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30年9月 朝坐禅会「指月の会」案内
2018年9月22日生をあきらめ死をあきらむるは仏家一大事の因縁なり
『正法眼蔵』永平道元
先月の続きを書きます。
以前曹洞宗の布教第一人者とも言われる盛田老師の講義で
「宗教者は自らの生き死にの問題を明確にすべき」
といった大意の言葉をいただきました。
どう生きてどう死ぬのか、宗教はこの大命題に答えるためにあるのです。
私の思う死生観を書きたいと思います。
昔読んだ本の中に「六尺の病床これ道場なり」というエピソードがあります。
あるところに病床に横たわる若い僧侶がいました。
それを見舞った師匠が一枚の書付を枕元に置いていきました。
それが「六尺の病床是道場なり」です。
私にとって人生の範ともなっている言葉です。
お釈迦様は布教の旅の中で、貴方も旅などせず畑を耕し作物を育てては?、との問いかけに、
私は心の畑を耕すものなのだ、と答えられたそうです。
仏教徒は、自らの、そして他者の心の畑を生涯耕すべく道を弁精進する人たちを言うのです。
そしてそれは、いかなるところであっても取り組むことの出来るもので、たとえ病床に臥せっていてもなお務め励み精進することは出来るのです。
私には上記のエピソードは、正に弟子を導く師匠の叱咤激励であるのだと聞こえます。
近い言葉としてはがん哲学外来を開かれている樋野興夫先生の書かれた
「明日この世を去るとしても、今日の花に水をあげましょう」
という言葉が挙げられるでしょうか。
曰く、がんとなり自分の未来を思うことが出来なくなると心が内向きになり萎れてしまう。
そうした時には自分のこと以外に目を向けるべきだ。
自分以外の大切なもの、気に掛けることが出来るものを見つけそのために時間を費やしてあげるべきだ。
人間自分を大切にしすぎると色々なところで行き詰ってしまう。
だから、自分以外に目を向けることで内向きとなった心の行き所を探すことが出来る、とのことです。
お釈迦様は80歳で死の床に就き、最後まで集われた弟子方の為に教えを説いて、遂には自らの死に様をもって「これこそ私の最後の教え」とされました。
最後まで「心の畑を耕すもの」であり続けたのです。
私も及ばずながらお釈迦様の教えの上での孫子であります。
法の孫として恥ずかしくないよう、受け継ぎ育み伝えていくべく努めることが私の「生死」です。
祥雲寺副住職 安藤淳之
一人で修行を行おうとすると、怠けてしまったり後回しにしてしまい続かない場合もあります。
ですがみんなで行えば、難しいことでも楽しく行えるはずです。
この朝坐禅会はそのような場となるよう始めました。
一日の始まりを迎えるこのひと時、ご一緒に「かろやかに」生きてみませんか?
日時:9月24日(月)朝6時半~8時(途中参加、途中退出可)
6時30分~7時10分(一回目の坐禅)
7時20分~8時 (二回目の坐禅)
場所:祥雲寺本堂一階
用意:身一つで大丈夫です。
足の組めない方は椅子での坐禅もできます。
注意:初めての方は最初に指導を行います。
その為可能ならば一回目の坐禅から参加されてください。
また、祥雲寺では毎週水曜夜6時(第四水曜のみ休み)、雀宮布教所「善応院」にて坐禅会を行っています。