ごあいさつ

宇都宮市の祥雲寺は歴史のある曹洞宗のお寺です。
栃木県庁のすぐ北にあり、自然林の中には西国三十三番の観音像が祀られています。
また、樹齢350年を超える枝垂れ桜の老樹は県天然記念物として有名です。
たくさんの方々に仏教を親しんでいただくことを願いとし、様々な信仰行事を催しています。

ようこそおまいり

栃木 宇都宮 祥雲寺 | 桜や祭りが名物の寺

新着ブログ

  • 30年11月 朝坐禅会「指月の会」案内

    2018年11月22日

    福寿草 小さい秋みーつけた。

     

    「正に良薬を事とするは、形枯を療ぜんがためなり」

                               五観の偈

     

     上記の一文は、曹洞宗の僧侶が食事の際に唱える文言です。

    日常の生活すべてを修行の場と心得、食事もまた修行と永平寺の道元禅師は説かれました。

    修行の目的とは、三毒と呼ばれる悪行の根っことなる心の働きから離れることです。

    三毒とは貪(むさぼり)瞋(いかり)痴(おろかさ)の三つです。

    ・貪とは貪欲。むさぼり執着すること。

    ・瞋は瞋恚で、自分の心に違うものをいかり憎むこと。

    ・痴は愚痴で、ものの道理のわからぬ愚かさのこと。

    心の迷いを防ぎ、身と口がつい犯してしまう過ちから離れるには、この三毒をなくすことが最高の修行であると説かれています。

     

     食事は生きることに欠くことは出来ません。

    しかし不足するなら不和が生まれ過ぎたならば健康を害するものとなります。

    美味しすぎればむさぼりの心が芽生え、不味い足りないとなればいかりの心が燃え上がります。

    先日勉強会である人から指摘がありました。

    「現代の食生活は、美味しすぎるから過食という病が生まれるんだ」と。

    ジャンクフードと呼ばれる、現代に多く見られる部類の食事は味が濃いのが特色です。

    味が濃いと味覚が強く刺激されて、脳内麻薬が分泌されるから限度を超えて食べてしまうそうです。

    そうしたことから、昔の人は精進料理と呼ばれる修行者むけの味の濃くない料理を作ったのです。

    精進料理は淡味、ダシを主軸とし、素材の味を生かした料理とされます。

    味の濃くない、それでいて十分においしい料理によって、貪りの心等の欲望を惹起されすに、体が病み衰えることのないように力をつける薬として頂くこと。

    それが精進料理のコンセプトであり、食事を頂く僧侶にあるべき心構えとなるのです。

     

    食欲の秋、私もまた過ぎることがないように心しなくてはなりません。

     

                                祥雲寺副住職 安藤淳之

     

    一人で修行を行おうとすると、怠けてしまったり後回しにしてしまい続かない場合もあります。
    ですがみんなで行えば、難しいことでも楽しく行えるはずです。
    この朝坐禅会はそのような場となるよう始めました。
    一日の始まりを迎えるこのひと時、ご一緒に「かろやかに」生きてみませんか?

    日時:11月26日(月)朝6時半~8時(途中参加、途中退出可)

    6時30分~7時10分(一回目の坐禅)

    7時20分~8時    (二回目の坐禅)

    場所:祥雲寺本堂一階

    用意:身一つで大丈夫です。

    足の組めない方は椅子での坐禅もできます。

     

    注意:初めての方は最初に指導を行います。

    その為可能ならば一回目の坐禅から参加されてください。

    また、祥雲寺では毎週水曜夜6時(第四水曜のみ休み)、雀宮布教所「善応院」にて坐禅会を行っています

  • 平成30年11月 観音朝詣りのお知らせ

    2018年11月14日

    イチョウの木と本堂

     

     10月の末はハロウィンが話題になりました。

     

     この行事はもともと古代ケルト人の収穫祭だそうです。

    ケルト人は10月31日を秋の終わりとし、冬の始まりから新しい年としました。

    この日には死者の霊が家族を訪ねてくると信じられました。

    古い記録では、祭司たちがかがり火を焚いて作物と犠牲を献げ火の回りで踊ります。

    各家庭はこの火を持ち帰って家を温め、悪霊が入らないようにします。

    子供たちは、仮面をかぶって悪魔や魔女に変装し、家々からお菓子をねだります。

    お菓子をくれないと家にはいたずらをしてもよいということになっていたそうです。

     

     私は、日本の宗教行事と共通するものが多いことに驚きました。

     

     お盆は先祖を迎える行事です。

    迎え火を焚き盆棚に火を灯します。

    夜には村中総出で盆踊りとをしました。

    秋田のなまはげは、仮面をつけ、神(鬼)となって家々を訪ねる行事です。

    十五夜に子供たちがはやしながら家々からお供え物をねだるボージボという行事もありました。

    お供えをくれない家の月見団子は盗んでもよいとされました。

     

     ケルト人は、青銅器時代に中央アジアの草原からヨーロッパにやってきた民族だそうです。

    日本も含めてアジア各地の民族や文化とつながりを持っていたのでしょうか。

     

     元々のハロウィンも含めて、いろいろな祭りに共通するのは、先祖への感謝祭であることです。

    先祖に感謝し、さらにはその霊に子孫たちが護ってもらうことを願う祭りです。

     

     全知全能の神ではなく、血のつながりを感じることの出来るご先祖に感謝を献げるのは、人間の心のはたらきとして自然な感じがします。

    一神教といわれる宗教が生まれる以前の、人間の一番素直な宗教感情だったのではないでしょうか。

     

     仏教は、この世界の真理を悟られたお釈迦様が、悟りの境地から人間の生きる道を説かれた宗教です。

    先祖崇拝は、ともすれば狭い地域や集団、一民族に限定された排他的な感情を生み出しかねません。

    しかし、悟りの光に照らされた時、すべての人間にとっての幸せの基(もとい)である普遍的な感謝の精神へと高められている、そのようにお盆行事をはじめとする日本の先祖供養について私は思っています。

     

     平成30年11月15日

                              祥雲寺住職 安藤明之

     

    十八日の朝詣りは午前6時半から行います。

  • 30年10月 朝坐禅会「指月の会」案内

    2018年10月21日

    本堂裏手に造られた新しい墓地区画です。

     

    四大分離して甚れの処に向かってか去る。 『無門関』
    現在祥雲寺では新規の墓地区画を整備しています。
    私が普段で、新しく墓地を建てられた人に話している文章を載せてみます。
     しばらく前に「千の風になって」という歌が大変流行しました。
    私のお墓の前で泣かないで下さい、私はそこに居ません。
    千の風になって、あの大きな空を吹き渡っています。
     この曲の特別なところは、死者からのメッセージであるという所です。
    死という断絶。それを超えて語りかけてくれる「向こうからの言葉」
    うちひしがれている人にとって何よりの慰めとなる、この歌にはそうした力があるのだと思います。
    この歌詞は一説にはネイティブアメリカンの言葉が元になってアメリカで広まり、それを新井満氏が翻訳して歌にしたそうです。
     私たちは縁あってこの世に生を受け、様々な結びつきの仲で育ちやがて枯れていきます。
    縁によって生まれいでた私たちは、死ねば何処に行くのでしょうか。
    何処に行くのでもありません。世界から結びつきによって生まれた私たちは、ほどければまた世界に帰っていくのです。
    私たちの命は、すがたかたちを変えてまたこの世界を巡る大きなはたらきへと立ち返っていく。
    だからこそ、悲しみに萎れた顔を上げて耳を澄まして見たならば、木漏れ日の煌めきや風のそよめき、土の臭いや水の流れにあの人の命のはたらき、面影を見ることも出来るのでしょう。
     ですが、お墓こそが故人を思い返す、偲ぶのにこの世で最も適した所であることも間違いないはずです。
    故人を弔い、文字通りその名残を石の永遠性に託して刻み、この世にあったのだという証拠を立たせているのですから。
     どうかお墓参りの時にはたくさん声をかけてあげて下さい。
    故人には出来なくなった掃除をして届けたい物や思いをお供えしてあげて下さい。
    そうして合わせた手の向こう側に、きっと喜ぶ顔を感じることが出来るはずです。
                               
                             祥雲寺副住職 安藤淳之
    一人で修行を行おうとすると、怠けてしまったり後回しにしてしまい続かない場合もあります。
    ですがみんなで行えば、難しいことでも楽しく行えるはずです。
    この朝坐禅会はそのような場となるよう始めました。
    一日の始まりを迎えるこのひと時、ご一緒に「かろやかに」生きてみませんか?

    日時:10月22日(月)朝6時半~8時(途中参加、途中退出可)

    6時30分~7時10分(一回目の坐禅)

    7時20分~8時    (二回目の坐禅)

    場所:祥雲寺本堂一階

    用意:身一つで大丈夫です。

    足の組めない方は椅子での坐禅もできます。

     

    注意:初めての方は最初に指導を行います。

    その為可能ならば一回目の坐禅から参加されてください。

    また、祥雲寺では毎週水曜夜6時(第四水曜のみ休み)、雀宮布教所「善応院」にて坐禅会を行っています

  • 平成30年10月 観音朝詣りのお知らせ

    2018年10月17日

    本堂前での朝参り風景

     

     かつて電子計算機といわれたコンピュータは、進化してAI(人工知能)になりました。
     今朝(10月11日)のNHKテレビでAIを使った就職面接試験が紹介されていました。アメリカでNHKの記者が試しに受験した様子が写されました。評価は数値で表され、80数%の値が出ました。記者の感想には、機械に評価されることへの戸惑いが感じられました。

     このシステムの開発者は、人間による評価は先入観や好みなど個人的な指向に左右されやすいので、企業や組織が必要な人材を採るにはAIを導入するのがよいと話していました。ただ、開発者もAIのどのような判定の過程によって評価数値を出すのかは分からないそうです。

     人間を評価するという、本来人間によってのみなされなければな らないとされていたもの、最も人間的な分野にAIが入り込んできたのです。そして、残念ながら、このようなことはこれからどんどん増えていくと思います。

     かつて、コンピュータが人間に勝つことは不可能と言われた囲碁で、AIが世界最強棋士を破ったのは一昨年のことです。いまではAIが勝つのは当たり前と思われるようになりました。

     億、兆のさらに上の位の数の情報を処理する能力を持ち、人間の感情や価値観などもデータ化して処理します。

     AIは既に小説を書き、絵を描いています。医療診断にも導入され始めたそうですが、近い将来にAIの診断の方が医師の診断より信用されることになるでしょう。家事や、介護もAIで動くロボットがやります。

     人間より優れた能力を持ち正確で間違いが ない、そのように人間がAIを信用し、さらに言うことを聞いてくれて便利に使えると思い、AIの導入はますます進みます。

     しかし、本当にそれでいいのでしょうか。AIを使っているつもりで、実は使われ、支配されて行くのではないでしょうか。

     文学や美術は、人間の感性や価値観で捉えなければなりません。人間は死に、壊(こわ)れ行く生き物です。それだからこそ喜びも悲しみも意味があるのです。データ処理の機械とは決して馴染むことのない一線があるのです。

     平成30年10月15日
        宇都宮市東戸祭1-1-16      祥雲寺住職  安藤明之

    十八日の朝詣りは午前6時から行います。

  • 30年9月 朝坐禅会「指月の会」案内

    2018年9月22日

    曼珠沙華

    生をあきらめ死をあきらむるは仏家一大事の因縁なり

                                   『正法眼蔵』永平道元

     

     先月の続きを書きます。

    以前曹洞宗の布教第一人者とも言われる盛田老師の講義で

    「宗教者は自らの生き死にの問題を明確にすべき」

    といった大意の言葉をいただきました。

    どう生きてどう死ぬのか、宗教はこの大命題に答えるためにあるのです。

    私の思う死生観を書きたいと思います。

     

     昔読んだ本の中に「六尺の病床これ道場なり」というエピソードがあります。

    あるところに病床に横たわる若い僧侶がいました。

    それを見舞った師匠が一枚の書付を枕元に置いていきました。

    それが「六尺の病床是道場なり」です。

    私にとって人生の範ともなっている言葉です。

     

     お釈迦様は布教の旅の中で、貴方も旅などせず畑を耕し作物を育てては?、との問いかけに、

    私は心の畑を耕すものなのだ、と答えられたそうです。

    仏教徒は、自らの、そして他者の心の畑を生涯耕すべく道を弁精進する人たちを言うのです。

    そしてそれは、いかなるところであっても取り組むことの出来るもので、たとえ病床に臥せっていてもなお務め励み精進することは出来るのです。

    私には上記のエピソードは、正に弟子を導く師匠の叱咤激励であるのだと聞こえます。

     

     近い言葉としてはがん哲学外来を開かれている樋野興夫先生の書かれた

    「明日この世を去るとしても、今日の花に水をあげましょう」

    という言葉が挙げられるでしょうか。

    曰く、がんとなり自分の未来を思うことが出来なくなると心が内向きになり萎れてしまう。

    そうした時には自分のこと以外に目を向けるべきだ。

    自分以外の大切なもの、気に掛けることが出来るものを見つけそのために時間を費やしてあげるべきだ。

    人間自分を大切にしすぎると色々なところで行き詰ってしまう。

    だから、自分以外に目を向けることで内向きとなった心の行き所を探すことが出来る、とのことです。

     

     お釈迦様は80歳で死の床に就き、最後まで集われた弟子方の為に教えを説いて、遂には自らの死に様をもって「これこそ私の最後の教え」とされました。

    最後まで「心の畑を耕すもの」であり続けたのです。

    私も及ばずながらお釈迦様の教えの上での孫子であります。

    法の孫として恥ずかしくないよう、受け継ぎ育み伝えていくべく努めることが私の「生死」です。

     

                                                            祥雲寺副住職 安藤淳之

     

    一人で修行を行おうとすると、怠けてしまったり後回しにしてしまい続かない場合もあります。

     

    ですがみんなで行えば、難しいことでも楽しく行えるはずです。

    この朝坐禅会はそのような場となるよう始めました。

    一日の始まりを迎えるこのひと時、ご一緒に「かろやかに」生きてみませんか?

     

    日時:9月24日(月)朝6時半~8時(途中参加、途中退出可)

    6時30分~7時10分(一回目の坐禅)

    7時20分~8時    (二回目の坐禅)

     

    場所:祥雲寺本堂一階

     

    用意:身一つで大丈夫です。

    足の組めない方は椅子での坐禅もできます。

     

    注意:初めての方は最初に指導を行います。

    その為可能ならば一回目の坐禅から参加されてください。

    また、祥雲寺では毎週水曜夜6時(第四水曜のみ休み)、雀宮布教所「善応院」にて坐禅会を行っています。

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