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29年7月 月例早朝坐禅会「指月の会」案内
2017年7月23日べんてん堂 旧本堂敷地に池を掘り、島の部分に建っています。
「無常を観ずる時、吾我の心、生ぜず。名利の念、起こらず。」 『学道用心集』
先日テレビをつけてみたら、織田信長の特集番組がやっていました。
私も歴史好きの例にもれず、信長のエピソードに胸を熱くし、夢中になって伝記を読んだものでした。
わけても好きな話は桶狭間の戦。絶体絶命の局面を前に「敦盛」を舞って心を定め、奇襲を成功させて天下に名をとどろかせた名場面です。
特集番組の中では、この「敦盛」の舞いに起死回生の秘訣有り、と分析していたのです。
実演を交えていましたが、能を舞うことで呼吸というのは深くなっていくのだそうです。
脳の中で呼吸を司っている偏桃体は、同時に感情も司っています。
感情が入り乱れているときは呼吸が早くなり、落ち着いているときは呼吸も緩やかになります。
呼吸が深まることで感情も落ち着いていく効果をもたらすとのことです。
お家の一大事に際し、逸る心を落ち着かせる効果がそこにあったのです。
また、古文書によれば信長は「敦盛」の一番のみを舞ったそうです。
二番三番と数を重ね複雑になれば脳内で論理を司る大脳皮質が機能する。
そうなれば偏桃体もつられて機能してしまい心は落ち着きを持てなくなる。
シンプルに行うことにも意味はあったのです。
ここで言われていることはどれも坐禅の中で日々実感していることでもあります。
こんなところに類似性を見るとは、と思いつつ、さらにこの番組の内容に付け加えたい点があるなぁ、と思いました。
「敦盛」の内容です。
「人生五十年、下天のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり。
ひとたび生を得て滅せぬもののあるべきか」
無常なる世の中にあっては人間の生死など夢幻のようなものだ。
死に直面したとしても何ほどのことであろうか、と腹を決めたのはこの故なのではないでしょうか。
私たちは、無常の世の中に自分の命もまた無常としてある、と実感するとき、心を惑わす様々なものから遠ざかるきっかけを得ることが出来ます。
そうしたきっかけ、仏縁をもってもらう場としてのお寺の役割、坐禅会などの行事の大切さ、というのを改めて感じます。
祥雲寺副住職 安藤淳之
一人で修行を行おうとすると、怠けてしまったり後回しにしてしまい続かない場合もあります。
ですがみんなで行えば、難しいことでも楽しく行えるはずです。
この朝坐禅会はそのような場となるよう始めました。
一日の始まりを迎えるこのひと時、ご一緒に「かろやかに」生きてみませんか?
日時:7月24日(月)朝6時半~8時(途中参加、途中退出可)
6時30分~7時10分(一回目の坐禅)
7時20分~8時(二回目の坐禅)
場所:祥雲寺本堂一階
用意:身一つで大丈夫です。
足の組めない方は椅子での坐禅もできます。
注意:初めての方は最初に指導を行います。
その為可能ならば一回目の坐禅から参加されてください。
また、祥雲寺では毎週水曜夜6時(第四水曜のみ休み)、雀宮布教所「善応院」にて坐禅会を行っています。
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29年6月 月例早朝坐禅会「指月の会」案内
2017年6月25日技能オリンピックに向けての栃木HONDA若手坐禅会
病んで医王に会うとも いかでかいゆることをえん。 『証道歌』
以前仕事が立て込んで、忙しい状態が数か月続いていたとき、睡眠時間が極端に短くなってしまう、そんな時期がありました。
体力にも余裕がなく、受け答えにも少々とげが見え隠れしてしまう、そんな状態だったので周囲の人が心配して快眠の本なるものをよこしてくれました。
病人扱いされたようで少々カチンとしましたが、心配してくれたことでもあるしお礼を言って持ち帰り、読んでみました。
冒頭文で、「睡眠時間の低下ははっきり病気、障害の類だ」と書かれていて、そこで初めて「ああ、自分は(程度こそあれ)病んでいるのだ」と自覚するようになったのです。
振り返ってみれば、自分は健康体であるという驕り、そして健全でなくてはならないというバイアスが知らず心の中にありました。
それが病人であると認識し、受け止めることでようやく、具体的な対処療法を行える心持ちになったのです。
その本の中でいくつもの方法が書かれていましたが、基本的には身体と心をリラックスさせて眠りやすい状態にしてから寝る、というものでした。
なので私は簡略ながら、寝床に入る前に坐禅を行うことにしました。
昔脳科学者が坐禅を行っている人の脳波を調べた所、興味深いことにはっきり覚醒していながら寝ているのと変わらない脳波が検出されたそうです。
これをどのように解釈するべきか難しいところですが、科学で明示される安楽の境地、と言ったところなのでしょうか。
おかげで全面的に、とはいきませんが、ある程度睡眠も改善されるようになりました。
祥雲寺副住職 安藤淳之
一人で修行を行おうとすると、怠けてしまったり後回しにしてしまい続かない場合もあります。
ですがみんなで行えば、難しいことでも楽しく行えるはずです。
この朝坐禅会はそのような場となるよう始めました。
一日の始まりを迎えるこのひと時、ご一緒に「かろやかに」生きてみませんか?
日時:6月26日(月)朝6時半~8時(途中参加、途中退出可) 既に終了
6時30分~7時10分(一回目の坐禅)
7時20分~8時(二回目の坐禅)
場所:祥雲寺本堂一階
用意:身一つで大丈夫です。
足の組めない方は椅子での坐禅もできます。
また、祥雲寺では毎週水曜夜6時(第四水曜のみ休み)、雀宮布教所「善応院」にて坐禅会を行っています。
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29年5月 月例早朝坐禅会「指月の会」案内
2017年5月21日庫裡裏手、藤棚の藤
GW中の数日だけの見頃
「喫茶去」 『五灯会元』
本日祥雲寺では茶道教室の方たちが茶会を行い、大勢の来客に茶をふるまわれています。
この席に掲げられた扇子に書かれた禅語が「喫茶去」です。
その昔、中国の老僧が、立場も年齢も違う3人に変わりなく
喫茶去「まあお茶でも一服召し上がっていかれなさい」
と声を掛けられた故事に由来します。
身分の貴賤を図らず、年齢の長幼を計らず、利益の多寡を問わず、分別の無い真心からのもてなしを示す言葉として用いられる言葉です。
茶道はその成り立ちから、禅の思想を色濃く取り入れています。
「一期一会」などはその代表格でしょうか。
計らいの無い、無心の働きがもたらす自由豁達の境涯を目指したその歴史的経緯から禅宗、寺院とは大変に近しいので、行っていること一つ一つが大変勉強になります。
そして何より、お茶をいただくこの一時の妙味、「静けさを味わう」という点は変わりのないものだ、と改めて確認することが出来ました。
祥雲寺副住職 安藤淳之
一人で修行を行おうとすると、怠けてしまったり後回しにしてしまい続かない場合もあります。
ですがみんなで行えば、難しいことでも楽しく行えるはずです。
この朝坐禅会はそのような場となるよう始めました。
一日の始まりを迎えるこのひと時、ご一緒に「かろやかに」生きてみませんか?
日時:5月22日(月)朝6時半~8時(途中参加、途中退出可) 既に終了
6時30分~7時10分(一回目の坐禅)
7時20分~8時(二回目の坐禅)
場所:祥雲寺本堂一階
用意:身一つで大丈夫です。
足の組めない方は椅子での坐禅もできます。
また、祥雲寺では毎週水曜夜6時(第四水曜のみ休み)、雀宮布教所「善応院」にて坐禅会を行っています。
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29年4月 月例早朝坐禅会「指月の会」案内
2017年4月23日お彼岸の入檀式。
『捨てれば必ず軽くなる 捨てて、軽やかに生きなさい。』-スッタ二パータ
この朝坐禅会を初めてちょうど二周年となりました。
何人もの方に来ていただいて共に修行の時間が過ごせることを、
大変ありがたく感じます。
初心を振り返る意味で、最初の文を再掲します。
先日NHKの番組で、ぼんやり術の特集、というものがありました。静かなところで何も行わず、ただぼんやりとすることで、頭がすっきりして血圧が下がる等の効果があり学校教育にも取り入れられている、という内容でした。
お寺では、昔からこれに類することを行ってきました。坐禅です。
祥雲寺でも雀宮出張所「善応院」で毎週坐禅会を行ってきましたが、今年度より宇都宮の本堂で月に一度、第四月曜日の朝に坐禅会を行います。
昔から禅寺では、朝に暁天坐禅という坐禅の時間を設け、心身を整えて一日の修行に向かってきました。
心を落ち着け体の調子を整え思考をクリアにしてくれる坐禅は、「安楽の法門」ともよばれています。
時間に追われる忙しい現代においてこそ、何にも取り組まず頭をからっぽにして「軽やかになる」時間を持つことは、とても必要なことだと思います。
一人で修行を行おうとすると、怠けてしまったり後回しにしてしまい続かない場合もあります。
ですがみんなで行えば、難しいことでも楽しく行えるはずです。
この朝坐禅会はそのような場となるよう始めました。
一日の始まりを迎えるこのひと時、ご一緒に「かろやかに」生きてみませんか?
日時:4月24日(月)朝6時半~8時(途中参加、途中退出可)
6時30分~7時10分(一回目の坐禅)
7時20分~8時(二回目の坐禅)
場所:祥雲寺本堂一階
用意:身一つで大丈夫です。
足の組めない方は椅子での坐禅もできます。
また、祥雲寺では毎週水曜夜6時(第四水曜のみ休み)、雀宮布教所「善応院」にて坐禅会を行っています。
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29年3月 月例早朝坐禅会「指月の会」案内
2017年3月26日旧本堂としだれ桜。もうじき開花です。
『只管打坐』 道元禅師
最近、鎌倉の臨済宗のお寺にこの春から修行に行く方とお話しする機会がありました。
他宗の方とのお話は、やはり常にない視点を意識できるためか考えされられる点を多く見つけられます。
私が福井御誕生寺にいた時分、作家で臨済宗の玄侑宗久師が拝登され、お話を聞く機会がありました。
「曹洞宗は黙照禅、臨済宗は公案禅の違いがある。
臨済の公案禅を修行した私からすれば、曹洞宗は道元禅師の残した『只管打坐』という巨大な公案に取り組んでいる、という風に受け取れる」
といったお話が記憶に残っています。
坐禅会で坐禅の説明をするとき、「目的意識を持ち込まない」ことを強調してお話ししています。
経験則上、「~を達成しよう」的な目標達成を意識した坐禅は、清々しさが損なわれている場合が多いです。
あまり正確な情報ではないですが、外国で様々な現場で取り入れられたマインドフルネスが、期待通りにいっていない、という話を聞くのはここが理由ではないかと思います。
坐禅はこの身一つ、裸の命になって行うものです。
坐禅を行う時、これまで培ってきたもの得てきたものは不要となります。
だからこそ終わった時の清々しさ、軽やかさがあるのでしょう。
『只管打坐』という教えの要諦はそこにあるのではないか、検証している最中であります。
祥雲寺副住職 安藤淳之
一人で修行を行おうとすると、怠けてしまったり後回しにしてしまい続かない場合もあります。
ですがみんなで行えば、難しいことでも楽しく行えるはずです。
この朝坐禅会はそのような場となるよう始めました。
一日の始まりを迎えるこのひと時、ご一緒に「かろやかに」生きてみませんか?
日時:3月27日(月)朝6時半~8時(途中参加、途中退出可) 既に終了
6時30分~7時10分(一回目の坐禅)
7時20分~8時(二回目の坐禅)
場所:祥雲寺本堂一階
用意:身一つで大丈夫です。
足の組めない方は椅子での坐禅もできます。
また、祥雲寺では毎週水曜夜6時(第四水曜のみ休み)、雀宮布教所「善応院」にて坐禅会を行っています。
次々回の指月坐禅会は4月24日となります。