2021年5月19日
仏教学者の奈良康明先生は、人間の苦しみは結局のところ「ないものをねだり」「限りなくねだ」って、欲求不満におちいるところから生じると言われました。
人間の持つ「欲」「執着」が苦しみの原因であるということです。
朝詣りでお唱えする延命十句観音経に「常楽我浄」という経文があります。
実は二重の意味を持つ教えです。
まず、四つの誤った考え方として説かれます。
すなわち、
この世のすべては移ろい変わりゆく無常なるものであるのに永遠不滅なものを追い求めようとすること。(常)
無常であるからすべては自分の思い通りにならない苦しみであるのに刹那の楽に溺れてしまうこと。(楽)
無常であるから自己も常に変わりゆくものであるのに、永遠不滅の自己があると勘違いして自己中心になること。(我)
すべてのものは腐り壊れて行くものであるのに、一時の美しさ清らかさを永遠不滅と錯覚し追い求めること。(浄)
これらは自己中心の欲望と執着によって生まれた四つのひっくり返った考えであり苦しみの本になっているのだから、現実をありのままに見て正しい考えに戻さなければならないと、お釈迦様は説かれました。
欲望と執着を離れるとどうなるのか。
無常の世は常にすべてが新しくなります。
人生は、人それぞれの行いとそれに関わる縁から生まれます。
そうすると人生とは出会いです。
出会いが喜びであり素晴らしいものであったら、いつまでもそれが続けと執着するのではなく、それに恵まれたことを感謝すればいい。
その時、喜びは無常の理(ことわり)から放たれて、その人の人生で無上のものとなります。
自分自身も常に変わってゆきます。
できあがっている自己に執着するのではなく、未来に希望を持ち今を一所懸命に生きるのです。
そこには自己の否定ではなく、今あることへの感謝があります。
美しいもの、魂を震わせるものに出会ったら、感動に身心を任せればよい。
変わりゆくもの、壊れゆくものの一番素晴らしいときに出会ったのですから。
以上が延命十句観音経の「常楽我浄」の意味です。
令和3年5月15日
宇都宮市東戸祭1-1 祥雲寺住職 安藤明之
十八日の朝詣りは午前6時から行います。