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令和4年三月 観音朝詣りのお知らせ
2022年3月12日足利学校を見学しました。建物の名前と配置、庭の趣は、禅宗寺院とほとんど同じです。
学校がいつ出来たのかは諸説ありますが、室町時代、上杉憲実の力で日本最高の学府と言われるまでになったのは誰もが認めることでしょう。
上杉憲実は、政治家としても、武将としても、学者としてもたいへんすぐれた人でした。
彼は十歳で関東管領に就任しました。関東管領というのは足利幕府の関東政府の長である鎌倉公方の補佐役で、いわば総理大臣にあたる役柄です。
十歳はいかにも若すぎて、更にその補佐役がいてのことでしょうが、数年で実質的にも役目を果たすようになったといいます。
しかし彼の職務は苦難に満ちたものでした。
関東公方足利持氏は野心に満ちた人で、足利将軍の座を狙って六代将軍足利義教と対立しました。
本家の将軍と直接の君主である関東公方、二人の主君の間に立って、憲実はその調停に追われ続けたのです。そしてとうとう、関東公方持氏を自害させることになったのです。
儒学を究め実践していた憲実にとって、主君を討ったおのれの不忠義は耐えがたいことでした。
学問振興のため彼が再興した足利学校に、自ら所蔵していた膨大な典籍を収め、雲洞庵と号して越後の寺に隠棲しました。
さらには僧侶となって諸国を遍歴し、長門国の大寧寺で竹居正猷禅師に見(まみ)えたのです。
自らも儒学の大家であった竹居禅師は憲実の苦悩を見て取りました。
そしてご自身の余生を懸けてこの人物を導き悟らせようと決心しました。憲実の修行も厳しいものだったのでしょう。
竹居禅師の印可を受けた七人の僧の中に高巌長棟という憲実の僧名があります。
憲実は、大政治家、傑出した知識人と言ってよい人です。
担うもの重く、学識深く、おのれを眩(くら)ますことをよしとしない人の心の闇の深さは計り知れません。
それは仏法によってしか救うことが出来ませんでした。そのような人を導いた禅僧の力量も計り知れません。
令和4年3月15日
宇都宮市東戸祭1-1 祥雲寺住職 安藤明之
十八日の朝詣りは午前6時から行います