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令和7年2月 朝坐禅会「指月の会」案内(2月24日朝6時半より)
2025年2月23日おんみら知るべし。求むるところ少なきものは心安らぎて
うれいおそるることなく、事にふれて足らざることなきを。
もし悩み苦しみをのがれんには、足るを知るにしくはなく、
さとりの安楽を求めんには、ひとり静かに慮(おも)うべし。
『宇都宮仏教会伝道部訳 遺教経・小欲知足』
二月十五日はお釈迦様の命日であり、涅槃会と呼ばれています。
仏伝には、お釈迦様は御年80歳の旅の中、クシナガラという地の2本の沙羅の木、沙羅双樹の元に身を横たえられ、満月の夜に沢山のお弟子達に囲まれて涅槃に入られたと書かれています。
この場面を描いた仏画を涅槃図といって、多くのお寺が二月十五日に掲げてお勤めを行います。
またこの亡くなられる時、お釈迦様はご自身の教えが弟子達に間違いなく伝えられ、自分の死後も惑うことがないようにと、これまでご自身の説かれてきた教えを纏めて説いて示されました。
この時説かれた教えは遺言の教えのお経、遺教経という名前で残されて、お葬式で読まれたり涅槃会の際に読誦されています。
ただこのお経、ゆっくり読むと小一時間ほどもかかる少し長い経典になります。
この遺教経を一般の方にも手に取りやすくしようと、私の祖父にあたる安藤裕之和尚と、宇都宮駅すぐ南の林松寺先々代阿部住職が共同で略訳を行い、宇都宮仏教会伝道部訳・略訳遺教経として同仏教会や市内寺院で用いられています。
略訳遺教経は完訳版から要点を抜き出して作られたお経です。
教えを道しるべとする持戒、心を定める禅定、精進や智慧等を説いていますが、上記は仏教の言葉として一際有名な「小欲知足」を主に説いている箇所です。
意外に思われる方も居るでしょうが、仏教では無欲、欲を無くせとは説いてはいません。
元来欲は生存に必要なものを満たすために求めるはたらきであり、肉体的な欲、心的な欲がありますが、ただそれだけでは特に悪いものではありません。
しかしこの欲が、求めたものに過剰に愛着し妄執したら、それが煩いを生み出すから愛着するべきではない、と説いているのです。
欲が過剰になれば自身を束縛する煩い即ち煩悩となる、だからこその小欲知足、欲少なく足ることを知る、ということが大切になってくるのです。
仏教とは欲望を自制し、自身でコントロールできるようにしていく道を説いている教えなのです。
欲が少なく出来る様にしていく為に必要となるのが足るを知る、事です。
完訳版の遺教経にはこのようにも説かれています。
足ることを知っている者は地べたに寝るような生活であっても心穏やかにある。しかし足ることを知らない者は天の宮殿のような所に住んでいても満足することはできない。足ることを知らない者はどれだけ裕福であっても心は貧しい。足るを知るのに必要なのは、見定めることです。
それが自分に必要なのか、過ぎたものでないのか、実は足りている、十分持っているのではないのか、身を落ち着け静かな心持ちでよく見定めることが必要です。
小欲知足で何が成されるのか、さとりの安楽と表現されているように、欲や自意識といった重く煩わしい煩悩から離れ解放されて、囚われがなくなります。
坐禅における三昧の境地、私はそれを仏心と呼んでいます。
祥雲寺 安藤淳之
偏りのない、こだわりのない、囚われのない時間。
欲から離れた、我を起点としない時間。これがそのまま非思量、ほとけ心に生きられる修行です。
我を離れることの出来る閑かな時間、坐禅の時間を御一緒にいかがですか?
当分の間は6時半開始、一炷(坐禅一座)のみとなります。初めての方は15分前に来てください。来月の開催は第二回西国巡礼と第四月曜日が重なってしまう為1週間繰り上がり3月17日となります。また、雀宮善応院坐禅会は第四水曜日以外毎週行っています