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令和8年7月 朝坐禅会「指月の会」案内(7月27日朝6時半より)
2026年7月26日自佗は時に随うて無窮なり、海の水を辞せざるは同事なり、是の故に能く水聚りて海となるなり。
(自己と他者の関係は時の流れに随って関わりあいながら限りなく続いていくものなのである。海が水を拒まない、こういうことも同事である。海は水を拒まないから、水が集まって海となるのである。) 『修証義・同時行』
先日健康の森で行われたグリーフケアについてのシンポジウムに参加してきました。
グリーフというのは喪失を意味する言葉で、死別の悲しみを主にして、DVやセクシャルハラスメント等の尊厳の毀損喪失、資産の盗難損失、ペットロス等失うことに起因する悲しみ喪失感へのケアが年々重用になっているとの事です。
資料映像の中でグリーフケア研究の大学教授が言われていたのが
「近年になって死別の喪失感、心理負担への対処の必要性が取り上げられグリーフケアへの研究取り組みが広まってきた。
旧来は地縁や血縁、伝統宗教など周囲との繋がり共同体で行われてきたしきたりや慣習の中でケアがなされてきた。
近年はこれらが薄れ人間関係が希薄化し、孤独孤立していって悲嘆が深まりカウンセリングなどの対処が求められるようになっている。
悲しみを支え合う関係が必要であり、安らぎの場が求められる。」
お寺のお葬式翌日の初七日の際、ケースバイケースではありますが、忌中の勤め方と併せて私なりの喪失、グリーフの体験をお話しする時があります。
少し要約してお話しします。
「葬式後の四十九日迄の忌中の期間は追善供養を心掛ける。
私の法話の師匠は、追善供養というのは亡くなった人を仏さまとして頂き、自分の人生の導き手として生かしていくのが、最も良い追善供養となるのだ、とお話しになっていました。
十年程前、大変親しくしていた親戚の叔父さんとご近所のお寺さんが立て続けに亡くなられて、一月ほど鬱々とした、寂しさが拭えない日が続きました。
ある日の朝のお勤めの中で、失われ無くなってしまった事を見続けていても、悲しみから目線が動かなくて心が萎れてしまう、悲しみばかりを見続けるのではなくて、残されている、今ある御縁をこそ大切にするべきだ、という心の転換がありました。
では今ある御縁を大切にするとは何か?と自問すると、そちらはすぐに答えが出ました。
亡くなられたお二人が私にしてくれた、良かった事有り難かった事嬉しかった事を接する人にしてあげられたならば、この上なく大切にする事ではなかろうか。
それ以来、お寺に来られる方にお二人にしてもらった事を思い出しながら接すると、少し寂しさが和らいだような気持ちになり、お二人を身近に感じられて、上記の師匠の言っていた言葉はこういうことなのかと思うようになりました。
これは私なりの実例で、全てに適応できるものではありません。
人それぞれの関係性が有り、納得出来る筋道は個々で全く違うものです。
忌中の期間とは、供養を通して故人と向き合い、御縁を振り返り整理していく期間なのでしょう。
悲しいという気持ちは、愛すればこその裏返しであるはずで。
いつの日にか、悲しい記憶を感謝の思いで振り返られる様に、日々ご供養して頂きたいと思います。
私には理想型があります。
大震災の春にボランティアで東北に居た際、田舎の方に行くほどに、避難所の空気が雰囲気が良くなっていったのを目の当たりにしました。
悲しみを慰め合い支え合える繋がりは、こんなにも心を助けてくれるのだと教えて貰いました。
願わくはお寺での活動や交流が、助け合い支え合える御縁の一助となる様励んでいきたいです。
祥雲寺 安藤淳之
偏りのない、こだわりのない、囚われのない時間。
欲から離れた、我を起点としない時間。これがそのまま非思量、ほとけ心に生きられる修行です。
我を離れることの出来る閑かな時間、坐禅の時間を御一緒にいかがですか?
当分の間は6時半開始、一炷(坐禅一座)のみとなります。初めての方は15分前に来てください。来月の開催は8月24日となります。また、雀宮善応院坐禅会は第四水曜日以外毎週行っています -
令和8年6月 朝坐禅会「指月の会」案内(6月22日朝6時半より)
2026年6月21日迷うが故に三界は城 悟るが故に十方は空 洋に東西は無く 何処んぞ南北か有らん
(迷い悩む心には世界は重く堅く閉じ込める城壁の様にも映るが
放たれてみれば世界には遮り縛るものなど元から無い
本来、世界には方角も境界も定められたるものなどは無い
一体何処に、縛られ囚われるべきものがあるというのだ) 「四句の祈り」
先月は警句を紹介するお話をしましたが、簡潔な言葉に仏教の教えを表したもの、己の見解、境地を説き示したものには様々有ります。
本当に沢山有って紹介しきれない程有りますが、わけても有名なもの、記憶に残っているものを挙げるならば、私にとってはこの四句の祈り、と呼ばれる言葉が出てきます。
昔四国でお遍路を行ったとき、お遍路さんの白装束の笠に書かれていたのが最初に見た物です。
お遍路は四国を一周する88の霊場で、弘法大師空海にゆかりのある場所を巡る巡礼の道です。
所説有りますが弘法大師は四国出身とも言われ、山岳に親しんだお人柄から山がちな四国の随所に由縁の霊場が有り、お大師様に近づけるようにと昔から多くの人がこの霊場詣りをしてきました。
私は他宗の人間ですが、昔二番目の修行寺に居て足を骨折して中途半端な形で修行を終えた悔いがあったので、リハビリがてら僧侶らしいことに打ち込みたいと歩き遍路に挑戦してみたのです。
気合いを入れるため行脚姿、昔ながらの旅のお坊さんスタイルで歩き始めたのですが、徳島の一番札所から十番までの30㎞ほど歩いただけで足にマメが出来、翌日は宿で休んでしまいました。
普段から趣味で歩いていた山歩きとは事情が違い、遍路道は7割以上舗装道路を歩くもので、コンクリートの道は足への負荷が大きいのです。
針と糸と消毒液でマメの処置をして山を越えたら、今度は股ずれでももが傷んできました。
さすがにふんどしでは無かったですが時代劇の飛脚のように着物の裾を上げて歩いていたので、内ももがすれて傷んだところをテーピングテープでぐるぐる巻きにして徳島市街地に下りました。
徳島市を出て南下する辺りから車道を歩くことが多く、今度はトラックとすれ違う度強風で笠が持って行かれ、遂には笠の骨が折れてやはりテープで補強し、車の影が見える度手で押さえて耐える羽目になりました。
難儀も多かったですが有り難いこともあり、地元の人のお接待には本当に世話になりました。
田んぼの向こうを走っていた軽トラのおばちゃんが取って返してきてお布施して下さったりもして、大いに励まされたものです。
そして何処を歩いていてもうどんが美味しいのも四国ならではでした。
徳島を南下して高知に向かうと室戸岬が有ります。
右に山岳左に海しかない道を二日から三日程歩いて漸くつきます。
この岬にはみくろ洞という洞窟があり、弘法大師成道の地です。
著書の『三教指帰』に曰く
或る時一人の沙門あり、私に虚空蔵求問持法を示した。
私はこれを仏の真実の言葉と信じ、火花が散るような激しい修行に臨んだ。
山に分け入り、洞窟で一心不乱に修行に臨んだ。谷ひびきをおしまず、明星来影す。
修行を終えて洞窟を出てみれば、果ても無く空と海が広がっていて、そこから空海を名乗るようになったそうです。
四句の祈りは誰が書いたものかは伝わっていません。
ですが端的に仏教の道筋を示し表して、教えてくれています。
足摺岬の雄大な光景、澄み渡った大自然の景色は、あるがままにあることの素晴らしさを百万の言葉よりも雄弁に示してくれているようでした。
祥雲寺 安藤淳之
偏りのない、こだわりのない、囚われのない時間。
欲から離れた、我を起点としない時間。これがそのまま非思量、ほとけ心に生きられる修行です。
我を離れることの出来る閑かな時間、坐禅の時間を御一緒にいかがですか?
当分の間は6時半開始、一炷(坐禅一座)のみとなります。初めての方は15分前に来てください。来月の開催は7月27日となります。また、雀宮善応院坐禅会は第四水曜日以外毎週行っています -
令和8年5月、朝坐禅会「指月の会」案内(5月25日朝6時半より)
2026年5月24日人の一生に厄年はない 躍進の「やく」と考える
西国札所・観音正寺の警句
三月に全四回の西国三十三番観音霊場巡礼の団参旅行を完了できました。
祥雲寺は先々代住職、私の祖父が観音信仰に篤い人で、境内に西国札所のお参りが出来る様お砂踏みを整備しています。
私自身はまだ全てを巡礼で回ったことがなかったので、今回二十数名の参加者と共に二年がかりでお参りを完遂することが出来て、感無量です。
参加者同士も旅行を通じて仲を深められたようで、次の企画を要望頂き嬉しい限りです。
三月の第四回参拝旅行は京都北部若狭の28番札所に始まって、琵琶湖の竹生島を経由し湖東から岐阜に向かうルートで、琵琶湖湖岸の宿に宿泊しました。
温泉宿で風呂に入っていると、参加者間でこんな話が出ていました。
「自分はもう三十年昔の四十代で西国巡礼を行っていたが、厄年ということもあってか何となく鬱々としていたんだ。
明日行くお寺の境内に掲げられていた立て札に、「人の一生に厄年はない、躍進のやくと考える」と書かれていたのを見て何だかサッパリしたんだよ。」
警句という表現の言葉があります。
短い語句の中に、鋭い風刺や皮肉、独特の視点やユーモアを交えた印象的な言葉をいいます。
上記の言葉は観音正寺ことわざの道、として参道に三十三の語句の看板が並ぶ中での一句です。
他ではこんな語句が印象的でした。
楽なことを幸福と思っていては人生の深い喜びは味わえない
行き詰まりは環境のせいではない 自分の心の行き詰りである
その人を知らんとすれば その友を見よ
かけられている迷惑よりかけている迷惑は気づかない
人はあるもの粗末にし ないものを欲しがる
少ない語句の中で人の心の錯誤や筋道からの乖離、あるいは道理を回りくどくなくずばりと示すものもあって多種多様です。
言葉というのは短いもので在る方が記憶に残りやすく、心を動かす力をもつようです。
警句のキモは、わかりやすさです。
くどくどと意味を説明することなく直感的に理解や同意に到ることが出来る、優れた説法の形です。
東京の仏教伝道教会では「お寺の掲示板大賞」という形で全国の寺院から警句や標語を募ってコンテストを行っています。
ネットで見ることも出来るので興味ある方はご覧下さい。
私の最も記憶に残っている警句は修業時代の畏友が書いたものです。
江口天涯という埼玉で出家された方で、今は山梨で住職をしています。
福井武生の修行道場御誕生寺に掲げられました。
「世の中為になることを説く人は多いが、為にならないことを説く人は稀だ。
そういう人に出会ったら、観念するより他にない」
祥雲寺 安藤淳之
偏りのない、こだわりのない、囚われのない時間。
欲から離れた、我を起点としない時間。これがそのまま非思量、ほとけ心に生きられる修行です。
我を離れることの出来る閑かな時間、坐禅の時間を御一緒にいかがですか?
当分の間は6時半開始、一炷(坐禅一座)のみとなります。初めての方は15分前に来てください。来月の開催は6月22日となります。また、雀宮善応院坐禅会は第四水曜日以外毎週行っています -
令和8年4月 朝坐禅会「指月の会」案内(4月27日朝6時半より)
2026年4月26日この坐禅会も始まって十一年となります。
当初は東京の研修会で聞きつけた「朝活」というものを
市街地隣接の祥雲寺なら坐禅会として行えるのでは、
また修業時代の朝に坐禅する習慣を維持するためにも大勢で行じるならば
無精な私でも楽に、楽しくも出来るはず、と続けてきました。
初心を思い返し、最初の文章を今年も再掲します。
お前の苦しみを、じっと見つめてみよ。
誰々にののしられた、誰々により損害を受けた、
誰々に手ひどく負かされた、誰々に盗まれた、
という思いを抱いてはいないか。
その思いがすでに怨みであると知りなさい。
怨みを抱いた人生は重いものだ、安らぎというものがなくなってしまう。
いっさいの怨みを棄てよ。
今まで抱いてきたあれこれの思いをさっぱりと棄てよ。
棄てれば、必ず軽くなる。
棄てて、かろやかに生きなさい。
― 『スッタニパータ』第一章 ―
静かな所で何をするでもなく落ち着いて瞑想をすることで心身の調子が整う、という事は昔から広く知られ、行われてきました。
近年では科学的分析により血圧が下がる、海馬の機能が促進され脳内の情報整理がされる、精神安定に重要な働きをするセロトニンの生成が促される、等の効果が確認されているそうです。
しかし坐禅は、これらの効果を内包しながらも、何も求めないで只ひたすらに坐る事こそ最上のものである、と伝えられてきました。
私はそれは、「軽くなる」からだと思います。
人間生きていれば百人百様、様々な想いやしがらみを背負っているはずです。
古人は人生を「人の一生は重荷を負うて遠き道を行くが如し」と形容したそうですが、時には荷を下ろし、わが身を見つめ直す時間こそ忙しい現代人に必要な物だと思います。
一人で行おうとすると、怠けてしまったり後回しにしてしまい続かない場合もあります。ですがみんなで行えば、難しいことでも楽しく行えるはずです。
この朝座禅会はそのような場となる様発起しました。
皆さんと行うこの坐禅の一時が、「軽やかな」時間となることを願います。
祥雲寺 安藤淳之
偏りのない、こだわりのない、囚われのない時間。
欲から離れた、我を起点としない時間。これがそのまま非思量、ほとけ心に生きられる修行です。
我を離れることの出来る閑かな時間、坐禅の時間を御一緒にいかがですか?
当分の間は6時半開始、一炷(坐禅一座)のみとなります。初めての方は15分前に来てください。来月の開催は5月25日となります。また、雀宮善応院坐禅会は第四水曜日以外毎週行っています -
令和8年3月 朝坐禅会「指月の会」案内(3月16日朝6時半より)
2026年3月15日実相を証すれば人法無し(悟りの世界の視点から見るならば人間界の取り決めなど何もない)
『証道歌』
先月はカンボジアラオス参拝旅行に行ってきました。
アンコールワットなどの遺跡では石の仏さまが多かったですが、僧侶が修行してお参りされる寺院では金箔の本尊様が殆どでした。
東南アジアの仏教国では多くの仏さまが金色で、尊い方のお姿は輝いているものとの認識があるのでしょう。
これまでお参りした国でミャンマーなどは金の産出国ではありますが、お参りする仏塔(パゴダ)などに賽銭感覚で金箔を張り付ける習慣があり、ある寺院の仏像は金箔を張り付けられすぎて原型が解らなくなって、着膨れしたダルマさんみたいになっている所もありました。
日本でも願掛けにお像に縄をかけ、正月だかに縄を切り取る時だけお姿を顕す仏さまが先日テレビに映っていたので、方法の差こそあれ願いを託すという点では同じなのでしょう。
さて、こちら祥雲寺では毎月第四月曜日の朝にこうして朝坐禅会を行って十年になりますが、雀宮出張所善應院での毎週の坐禅会はもう二十年になります。
私が大本山での修行から帰ってすぐの頃から始め、小さい庵ながらそれなりに長く続けてこられました。
私が多少なりとも禅や仏教について説示できるのも、来られる方に時間を無駄にしたと思われないよう工夫せねばと苦心したからで、参加される方に鍛えていただいたお陰でもあります。
この善應院、10㎞南の雀宮にあるだけに常駐はできないので維持清掃には地元の参加者のご協力が欠かせず、お陰で檀務と平行しながら続けられているものです。
先週末に十年以上通われている方から電話があり、善應院の本尊の観音様を掃除していたらお顔を汚してしまったと謝罪をされてしまいました。
私にすれば謝罪されるよりも感謝が先に来るもので、お掃除頂いて助かっています、確認していませんが観音様は年月重ねた風格が出たかもしれないですね、とお返事しました。
宗教美術、事に仏像の類いは、それそのものの材質や彫刻彫像の技量、重ねた年月と由来で判断される価値や評価よりも、その姿が表現する印象、心の有り様こそが尊ばれるものであるはずです。
唐代宋代の中国の禅僧は大きな名刹に住職赴任する際の詩偈で、大きな本尊様よ貴方の教えは尊いがその大きな金ピカの姿を拝むのはまっぴらごめんです、と権威に盲従しない自由闊達な禅境を詠ったものが幾つもあります。
最近聞いたタイのお話に、仏教国で美術家を目指す若い女性がウルトラマンの姿をした仏陀の姿をアートとして発表して大きな社会的反響があったそうです。
最終的には非難の声が強くて、作者の女性が高僧に謝罪を述べる形で幕引きとなったそうですが、当の仏さまなら柳に風と流されたのではないかなぁ、なんて思いながら聞いていました。
毀誉褒貶は世の常で、そうした世の中の物差しから離れることこそが出家であるはずで、だから仏さまの姿は清浄無為の佇まいなのでしょう。
個々の色眼鏡、世間の物差しを離れるのが仏道。前も紹介しました内山興正老師のお言葉を借りるならば、のぼせが下がって正気の沙汰になった目でものを見る。
多生煤けてしまったとて仏は仏。
そう心から思える坐禅会とお話の時間を勤められるよう励んでいきたいです。
祥雲寺 安藤淳之
偏りのない、こだわりのない、囚われのない時間。
欲から離れた、我を起点としない時間。これがそのまま非思量、ほとけ心に生きられる修行です。
我を離れることの出来る閑かな時間、坐禅の時間を御一緒にいかがですか?
この指月坐禅会は第四月曜日朝に毎月行っています。当分の間は6時半開始、一炷(坐禅一座)のみとなります。初めての方は15分前に来てください。来月の開催は第四週4月27日月となります。また、雀宮善応院坐禅会は第四水曜日以外毎週行っています。





