭本村全体であったといわれます。

  • 祥雲寺

    雪江禅師は曹洞宗の高僧伝に行歴が載っている高徳の僧ですが出身については判っていません。 ただたいへん長命の方で大本山總持寺に次ぐ格式の相模國最乗寺の住職に推薦されたとき、高齢の故をもって弟子を住職に推挙した記録が残っています。
    ごく若い頃に祥雲寺や壬生町の豊栖院を建て、瑞光寺にてたくさんの弟子を育てました。
    大永二年(1522年)祥雲寺に隠居し、大永五年遷化しました。葬られた場所が祥雲寺の西2キロにある和尚塚です。

  • この塚は昭和八年に 発掘され、祥雲寺が第二代住職から第八代住職までが雪江禅師の年回法要を行った際に建立した石碑と、梵字の光明真言を刻んだ石碑が出土しました。(下野史 談会会長長田代善吉氏が拓本をとりました)。

    和尚塚は別名「将軍塚」ともいわれてきたということで、戸祭中城からは古来日本人が墳墓の方角と定めた乾に当 たりますので、あるいは戸祭氏の墓所だったのかもしれません。当時寺院の境域には住職といえども埋葬しないで出身の家の墓に埋葬される場合があったことを 考えると、あるいは雪江禅師は戸祭氏の出身であったかと推察されます。

    戸祭氏は、宇都宮二十二代国綱が慶長二年豊臣秀吉に改易されたのにともない、この地を離れ、一流は水戸藩に、一流は福井で松平忠直に召し抱えられまし た。福井藩士となった戸祭乗久という人の開基によって乗久寺という時宗の寺が建てられ、そこに戸祭氏の来歴を記す碑文が建てられました。

    乗久の末裔は京都 に在住しますが、戦前には碑文は残されていたとのことです。しかし福井市は戦後、大地震と洪水に見舞われ、乗久寺も場所を移してしまい、現在碑文を確認す ることは出来ません。京都の戸祭さんから祥雲寺二十七代裕之和尚が聞いた事によると、戸祭氏はもと伊勢内宮の神官で三河の国に本貫地を持ち、縁あって宇都宮氏の客将となったとのことです。

    この話が事実とすれば戸祭の地名は戸祭氏に由来することになります。

  • 石版碑

    また祥雲寺建立に際しては上戸祭地内にあった古寺(伝金仙寺)の寺基を移して堂が建立されたとの伝承があり、これについては昭和二十三年に本堂が焼けた 際、須彌壇の下から経石にくるまれた石版碑が出土しました。

    この碑の前面には上部に阿弥陀仏を表す種字、下部には建治三年(1277年)の年号が刻まれて います。(宇都宮市史第三巻に年号を貞治三年としているのは誤りです)。

    祥雲寺の開創について江戸時代の第八代住職祖龍和尚は雪江禅師隠居の年としていま すが、あるいは文明二年には天台宗のままで寺基が移され祥雲寺となったのは大永二年であるとも解釈できます。

  • 雪江禅師開創の後、傑庵長英禅師が第2代住職となりましたが、その後正式の住職がいなくなる時代があったようです。活動が確認できるのは、江戸時代のは じめ慶長六年に黒印地三石を宇都宮城代大河内氏によって受けたという記録からですが、寛永の本末帳という江戸時代を通じてもっとも権威のあった幕府の寺院 名簿に記載され、さらに幕府の朱印地として寺領を受けたことを考えると、寺院としての格式は具えていたと思われます。

    寛永年間に火災に遭い、本堂が建立されたのが明暦年間です。寺請けでは江戸時代を通じて宇都宮城下の北側の、戸祭村、大曽村二か村の菩提寺でした。幕末 には建物の大改修が行われ、その費用捻出のため無尽講を行った記録が残っています(上戸祭石塚家文書)。戊辰戦争で宇都宮城が焼かれたのちは、ごく短期間 ですが宇都宮城主の居住所として使われました。戦火激しかった宇都宮に残った唯一の大規模な建物だったのです。
    しかし昭和二十三年三月九日、寺の東南二百メートルほどに位置する市営住宅の一角に火災が起こり、それが飛び火して、萱屋根の本堂の軒付けに火が入り、 本堂庫裏が全て消失しました。あまつさえ、消防団員として消火に当たった檀家の塚田光與氏が殉職するという痛恨事となったのです。
    時の住職第二十七代裕之和尚は、これを機会に祥雲寺の面目を一新しようとしました。昭和四十二年旧本堂の東側の山を削り、五千坪の境内地を造成しまし た。そしてここに昭和五十三年敷地面積百三十坪、総床面積三百坪弱の本堂が建設され、周りの山林、墓地を合わせて一万六千余坪の壮大な境域ができあがりま した。時間はかかりましたが、檀信徒の並々ならぬ骨折りがあって裕之和尚の雄大な構想が実現されたのです。

  • しだれ桜

    境域には昭和三十二年県指定の天然記念物しだれ桜が有ります。指定時は幹周り五メートル、高さ二十二メートル、南北二十五メートル、東西十八メートルあ りましたが本堂火災の際に一部が焼けた影響で樹勢が衰え枯死寸前になりました。
    治療に努めた結果だいぶ回復しましたが、現在は全盛時の下の部分が残ってい るだけです。それでも栃木名木百選の一つとして四月上旬の開花時には訪れる市民が絶えません。この桜については明治時代、県令三島通庸が枝枝に桟敷を張 り、県内の貴顕紳士、宇都宮中の芸者衆を上げて花見の宴を行ったという話が残っています。

  • また、墓域の頂上には前方後円墳があり、昔はあまし塚(天地塚、天子塚)と呼ばれていたそうです。全長四十メートルで前方部南側に石室の一部が露出しています。日照りの時この塚の上で鍬を振るうと雨が降ったという伝説があります。

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