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28年9月 月例早朝坐禅会「指月の会」案内
2016年9月25日9月後半は台風ばかりでしたが彼岸末日は少しだけ夏めいた天気になりました。
彼岸花はいつも彼岸ちょうどに咲いています。
『峯の色 渓(たに)のひびきも 皆ながら わが釈迦牟尼仏の 声とすがたと』
『正法眼蔵渓声山色』
私は自転車が好きです。
車の運転も悪くないですが、自転車の自分の力で速度と距離を出して風を感じ、遠くへ駆けていく感覚は十年続けていてもなお色あせない魅力で私を外へ駆り立ててくれます。
宇都宮の北を流れる山田川サイクリングロードは川に沿って整備された自転車道で、車を気にすることなく自由に走れるのでよく利用していますが、郊外の川に沿って走るので四季のちょっとした変化も感じることが出来るお気に入りのコースです。
5月のころに走ると若葉の季節らしく青々とした木々に彩られ、今時分に走ると瑞々しさを失くしつつも秋の彩りへと移り変わる気配を感じられます。
どちらも里山の自然の中、溢れんばかりの生命の働きを全身に浴びながら、自分の呼吸と鼓動を重ねて感じ、言葉にし辛い一体感を持ちます。
そんな時、決まって思い出すのは相田みつをさんの詩作
「花はただ咲く ただひたすらに~」
です。
全ては無常の真理の中、移ろっていくこの一時に咲いた命を精一杯に生きている。
天地自然の中にあるものは、ただその命の有様そのままに生きて、そのままに死んでいく。
それでいいのだと。
自ずから然りと、その有様を示してくれているように感じられます。
そして、この言葉の秀逸に感じるところは後半の
「~ただになれない 人間の私」
の部分です。
自然はその姿そのままに答えを示してくれている。
無常に抗うのではなく、受け入れるのだと。
それこそが、喜怒哀楽に左右されない真の意味での安心(あんじん)を得られる道なのだと無言のうちに教えてくれている。
それでも、答えを知りつつそのように精進しようとしても、
なお迷いの世界に立ち戻ってしまう弱く脆い私たち凡夫を優しくさとし頷いてくれている。
相田さんの慈悲の眼差しを感じられる、素晴らしい愛語であるといつも感じます。
祥雲寺副住職 安藤淳之
一人で修行を行おうとすると、怠けてしまったり後回しにしてしまい続かない場合もあります。
ですがみんなで行えば、難しいことでも楽しく行えるはずです。
この朝坐禅会はそのような場となるよう始めました。
一日の始まりを迎えるこのひと時、ご一緒に「かろやかに」生きてみませんか?
日時:10月24日(月)朝6時半~8時(途中参加、途中退出可)
6時30分~7時10分(一回目の坐禅)
7時20分~8時(二回目の坐禅)
場所:祥雲寺本堂一階
用意:身一つで大丈夫です。
足の組めない方は椅子での坐禅もできます。
また、祥雲寺では毎週水曜夜6時(第四水曜のみ休み)、雀宮布教所「善応院」にて坐禅会を行っています
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28年8月 月例早朝坐禅会「指月の会」案内
2016年8月21日成道会、お釈迦様に礼拝する写経会の人たち。
先日、渋谷にて「ラサへの歩き方」という映画を見てきました。
チベットに生きる人たちが、生涯に一度はチベット仏教の聖地ラサを参拝することを望み、その1200キロの道程を五体投地しながら一年がかりで歩んでいく、という映画でした。
残念ながら中国人監督、中国配給という制約の中での作品なのでチベット仏教の精神性、チベット人としてのアイデンティティに踏み込むことは難しかったようで、やや淡白なつくりの映画ではありましたが、それでも現代文明の恩恵の中でもなお古式にのっとり大変な労力と時間をかけて巡礼に臨むチベット人の峻厳な自然に生きる姿を見られたのは大変に良かったです。
チベットに限らず、どの国においても私たち仏教徒はお互いに手を合わせて合掌をし、互いを敬い礼をします。
そして特に、仏様には全身を地に投げ出し、五体を地に臥して礼拝をします。
それは、仏様の人格、教え、そのすべてを仰ぎ見て敬い、何より「わたし」を投げ出して受け入れるという精神の所作であります。
ゆえにこそ、この映画に見える人々の姿には清々しさを感じることができるのだと思います。
祥雲寺副住職 安藤淳之
一人で修行を行おうとすると、怠けてしまったり後回しにしてしまい続かない場合もあります。
ですがみんなで行えば、難しいことでも楽しく行えるはずです。
この朝坐禅会はそのような場となるよう始めました。
一日の始まりを迎えるこのひと時、ご一緒に「かろやかに」生きてみませんか?
日時:8月22日(月)朝6時半~8時(途中参加、途中退出可)
6時30分~7時10分(一回目の坐禅)
7時20分~8時(二回目の坐禅)
場所:祥雲寺本堂一階
用意:身一つで大丈夫です。
足の組めない方は椅子での坐禅もできます。
また、祥雲寺では毎週水曜夜6時(第四水曜のみ休み)、雀宮布教所「善応院」にて坐禅会を行っています。
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28年7月 月例早朝坐禅会「指月の会」案内
2016年7月24日四国お遍路札所、五百羅漢堂
「心を以てはかることなかれ、ことばを以ていふことなかれ。ただわが身をも心をもはなちわすれて、仏のいへになげいれて、仏のかたよりおこなはれて、これにしたがひもてゆくとき、ちからをもいれず、こころをもつひやさずして、生死をはなれ、仏となる。」
『正法眼蔵』生死の巻
先日『感じる、調べる、もっと近づく、仏像の本』という本を読みました。
一頃、歴女仏女という言われ方で歴史や仏教に興味関心を持つ女性を表現していましたが、この本はその仏女、仏像ガールの方が書かれた本との事です。
読んでみると大変よく勉強されていて、むしろ自分の不勉強が恥ずかしくなるほどに丁寧でありながら、初めての方でも楽しんで読める敷居の低い素晴らしい本でした。
その書き出しの所で
「仏像をあまり学術的に見て欲しくない。~思いを込めて仏像と向かい合い、ただ手を合わせる、それだけだったはずである。」
という部分がありました。
仏像の素晴らしさを知るためには、言葉も知識も余計なもので、「感じること」が大切との事です。
仏像、仏の姿、仏の形。
私がそこに興味関心を持てるようになったのは、やはり修行の時からでした。
福井にある曹洞宗大本山永平寺では、毎年12月になると1週間朝から晩まで坐禅し続ける「摂心」という大修行を行います。
朝3時に起きて夜9時に寝るまでの間、ひたすら坐禅をする僧堂に籠って坐禅をするのですから、1年目の出家してまだ間もない私は足腰の痛さにめげそうになりながらなんとか坐禅に臨んでいました。
最後の7日目の夜、坐禅の合間に坐りながらお茶をいただく行茶の時間になり、私は給仕役として初めて坐禅中の僧堂を落ち着いて見回すことができました。
そこには仏様たちが坐っていました。
これまで共に寝起きして修行していた先輩同輩の僧侶たちが、まさしく「ほとけ様」と言うべき、思わず手を合わせ拝みたくなる尊いお姿で、ずらり並んで坐られていました。
身も心も、つまり「自分」を放ち忘れて仏の悟りの姿形、坐禅の姿にすべてを預けてしまうとき、力を入れることも心を費やすこともなく、生き死にの迷いを離れて仏となる。
坐禅という行の素晴らしさ、仏様の姿かたちの尊さ、というのを私はこの時初めて知ることができたように思います。
祥雲寺副住職 安藤淳之
一人で修行を行おうとすると、怠けてしまったり後回しにしてしまい続かない場合もあります。
ですがみんなで行えば、難しいことでも楽しく行えるはずです。
この朝坐禅会はそのような場となるよう始めました。
一日の始まりを迎えるこのひと時、ご一緒に「かろやかに」生きてみませんか?
日時:7月25日(月)朝6時半~8時(途中参加、途中退出可)
6時30分~7時10分(一回目の坐禅)
7時20分~8時(二回目の坐禅)
場所:祥雲寺本堂一階
用意:身一つで大丈夫です。
足の組めない方は椅子での坐禅もできます。
また、祥雲寺では毎週水曜夜6時(第四水曜のみ休み)、雀宮布教所「善応院」にて坐禅会を行っています。
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28年6月 月例早朝坐禅会「指月の会」案内
2016年6月26日祇園精舎の菩提樹
「放下着」(ほうげじゃく)
中国唐代、趙州和尚
先日NHKスペシャルで「キラーストレス」という題名の特集がされていました。
現代社会で日々受けるストレスが、時には脳の機能をも損なうほど深刻に害をもたらす場合もあり、そのキラーストレスにいかに対処するか、という内容でした。
第一の対処法は、宇宙飛行士が宇宙空間という一切余剰のない空間で行っている手法を例に挙げ、小さいものでも自分がストレスを晴らせると思う対処行動をまず10個以上、できれば100以上列挙し、ストレスを受けていると認識したら即座にそれを行っていく「コーピング」というものでした。
第二の方法として挙げられたのが「マインドフルネス」。
昨今医療、教育、ビジネスなど様々な場所で行われているストレス対処法で、「こころのエクササイズ」などといった言われ方もされているとのことです。
しかしこれは言い方を変えただけで、やっていることも目的とすることも坐禅と全く同じもののようでした。
静かな環境に身を置いて、姿勢をを正し呼吸を整え、只座って深く穏やかに呼吸に集中していると、自然と心も落ち着いてきます。
その過程で過去の記憶や未来の想像が頭をよぎっても、今に集中している「只、今」の自分には余計なことです。
今現在の生命をそこねる重荷でしかありません。
「捨てれば必ず軽くなる
捨てて、かろやかに生きなさい」 -『スッタ二パータ』-
この坐禅会が、多くの人にいのち本来のかろやかさを取り戻す場となれば、大変うれしく思います。
祥雲寺副住職 安藤淳之
一人で修行を行おうとすると、怠けてしまったり後回しにしてしまい続かない場合もあります。
ですがみんなで行えば、難しいことでも楽しく行えるはずです。
この朝坐禅会はそのような場となるよう始めました。
一日の始まりを迎えるこのひと時、ご一緒に「かろやかに」生きてみませんか?
日時:6月27日(月)朝6時半~8時(途中参加、途中退出可)
6時30分~7時10分(一回目の坐禅)
7時20分~8時(二回目の坐禅)
場所:祥雲寺本堂一階
用意:身一つで大丈夫です。
足の組めない方は椅子での坐禅もできます。
また、祥雲寺では毎週水曜夜6時(第四水曜のみ休み)、雀宮布教所「善応院」にて坐禅会を行っています。
7月第一週(6日)は行事前日の為お休みになります。
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28年5月 月例早朝坐禅会「指月の会」案内
2016年5月22日ただいま準備中の折り紙教室
初めての作品。
「仏道をならうというは自己をならうなり。自己をならうというは自己を忘るるなり。」
『正法眼蔵現成公案』
私は昔、福井県武生にある御誕生寺という修行道場で2年ほど修行させていただきました。
御誕生寺というのは曹洞宗大本山總持寺の住職を務めた板橋興宗禅師様が10年ほど前に建てられたお寺です。
禅師様は總持寺の住職を退任された後、曹洞宗の両祖である瑩山禅師の誕生の地に寺を建てるべきと言われ、土地の寄進を受け寄付者を募り托鉢をして、立派な修行道場を建立されました。
その建立の最中、寺の軒先に猫が捨てられていた時があり、「可愛そうだから軒下においてやれや」と境内においてあげたところ、方々から猫をもらってくれないかと持ってこられて、あっという間に修行僧より多くの猫が境内にいる寺になってしまいました。
ちょうど私が修行の為上山したころ、NHKの特集で全国放送され、今では猫のいる「猫寺」として大変有名なスポットになっています。
そんな猫寺ですが、禅師様の教えを聞くために多くの人が参拝し、また参禅される修行の道場でもあります。
様々なお話をされていましたが、その中でもよくお話しされていたのが「禅の奥義を教えよう」という流れのお話です。
「人間は言葉を覚えた。この言葉のおかげで人間は進歩してきたが、同時に言葉のせいで縛られ、悩み、疲れる。
坐禅の時間というのは言葉を用いない。グチグチ考えることなく、「今」を生きている。
言葉というのは文明をもたらす力となり、また迷いのもととなる諸刃の剣と心得て、思考をやめるのではなく、必要以上に考え
て悩まないこと。
そうして今この時を生きている実感を持って、一歩一歩「いのち」を感じて生きることが大切だ」
少し私なりの解釈がありますが、このようにお話しされていました。
作務を一心に行っているとき、禅師様の暖かい笑顔と共に、この言葉をよく思い出します。
祥雲寺副住職 安藤淳之
一人で修行を行おうとすると、怠けてしまったり後回しにしてしまい続かない場合もあります。
ですがみんなで行えば、難しいことでも楽しく行えるはずです。
この朝坐禅会はそのような場となるよう始めました。
一日の始まりを迎えるこのひと時、ご一緒に「かろやかに」生きてみませんか?
日時:5月23日(月)朝6時半~7時半(途中参加、途中退出可)
6時30分~7時10分(今回は所要の為一回目の坐禅のみ)
場所:祥雲寺本堂一階
用意:身一つで大丈夫です。
足の組めない方は椅子での坐禅もできます。
また、祥雲寺では毎週水曜夜6時(第四水曜のみ休み)、雀宮布教所「善応院」にて坐禅会を行っています。