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29年3月 月例早朝坐禅会「指月の会」案内
2017年3月26日旧本堂としだれ桜。もうじき開花です。
『只管打坐』 道元禅師
最近、鎌倉の臨済宗のお寺にこの春から修行に行く方とお話しする機会がありました。
他宗の方とのお話は、やはり常にない視点を意識できるためか考えされられる点を多く見つけられます。
私が福井御誕生寺にいた時分、作家で臨済宗の玄侑宗久師が拝登され、お話を聞く機会がありました。
「曹洞宗は黙照禅、臨済宗は公案禅の違いがある。
臨済の公案禅を修行した私からすれば、曹洞宗は道元禅師の残した『只管打坐』という巨大な公案に取り組んでいる、という風に受け取れる」
といったお話が記憶に残っています。
坐禅会で坐禅の説明をするとき、「目的意識を持ち込まない」ことを強調してお話ししています。
経験則上、「~を達成しよう」的な目標達成を意識した坐禅は、清々しさが損なわれている場合が多いです。
あまり正確な情報ではないですが、外国で様々な現場で取り入れられたマインドフルネスが、期待通りにいっていない、という話を聞くのはここが理由ではないかと思います。
坐禅はこの身一つ、裸の命になって行うものです。
坐禅を行う時、これまで培ってきたもの得てきたものは不要となります。
だからこそ終わった時の清々しさ、軽やかさがあるのでしょう。
『只管打坐』という教えの要諦はそこにあるのではないか、検証している最中であります。
祥雲寺副住職 安藤淳之
一人で修行を行おうとすると、怠けてしまったり後回しにしてしまい続かない場合もあります。
ですがみんなで行えば、難しいことでも楽しく行えるはずです。
この朝坐禅会はそのような場となるよう始めました。
一日の始まりを迎えるこのひと時、ご一緒に「かろやかに」生きてみませんか?
日時:3月27日(月)朝6時半~8時(途中参加、途中退出可) 既に終了
6時30分~7時10分(一回目の坐禅)
7時20分~8時(二回目の坐禅)
場所:祥雲寺本堂一階
用意:身一つで大丈夫です。
足の組めない方は椅子での坐禅もできます。
また、祥雲寺では毎週水曜夜6時(第四水曜のみ休み)、雀宮布教所「善応院」にて坐禅会を行っています。
次々回の指月坐禅会は4月24日となります。
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29年2月 月例早朝坐禅会「指月の会」案内
2017年2月26日クシナガラ涅槃堂(釈尊臨終の地)
涅槃仏前で読経
祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり、沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理を表す。
『平家物語』
冒頭の文はおそらく日本人なら誰しもが聞いたことのあるものでしょう。
平家物語の書き出しの部分です。
失われるものへの哀悼、もののあわれをうたった古今に渡る名文ですが、
この文章の後半は、お釈迦様が亡くなられるシーンを描写してもいるのです。
お釈迦様は2月の15日、満月の夜、二本の沙羅の木(沙羅双樹)の間に横になられて、大勢のお弟子方に見守られながら最後の時を迎えました。
臨終の床の中、自らの教えが正しくお弟子方に伝わっているか、法を説き確認をされてから涅槃に入られました。
この時に説かれた教えの中で最も有名なものが「自灯明、法灯明」です。
教え導くもの(釈尊)がいない、迷いの暗がりの中に生きねばならなくても、
精進して良く整えられ理性に目覚めた真実の自己を灯火(頼り)として、
お釈迦様がこれまで説いてこられた真理、法を灯火(頼り)として、
迷いの暗がりを照らし歩みなさい。
2月はお釈迦様が亡くなられた月です。
この月は1日から15日まで、お寺では釈尊の遺言の教えである『遺経』を毎晩読み、この教えを確認して精進しています。
頼ることの出来る自己で有る様に「良く整える」ことこそ、坐禅をはじめとする修行の大切な役割なのです。
余談ながら、昨年インドの祇園精舎にお参りした時に、祇園精舎の近くに日本から寄贈された建物があるのを見つけました。
見てみると中には大きな鐘がありました。
聞いてみると、「祇園精舎に鐘がないのはおかしい」と言った日本人が寄贈した、だそうです。
昔は想像の中だけでしかなかった祇園精舎の鐘も、今は実際に聞くことが出来るようになっていて、平家物語の作者もまさか自
分の筆がこのような結果につながるとは思わなかったことでしょう。
祥雲寺副住職 安藤淳之
一人で修行を行おうとすると、怠けてしまったり後回しにしてしまい続かない場合もあります。
ですがみんなで行えば、難しいことでも楽しく行えるはずです。
この朝坐禅会はそのような場となるよう始めました。
一日の始まりを迎えるこのひと時、ご一緒に「かろやかに」生きてみませんか?
日時:2月27日(月)朝6時半~8時(途中参加、途中退出可) 既に終了
6時30分~7時10分(一回目の坐禅)
7時20分~8時(二回目の坐禅)
場所:祥雲寺本堂一階
用意:身一つで大丈夫です。
足の組めない方は椅子での坐禅もできます。
また、祥雲寺では毎週水曜夜6時(第四水曜のみ休み)、雀宮布教所「善応院」にて坐禅会を行っています。
次々回の指月坐禅会は3月27日となります。
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29年1月 月例早朝坐禅会「指月の会」案内
2017年1月28日暫く不在で当日前に更新できませんでしたが、遅ればせながら載せておきたいと思います
「お前は月が二つあることを知っているか?」(「汝、月に両箇有ることを知るや」)
両箇の月『峨山禅師行状』
新年おめでとうございます。
今年も指月坐禅会を参加者の方達と続けていけるよう頑張りたいと思います。
さて、当坐禅会は「月」の字を題にのせています。
禅宗では昔から、悟りの境地、真理を夜空に皓皓と輝く月に喩え、様々な語句に用いてきました。
普遍的なもの、唯一的なもの、円満なる境地の象徴として月よりふさわしいものは無いからです。
そんな中、その月の唯一性に疑問を投げかけた禅問答が上記の『両箇の月』です。
曹洞宗の大本山總持寺の初代瑩山禅師のもとで二代目となる峨山禅師が修行されていた時にこんな問答があったそうです。
瑩山「お前は月が二つあることを知っているか?」
峨山「わかりません」
瑩山「月が二つあるということがわからなければ、私の禅の後を継ぐことは出来ない」
峨山様は自らの修行が至らないことを知ってより一層励まれ、この「両箇の月」に取り組まれました。
二年が過ぎたある日、深く禅定に入った峨山様に瑩山禅師が歩み寄られ、耳元でパシッと一度指を鳴らす音を聞いて、峨山さまは悟りを開かれたそうです。
峨山禅師がどのように悟られたのか、正確には伝わってはいません。
ですがある老師は
「月とは唯一絶対の真理を指したものであろうが、この絶対の真理を〔二つある〕というのは、禅師が真理を唯一とみ、絶対と見る偏執に陥ることを打破されたもので、つまり〔出身の活路〕に欠けていることをいましめられたことばである」
と説かれました。
私たちは皆大なり小なり、自分の中にある正しさを軸に生きています。
しかしこの正しさを大きく主張すると、殆どの場面で他者の主張する正しさと角突き合わせることになります。
「僕らはみんな悪くないと思っている。だから戦争は無くならない。」
昔読んだ本の言葉はいつまでも私の耳に響いています。
絶対の真理をしりながらも、その真理を絶対とは捉えない、その自由豁達の境涯こそ、瑩山禅師の示されたものなのだろうと思います。
祥雲寺副住職 安藤淳之
一人で修行を行おうとすると、怠けてしまったり後回しにしてしまい続かない場合もあります。
ですがみんなで行えば、難しいことでも楽しく行えるはずです。
この朝坐禅会はそのような場となるよう始めました。
一日の始まりを迎えるこのひと時、ご一緒に「かろやかに」生きてみませんか?
日時:1月23日(月)朝6時半~8時(途中参加、途中退出可) 既に終了
6時30分~7時10分(一回目の坐禅)
7時20分~8時(二回目の坐禅)
場所:祥雲寺本堂一階
用意:身一つで大丈夫です。
足の組めない方は椅子での坐禅もできます。
また、祥雲寺では毎週水曜夜6時(第四水曜のみ休み)、雀宮布教所「善応院」にて坐禅会を行っています。
次回の指月坐禅会は2月27日となります。
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28年12月 月例早朝坐禅会「指月の会」案内
2016年12月18日祇園精舎の菩提樹。
お釈迦様在世の時、最も長く留まって修行された場所。
「諸行無常、一切皆苦、諸法非我」 『ダンマパダ』
12月8日はお釈迦様成道の日です。
伝承では、6年の苦行を離れた後、菩提樹の下で禅定に入り、一週間の後、明けの明星と共に悟りを開かれました。
その後5人の修行仲間に始まり、亡くなられるまでガンジス流域を中心にあらゆる階層の人々に教えを説いて歩まれました。
お釈迦様は相手に合わせて様々な言葉で教えを説かれましたが、その中心となる教えが冒頭に挙げた三法印と呼ばれる言葉です。
「一切の形成されたものは無常である。」(諸行無常)と明らかな知慧をもって観るときに、人は苦しみから遠ざかり離れる。これこそ人が清らかになる道である。
「一切の形成されたものは苦しみである。」(一切皆苦)と明らかな知慧をもって観るときに、人は苦しみから遠ざかり離れる。これこそ人が清らかになる道である。
「一切の事物は我ならざるものである。」(諸法非我)と明らかな知慧をもって観るときに、人は苦しみから遠ざかり離れる。これこそ人が清らかになる道である。
-『ダンマパダ』-
あらゆるすべては移り変わっていき、自分の身を含めて思い通りになるものは一つとしてない。
全ては執着を持つべきものではない、そう受け取って生きることが、清浄な生き方であると説いています。
それは、執着こそが人間を縛り世界をゆがめ、そこに苦しみが生まれるからです。
故に執着を挫いて欲望から自己を自由に開放する、清らかな生き方を説いているのです。
仏教の教えは、この清らかな生き方を如何に実践するか、なのです。
煩悩、妄執にとらわれた人間にとって、自己浄化こそ、仏道の基本となるのです。
この清浄行として行われてきた仏道修行、その大切な一つが坐禅なのです。
近年マインドフルネスの名で学校や職場等で実践されているとのことですが、その時に大きな過ちとなるのが、そこに効率性を求めることです。
瞑想は、マインドフルネスは、坐禅は色々なものをもたらしてくれる。それは科学的に実証されています。
しかし、そこに効率性つまり執着を持ち込めば、それは清浄行足り得ません。
その執着が心を縛ります。
坐禅は何物も求めず只ひたすらに行う。
何も求めないからこそ、そこに何とも言いようのない清々しさを感じるのでしょう。
私はそれこそが、道元禅師の説かれた「只管打坐」であると思います。
祥雲寺副住職 安藤淳之
一人で修行を行おうとすると、怠けてしまったり後回しにしてしまい続かない場合もあります。
ですがみんなで行えば、難しいことでも楽しく行えるはずです。
この朝坐禅会はそのような場となるよう始めました。
一日の始まりを迎えるこのひと時、ご一緒に「かろやかに」生きてみませんか?
日時:12月19日(月)朝6時半~8時(途中参加、途中退出可)
6時30分~7時10分(一回目の坐禅)
7時20分~8時(二回目の坐禅)
場所:祥雲寺本堂一階
用意:身一つで大丈夫です。
足の組めない方は椅子での坐禅もできます。
また、祥雲寺では毎週水曜夜6時(第四水曜のみ休み)、雀宮布教所「善応院」にて坐禅会を行っています。
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28年11月 月例早朝坐禅会「指月の会」案内
2016年11月27日坐禅部屋の聖僧様
聖僧様は坐禅をしている文殊菩薩様です。
先日、観音経の講義に出席し、良いお話を聞くことが出来ました。
世の中には色々な観音さまがおられますが、最も数が多いのは聖観世音菩薩、聖観音様になります。
この「聖」という字は宗教的仏教的にも多くの所で使われ、また時には人名として使われたりもします。
聖僧、聖観世音菩薩、高野聖、捨て聖、などなど。
しかし、この聖、聖なるとは如何なる意味の言葉と受け取ればよいのでしょうか。
「聖」という字は、分解すると「耳」を「呈」すると読み解けます。
耳を呈する、つまり聞くことを差し出す、と解釈できます。
よくお小言を言う人に対して「聞く耳を持たない」などと言った言い回しをしますが、
私たちは相手を見て、
「この人の話はよく耳を傾けねば」「この人の話は話半分に聞いておこう」
というように相手を見てどの程度に聞くのか、という分類をしてしまっていることと思います。
それで良い場合は多いのでしょうが、ある種人に対して壁を作る場合も生まれます。
聖、耳を呈する、とはこのような区別を持たずに、誰であっても真摯に耳を傾ける、そうした分け隔てのない心映えを表する言葉なのです。
日本の観音信仰の祖は聖徳太子と言われますが、聖徳太子は豊郷耳皇子とも呼ばれ
十人の人の話を聞けたと伝承されています。
この解釈からこの逸話を見てみたならば、数多の人の数だけ考え好み性質が異なる「十人」十色の人々の声を、その人に合わせて聞き届けられた、まさに観音様の如き徳を示された人であったからこそ、聖なる徳の太子と称されたのではないかと思います。
聖性、聖なるものとは、分別を超えた、分け隔てのない心の尊さを表す言葉として
用いられてきたものであり、観音様とはそのように人々に接し耳を傾けてくださる菩薩さまであると教わりました。
祥雲寺副住職 安藤淳之
一人で修行を行おうとすると、怠けてしまったり後回しにしてしまい続かない場合もあります。
ですがみんなで行えば、難しいことでも楽しく行えるはずです。
この朝坐禅会はそのような場となるよう始めました。
一日の始まりを迎えるこのひと時、ご一緒に「かろやかに」生きてみませんか?
日時:11月28日(月)朝6時半~8時(途中参加、途中退出可)
6時30分~7時10分(一回目の坐禅)
7時20分~8時(二回目の坐禅)
場所:祥雲寺本堂一階
用意:身一つで大丈夫です。
足の組めない方は椅子での坐禅もできます。
また、祥雲寺では毎週水曜夜6時(第四水曜のみ休み)、雀宮布教所「善応院」にて坐禅会を行っています
なお、次回12月の指月の会坐禅会は歳末ということもあり、第三週月曜日の19日朝より行います。