ごあいさつ

宇都宮市の祥雲寺は歴史のある曹洞宗のお寺です。
栃木県庁のすぐ北にあり、自然林の中には西国三十三番の観音像が祀られています。
また、樹齢350年を超える枝垂れ桜の老樹は県天然記念物として有名です。
たくさんの方々に仏教を親しんでいただくことを願いとし、様々な信仰行事を催しています。

ようこそおまいり

栃木 宇都宮 祥雲寺 | 桜や祭りが名物の寺

新着ブログ

  • 平成30年10月 観音朝詣りのお知らせ

    2018年10月17日

    本堂前での朝参り風景

     

     かつて電子計算機といわれたコンピュータは、進化してAI(人工知能)になりました。
     今朝(10月11日)のNHKテレビでAIを使った就職面接試験が紹介されていました。アメリカでNHKの記者が試しに受験した様子が写されました。評価は数値で表され、80数%の値が出ました。記者の感想には、機械に評価されることへの戸惑いが感じられました。

     このシステムの開発者は、人間による評価は先入観や好みなど個人的な指向に左右されやすいので、企業や組織が必要な人材を採るにはAIを導入するのがよいと話していました。ただ、開発者もAIのどのような判定の過程によって評価数値を出すのかは分からないそうです。

     人間を評価するという、本来人間によってのみなされなければな らないとされていたもの、最も人間的な分野にAIが入り込んできたのです。そして、残念ながら、このようなことはこれからどんどん増えていくと思います。

     かつて、コンピュータが人間に勝つことは不可能と言われた囲碁で、AIが世界最強棋士を破ったのは一昨年のことです。いまではAIが勝つのは当たり前と思われるようになりました。

     億、兆のさらに上の位の数の情報を処理する能力を持ち、人間の感情や価値観などもデータ化して処理します。

     AIは既に小説を書き、絵を描いています。医療診断にも導入され始めたそうですが、近い将来にAIの診断の方が医師の診断より信用されることになるでしょう。家事や、介護もAIで動くロボットがやります。

     人間より優れた能力を持ち正確で間違いが ない、そのように人間がAIを信用し、さらに言うことを聞いてくれて便利に使えると思い、AIの導入はますます進みます。

     しかし、本当にそれでいいのでしょうか。AIを使っているつもりで、実は使われ、支配されて行くのではないでしょうか。

     文学や美術は、人間の感性や価値観で捉えなければなりません。人間は死に、壊(こわ)れ行く生き物です。それだからこそ喜びも悲しみも意味があるのです。データ処理の機械とは決して馴染むことのない一線があるのです。

     平成30年10月15日
        宇都宮市東戸祭1-1-16      祥雲寺住職  安藤明之

    十八日の朝詣りは午前6時から行います。

  • 30年9月 朝坐禅会「指月の会」案内

    2018年9月22日

    曼珠沙華

    生をあきらめ死をあきらむるは仏家一大事の因縁なり

                                   『正法眼蔵』永平道元

     

     先月の続きを書きます。

    以前曹洞宗の布教第一人者とも言われる盛田老師の講義で

    「宗教者は自らの生き死にの問題を明確にすべき」

    といった大意の言葉をいただきました。

    どう生きてどう死ぬのか、宗教はこの大命題に答えるためにあるのです。

    私の思う死生観を書きたいと思います。

     

     昔読んだ本の中に「六尺の病床これ道場なり」というエピソードがあります。

    あるところに病床に横たわる若い僧侶がいました。

    それを見舞った師匠が一枚の書付を枕元に置いていきました。

    それが「六尺の病床是道場なり」です。

    私にとって人生の範ともなっている言葉です。

     

     お釈迦様は布教の旅の中で、貴方も旅などせず畑を耕し作物を育てては?、との問いかけに、

    私は心の畑を耕すものなのだ、と答えられたそうです。

    仏教徒は、自らの、そして他者の心の畑を生涯耕すべく道を弁精進する人たちを言うのです。

    そしてそれは、いかなるところであっても取り組むことの出来るもので、たとえ病床に臥せっていてもなお務め励み精進することは出来るのです。

    私には上記のエピソードは、正に弟子を導く師匠の叱咤激励であるのだと聞こえます。

     

     近い言葉としてはがん哲学外来を開かれている樋野興夫先生の書かれた

    「明日この世を去るとしても、今日の花に水をあげましょう」

    という言葉が挙げられるでしょうか。

    曰く、がんとなり自分の未来を思うことが出来なくなると心が内向きになり萎れてしまう。

    そうした時には自分のこと以外に目を向けるべきだ。

    自分以外の大切なもの、気に掛けることが出来るものを見つけそのために時間を費やしてあげるべきだ。

    人間自分を大切にしすぎると色々なところで行き詰ってしまう。

    だから、自分以外に目を向けることで内向きとなった心の行き所を探すことが出来る、とのことです。

     

     お釈迦様は80歳で死の床に就き、最後まで集われた弟子方の為に教えを説いて、遂には自らの死に様をもって「これこそ私の最後の教え」とされました。

    最後まで「心の畑を耕すもの」であり続けたのです。

    私も及ばずながらお釈迦様の教えの上での孫子であります。

    法の孫として恥ずかしくないよう、受け継ぎ育み伝えていくべく努めることが私の「生死」です。

     

                                                            祥雲寺副住職 安藤淳之

     

    一人で修行を行おうとすると、怠けてしまったり後回しにしてしまい続かない場合もあります。

     

    ですがみんなで行えば、難しいことでも楽しく行えるはずです。

    この朝坐禅会はそのような場となるよう始めました。

    一日の始まりを迎えるこのひと時、ご一緒に「かろやかに」生きてみませんか?

     

    日時:9月24日(月)朝6時半~8時(途中参加、途中退出可)

    6時30分~7時10分(一回目の坐禅)

    7時20分~8時    (二回目の坐禅)

     

    場所:祥雲寺本堂一階

     

    用意:身一つで大丈夫です。

    足の組めない方は椅子での坐禅もできます。

     

    注意:初めての方は最初に指導を行います。

    その為可能ならば一回目の坐禅から参加されてください。

    また、祥雲寺では毎週水曜夜6時(第四水曜のみ休み)、雀宮布教所「善応院」にて坐禅会を行っています。

  • 平成30年9月 観音朝詣りのお知らせ

    2018年9月17日

    山形の日光参拝旅行団が祥雲寺に寄られお参りされました。

    祥雲寺住職と修行時代を共にした方だそうです。

    本堂裏手の羅漢渓にて。 先日10日放映のドラマロケの現場になりました。

     

     

     今年は災害の多い年です。

    7月の西日本豪雨、9月に台風21号の猛威、すぐ続いて北海道の地震です。

     

     9月6日のテレビには、空から撮った震源地の映像が映されました。

    山々の斜面が至る所で崩れ落ちているのを見て、アナウンサーが「これ全部けさ崩れたんですか」と問いかけていました。

    私もにわかには信じられませんでした。

     

     日本列島は、自然の恵みに満ちています。

    山は森に覆われ動物も植物も多種多様、海は世界四大漁場といわれて魚をはじめ海産物が豊か、野も長年の丹精によって造られた耕作地が広がります。

    世界でもまれな豊かな島々です。

    日本人はこの恵みを受けて命を繋いできました。

     

     しかし時至れば、山は火を噴き、地は震い、海からは大波が押し寄せてくる。

    本年のように天災が続くと、人間は自然には逆らえないことを実感します。

     

     カミ(神様)とは、自然の奥に人間を超えた力があると日本人が感じ、それを神聖なものとして表した言葉です。

    カミ(神様)に対しては、恐れ敬い畏(かしこ)み謹んで、幸せをもたらしたまえと祈ってきました。

    日本に生まれた神道は、まさしく自然崇拝の宗教です。

     

     このような宗教を持つことは、人間の心のはたらきとして自然なことではないでしょうか。

    人間は自然の中から生まれたものなのですから。

     

     自然が美しく、四季折々の変化に富み、恵みも災いももたらす、そんな風土にいのちを営んできた日本人にふさわしい宗教のあり方だと思います。

     

     仏教が日本に伝わり、神道と争うことなく、一体となった歴史を刻んできたのは、基本となる生命観、自然観がそれほど離れたものでなかったからです。

    仏教は、我々を取りまく自然を、仏様の被造物とするような考えを持ちません。

    私達は自然の一部であり、一体のものです。

     

     お釈迦様は、私達が目にする世界だけでなく、人間には捉えられない世界も含めてそれを貫く真理を悟られて、その悟りの境地から人間の生き方を説かれました。

     

     自然と調和して生きることは仏教の教えでもあるのです。

     

     平成30年9月15日 

                                          祥雲寺住職 安藤明之

     

    十八日の朝詣りは午前6時から行います。

  • 平成30年8月29日 大施餓鬼会

    2018年9月2日

    毎年8月29日は祥雲寺の施餓鬼の日になります。

    一年に一度の、全檀家さんの供養法要ですので準備も5月から行ってきました。

    今年は7月から8月の始めが特に暑かったので注意していましたが

    幸いこの日は少し雨が降るくらいの曇り空で暑さも程々、大勢の檀家さんを迎えるのに問題ない天候になってくれました。

     

     

    施餓鬼棚。このサイズのマコモがどこにも売っていないので困りものです。

    檀信徒交流会。一年の行事報告や伽藍修繕などを検討します。

    午後の最初は法話。山形の三部義道老師に御法話をお願いしています。

    法話終わって施餓鬼の法要。仏さまにお供えをしています。

    本尊様への焼香。

    切り替わって施餓鬼棚を向いての法要。 これが終わると祥雲寺も秋模様に切り替わっていきます。

  • 30年8月 朝坐禅会「指月の会」案内

    2018年8月26日

    8月16日、送り盆。本堂の前では午前中送り火を焚いています。

     

    羅漢渓では蓮がそろそろ見頃の終わりを迎えています。

     

    生をあきらめ死をあきらむるは仏家一大事の因縁なり

                               『正法眼蔵』永平道元

     

    先日座禅会にて、葬儀の現代化について参加者から話が出ていました。

    聞くところでは、ロボットに僧侶の装束をさせてお経や法話を再生させ、木魚や鐘をならして法事を代行するサービスの展示なるものが行われていたそうです。

    そうした代行業者に葬儀法要の仕事をもって行かれたら収入がなくなってしまうのでは無いのか、と聞かれることもありますが、私はあまり心配していません。

    駒沢の安藤嘉則教授の講義によれば、全国の数多の寺院は、集落として力を持ってきた全国の村々で弔いをしてほしいという要望を受けて僧侶が求められたからこそあるのだそうです。

    そして、僧侶にお弔いが依頼されたのは、「如何に生きるか(如何に死ぬか)」という人生の命題に同じ人間として取り組んだ人なればこそだと思っています。

    ロボットのマニュアル再生のお話、あるいは発展すればAIによって臨機応変な法話といったものも将来あり得るのかもしれませんが、そこには同じ人間だからこそ相通じる「共感」があり得る物ではありません。

    そんなことを心配するならば、自らの精進を如何に人に聞きやすく説けるかを悩むべき、というのが私の思うところです。

                       祥雲寺副住職 安藤淳之

     

    一人で修行を行おうとすると、怠けてしまったり後回しにしてしまい続かない場合もあります。
    ですがみんなで行えば、難しいことでも楽しく行えるはずです。
    この朝坐禅会はそのような場となるよう始めました。
    一日の始まりを迎えるこのひと時、ご一緒に「かろやかに」生きてみませんか?

    日時:8月27日(月)朝6時半~8時(途中参加、途中退出可)
    6時30分~7時10分(一回目の坐禅)
    7時20分~8時    (二回目の坐禅)

    場所:祥雲寺本堂一階

    用意:身一つで大丈夫です。
    足の組めない方は椅子での坐禅もできます。

    注意:初めての方は最初に指導を行います。
    その為可能ならば一回目の坐禅から参加されてください。
    また、祥雲寺では毎週水曜夜6時(第四水曜のみ休み)、雀宮布教所「善応院」にて坐禅会を行っています。

祥雲寺行事案内

祥雲寺で行ってる月例行事や年間行事、その他法要・祭りなどについてのご案内です。 行事カレンダーもご確認ください。