ごあいさつ

宇都宮市の祥雲寺は歴史のある曹洞宗のお寺です。
栃木県庁のすぐ北にあり、自然林の中には西国三十三番の観音像が祀られています。
また、樹齢350年を超える枝垂れ桜の老樹は県天然記念物として有名です。
たくさんの方々に仏教を親しんでいただくことを願いとし、様々な信仰行事を催しています。

ようこそおまいり

座禅会 栃木県宇都宮市の祥雲寺(曹洞宗) | 桜や祭りが名物の寺

座禅会の記事

  • 令和6年4月 朝坐禅会「指月の会」案内(4月22日月曜朝6時半より)

    2024年4月20日


    本堂裏手新規墓地に咲く桜

    入鄽(にってん)垂手(すいしゅ)                 「十牛図」

     

     遂に私も骨董趣味に手を出しそうになりました。

    なんでも鑑定団に出てる趣味人の「ついついと~」をもう笑えませんね。

     

     デパートの催事に出ていた骨董屋が十牛図の茶碗を出していました。

    私は

    「買ったとしても何に使うのか?」

    「祖父の遺品で興味の薄い掛け軸や茶碗が押し入れ一杯に山になってるのに」

    「文人趣味に耽溺するのはほどほどにするべき」

    と煩悶して二時間行ったり来たりしてましたが、

    「話の種にすればいいじゃないか」

    と自分を納得させ売り場に行ってみれば買われて無くなっていました。

    良かったのやら悪かったのやら。

     

     十牛図というのは中国の禅僧が描いた、悟りに到ろうとする10の段階を示したものです。

    曹洞宗ではあまり用いられるものではなく、私は京極夏彦の『鉄鼠の檻』を読んで初めて知りました。

    悟りを牛に見立て、それを男が追い求める処から始まります。

    1枚目から6枚目で牛を求め、辿り、見つけ、捕まえ、ならし、連れ帰る。

    ここからが中々説明の付かないものですが、

    7枚目では牛を捕まえてきたことを忘れて、牛も忘れ去られる。

    8枚目では円相が描かれるのみとなり、ただ円かなるばかり。

    9枚目では無何有の山河が描かれ、全てはあるがままに美しい。

    10枚目では布袋様の様に福々しくなった男がまろやかな笑顔で人と接している。

     

     駒澤大学の先生は悟りによって問題が解決され問題意識そのものが無くなってしまったから牛は消え失せていると説明されていました。

    相対分別から脱け落ちてみれば全てはあるがままにまどかにある。

    作為も無く、有るべくして有るものは、ただそのままに素晴らしい。

    私は十枚目、入鄽垂手の絵を見る度に、我が坐禅の師、板橋禅師を思い出します。

    板橋禅師は出家し修行に励まれ、納得を得られた後福井の一寺院の住職になられました。

    しかし一人でいては怠け心が出てしまって修行にならないと、再び修行道場に戻られたのです。

    本山で指導役に任じられ、長じて禅師にまでなられましたが、

    本山の住職を退いても修行を離れることは無く、福井に御誕生寺を建立されて終生若い修行僧と共に修行生活に生きられました。

    ある先輩が禅師様を三毒、人を悩み惑わす煩悩、貪り怒り愚かしさから離れた人だと言っていたことがあります。

    禅師様は修行に臨む姿勢、その生涯その笑顔で、私に多くのことを教えてくださいました。

     

     茶器は他の手に渡りましたが、お示しは記憶と朝の座禅の習慣に生きています。

    スナフキンのように、物を持たない方が肩は軽いとうそぶくのも時には良いものでしょう。

     

                     祥雲寺 安藤淳之

     

    偏りのない、こだわりのない、囚われのない時間。

    欲から離れた、我を起点としない時間。これがそのまま非思量、ほとけ心に生きられる修行です。

    我を離れることの出来る閑かな時間、坐禅の時間を御一緒にいかがですか?

    当分の間は6時半開始、一炷(坐禅一座)のみとなります。
    初めての方は15分前に来てください。
    来月の開催は5月27日となります。
    また、雀宮善応院坐禅会は第四水曜日以外毎週行っています

     

  • 令和6年3月 朝坐禅会「指月の会」案内(3月25日朝6時半より)

    2024年3月24日

    3月11日、東日本震災慰霊供養塔にて

    智慧が輝き、慈悲が潤う                  『パーリ相応部』

     

     上記の言葉は大変古い仏教経典の言葉です。

    智慧と慈悲、仏教の中心となる両輪であり、ご本尊、お釈迦様の両側には脇士として智慧を表す文殊菩薩、慈悲を表す普賢菩薩が控えているものです。

     

     さて、先日読売新聞を見ていて「仏の教え AIが説く」という記事が出ていました。

    京都大学の教授である浄土真宗の住職が経典を機械学習させて対話型AIを作成しているそうです。

    曰く、現代の仏教は人々の悩みに答えられていない、誰でも仏の教えに接する事の出来るAIを開発したい。

    少子化での社会の縮小に対してもネットを活用した、寺院や布教活動の存続は考えられる。

    最新技術を用いて人の心の状態を解明し、安らぎや活力を増大させる社会の実現を目標とした計画も進んでいる。

    仏教経典は八万四千の法門とも言われる膨大な量があるが、AIなら全てを網羅し真の理解に近づけるかもしれない。

    とのこと。

    技術の発展というのは様々な難関をクリアしていくもののようで、不可能を可能にする進歩とは晴れやかなものなのでしょう。

    私も大学時代に、仏教学ゼミの提出物のために取り組んで挫折した原始経典の勉強も、これがあったなら話は違っていたかもしれないです。

    ただ記事に書かれているような「ブッダボット」という呼び名は改めて欲しいものです。

    敬意に欠ける呼び方に思えますし、商業的な扱いになればぞんざいにされてしまいそうと懸念します。

     

    以前東京の勉強会に出ていたとき、山梨のお坊さんがこんなことを言っていました。

    「葬祭業の展示会でペッパー君の様なロボットにお経を再生させ鐘と木魚を叩かせ、法話も過去の高僧の録音を流している。その内僧侶の仕事が奪われるのでは?」

    私は別の見方をするべきではないかと思ったものです。

    仏教は智慧の眼(まなこ)を開き、慈悲の心に生きる宗教です。

    私たちの体は柔らかく脆く、だからこそ育ち働き、それが故に枯れて亡くなっていきます。

    みんなみんな無常の道理の中で生きているんです。

    同じ喜びと悲しみを背負うともがらだからこそ、同じ目線で慈しみ、無常の道理を受け入れていく言葉をかけてあげられるのが僧侶であるはずです。

    ペッパー君やAIの再生する言葉にどれだけの人が共感できるというのでしょう。

    そこを心配するのではなく、どんな言葉で故人と遺族に向き合うかの言葉を磨くことにまず取り組むべき、なんて思いながら聞いていました。

     

    時代が進み技術が発展していく中、お寺のあり方や仏教への取り組み方も変わっていくのでしょう。

    布教の試験の際、ある老師に使命感を持て、とハッパをかけられたことが記憶に焼き付いています。

    お坊さんとしての使命を果たし、お寺を人々の良き仏縁の場として伝えていけるようこれからも取り組んでゆきます。

    祥雲寺 安藤淳之

     

     

    偏りのない、こだわりのない、囚われのない時間。

    欲から離れた、我を起点としない時間。これがそのまま非思量、ほとけ心に生きられる修行です。

    我を離れることの出来る閑かな時間、坐禅の時間を御一緒にいかがですか?

    当分の間は6時半開始、一炷(坐禅一座)のみとなります。
    初めての方は15分前に来てください。
    来月の開催は4月22日となります。
    また、雀宮善応院坐禅会は第四水曜日以外毎週行っています
  • 令和6年2月 朝坐禅会「指月の会」案内(2月26日6時半より)

    2024年2月25日

    紅梅白梅が見頃でしたが、先週からの空模様で大分散りました。 梅が散るとそろそろ桜の開花が間近に感じられます。

     

    仏性の戒珠心地に印す                  『証道歌』

     

     二月に入ってから多忙になり、中々掃除もままならない日々が続いています。

    なんとか春の彼岸迄には寺務関係の整理整頓を済まし、境内を整えていきたいところです。

     

    先日お葬儀に際して戒名を考案する際に、上記の文言を引用して作成しました。

    戒名というのは仏弟子となるにあたって授かるものです。

    俗世間の道理の中から離れ、無垢清浄の仏道に生き方を改めるに際して、その名前から改めるのが戒名授与、そして仏の教えそのものである仏戒を授かる授戒となります。

    お葬式とは、故人を仏として引導し、これからの道行きが清らかなることを願い祈る、授戒を行う儀礼です。

    故に戒名とは仏と成るにあたって授かる新しい名前なのですから、決して疎かに用意されるものではありません。

    故人の経歴、資質、徳行そして仏道をこれから歩む者への願い祈り、それらを勘案してつけられる宗教上の名前となります。

     

     戒名を作成する際、経典や祖録を出典に準備することはよくあります。

    上記の文章の出典である『証道歌』は中国禅宗の古いお経で、禅の心悟りの境地を数十の詩の形で歌い上げたものです。

    祥雲寺では三十三回忌の供養収めの際に参列者と御一緒に読経し、また新住職の就任式である晋山式では、本堂前に立てる大塔婆に別の一節を書き記しました。

    証道歌から用いようと内容の吟味検討に資料を漁っていたら、こんな解説に行き当たりました。

    「のぼせが下がった生命。是が仏性です。

     『正法眼蔵随聞記』にも「坐禅は自己の正体なり」という言葉がある。

     自己の正体とは正気の沙汰ということです。

     坐禅することがそのまま仏さまになることだというのは、坐禅することでのぼせが下がって正気の沙汰になるからです。

     ~中略~ 坐禅というのは、うっかりすると居眠りができるほど解放されて、しかもはっきり覚めているということが大切です。

     この覚めて生き生きしているのが仏性で、そういうのぼせの下がった生命になることを「授戒」という。

     戒といえはすぐ「あれをしてはいけない、これをしてはいけない」と思いがちだが、そういうことではない。

     ~中略~ 戒律を授かるとは、仏さまから伝わっているほんとうの自己の正体、のぼせが下がった生命に目覚めるということです。

     そういう達磨所伝の心、心地に落ち着くことがすなわち「仏性の戒珠心地に印す」です。」

    この解説文は内山興正老師の『禅の心悟りのうたー証道歌を味わう』からの抜粋です。

    昔の禅僧らしい、自己の到った見地を元に話されるので、自由闊達で地に足就いた、腑に落ちやすい説明です。

     

     故人は若い頃のご苦労が良い仁徳に実り、裏表無く真心で接する徳を育まれ、だからなのか虚心坦懐に多くの人と交友していたことに由来して引用しました。

    もって故人の冥福を祈る一助となれば幸いに思います。

  • 令和6年1月 朝坐禅会「指月の会」案内(1月22日朝6時半より)

    2024年1月21日

    11月結制の際の行列出立処。檀家の代表を勤めて頂きました。

    いっさいの怨みを棄てよ。

    今まで抱いてきたあれこれの思いをさっぱりと棄てよ。

    棄てれば、必ず軽くなる。                 『スッタニパータ』

     

     先日ある方のお宅にお伺いしたとき、引きこもりになっている息子さんと少しお話をしました。

    曰く、職場でいじめに近い扱いを受け、疲れてしまったのだと。

    親御さんも当然心配されているので、どうにかならないかという期待の籠もった視線が感じられました。

    私も東日本大震災でボランティアをしていた時等で傾聴活動の為避難所を廻ったりしていました。

    お坊さんだからこその安心感をもって貰いやすいからとの要望が複数あったものです。

    その時にまとめ役の方からよく言われたのが

    「君たちが問題を解決しようとするものではない。

     私たちがやるのはお話に真摯に耳を傾けること。

     誰かに話したい、聞いて欲しい、そうした要望に丁寧に寄り添うことだ。

     社会的な物は別にして、個人的ななやみや問題は結局は当人にしか解決は出来ない。

     私たちに出来るのは自分で問題に向き合えるようにアシストすることなんだ」

    今でも良く憶えています。

     

     お話をご家族から聞く中で、お母さんから心に抱えてしまう物をどうやり過ごすのか、何か秘訣はないかと聞かれました。

    若干悩んでしまう問いです。容易に答えられる物ではありません。

    昔ある席で20年経っても怨みは無くならない、骨になって墓に入るまで消え去らない、と吐露されたこともありました。

    それでも、胸に抱えた怒りや怨みは沢山の物を損なってゆきます。

    抱えている限り、思いに焼かれて疲れてしまいます。

    上記の言葉は、お釈迦様がスッタニパータという経典で説かれている言葉です。

    お前の苦しみを、じっと見つめてみよ。

    誰々にののしられた、誰々により損害を受けた、

    誰々に手ひどく負かされた、誰々に盗まれた、

    という思いを抱いてはいないか。

    その思いがすでに怨みであると知りなさい。

    怨みを抱いた人生は重いものだ、安らぎというものがなくなってしまう。

    いっさいの怨みを棄てよ。

    今まで抱いてきたあれこれの思いをさっぱりと棄てよ。

    棄てれば、必ず軽くなる。

    棄てて、かろやかに生きなさい。

    どう捨てるのか、捨てる手法として、個人的には趣味の山歩きかサイクリングがありますが、お坊さんとしてお勧めするのはやはり坐禅です。

    坐禅は、身を正し呼吸を正す、それだけに集中し没入していると、波風経っていた自分がいつしか正されて静かになっていきます。何もしない何も考えないことに没頭するのです。

    私は坐禅は様々抱えてしまう物から自由になるものだと思っています。

    今回の事はどうなるか解りませんが、機会が合えば、一緒に坐りませんかとお誘いしたいです。

                                祥雲寺 安藤淳之

     

     

    偏りのない、こだわりのない、囚われのない時間。

    欲から離れた、我を起点としない時間。これがそのまま非思量、ほとけ心に生きられる修行です。

    我を離れることの出来る閑かな時間、坐禅の時間を御一緒にいかがですか?

    当分の間は6時半開始、一炷(坐禅一座)のみとなります。
    初めての方は15分前に来てください。
    来月の開催は2月26日となります。
    また、雀宮善応院坐禅会は第四水曜日以外毎週行っています

     

  • 令和5年12月 朝坐禅会「指月の会」のご案内(12月25日朝6時半より)

    2023年12月24日

    秋の彩りの水子地蔵と観音様

    諸法無我

                        「四法印」

     

     11月の晋山結制が終わりましたが、檀務や雑事が多く未だに後片付けが終わりません。

    何とか年内には綺麗に片付けて、平常に戻したいものです。

     

     せわしなくしていたら、いよいよ今年最後の坐禅会になりました。

    お坊さんとしての節目を越え、年の瀬を迎える機会ですので、私なりの仏道というか僧侶としてのまとめの話をしてみたいと思います。

     

     私は祥雲寺に生まれ育ちましたが、お寺のことには殆ど携わらずに育ちました。

    般若心経くらいは読めましたが、正座は大嫌いで、周囲からなんとはなしに向けられる跡継ぎのプレッシャーには見て見ぬふりをして、そのくせ入った宗立の駒澤大学で体験した坐禅は退屈極まりないものでした。

    それでも卒業の年となり、駒沢公園で沈む夕日を眺めながら、期待に応えないわけにはいかないからと僧侶になることを決めました。

    そんな程度の覚悟しか無かったので、永平寺での修行は最初ひたすら辛かったです。

    仲間の助けが無かったら多分挫折していたでしょう。

    大学四年間、勉強より没頭した少林寺拳法で培った体力で何とかこなし、半年を乗り切りました。

    そうして12月になり、お釈迦様が悟りを開かれた成道会に行われる蝋八大摂心(1週間の坐禅行)で、私は仏心に見えました。

    坐禅というのは、形ばかりの物では無く、私たちがどうしても抱え囚われてしまう悩み苦しみを解きうるものなのだと知ることが出来ました。

    達磨大師の言われる、私たちの心こそがほとけなのだと見ることが出来ました。

    やり過ごそうとするばかりだった私には、この時から本当の意味での修行が始まったのです。

     

     上記の四法印とは、仏教思想の根幹となる四つの教えで、その中の一つが諸法無我です。

    「私」なんてものは無い、ということです。

    永平寺での修行は集団生活で、だからこそ多人数で寝食を共にすることからくるストレスがあります。

    しかし集団生活で自分を優先しようとする我を張ることこそが、苦しみの原因であると解るのも修行のありがたさでありました。

    自分で自分にしがみついて、その故に辛い苦しい重たいと喚いていた自分がそこには居たのです。

    それを見つけ、解り、我を離れていくことこそが修行だったのです。

     

     私は仏道というのは、ほとけごころに安住する事が出来る人生の歩み方だと思っています。

    それは刑事ドラマや時代劇であるような情け深さなどではなく、

    欲や自意識と言った重い物を離れ、拘り囚われから解き放たれて、軽やかで縛られない心で生きる事です。

    我が坐禅の師、福井御誕生寺の板橋禅師はそれをこんな言葉で表現していました。

    かたよらない心

    こだわらない心

    とらわれない心

    広く広くもっと広く

    これがお釈迦様の心なり

     

    これが仏教を信じる、行ずる喜びで、だから私は多くの人に仏教を、坐禅をこれからも勧めていきたいと思っています。

    祥雲寺 安藤淳之

     

    偏りのない、こだわりのない、囚われのない時間。

    欲から離れた、我を起点としない時間。これがそのまま非思量、ほとけ心に生きられる修行です。

    我を離れることの出来る閑かな時間、坐禅の時間を御一緒にいかがですか?

    当分の間は6時半開始、一炷(坐禅一座)のみとなります。
    初めての方は15分前に来てください。
    来月の開催は1月22日となります。
    また、雀宮善応院坐禅会は第四水曜日以外毎週行っています

     

祥雲寺行事案内

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