2020年11月22日

祥雲寺開山堂、位牌堂
直指人心 見性成仏
お寺の社会における役割を、私は二つのことに分類しています。
一つには布教、修行道場としてのお寺。
お釈迦様に始まり歴代の祖師方によって伝えられた仏法を、受け継ぎ育んでまた伝えていくこと。自身と信仰する人によって実践される場で有ること。即ち布教と実践道場としてお寺が有ることです。
二つには慰霊供養の場としてのお寺。
家族友人近隣の人、亡くなられた近しい人を送り弔い祀るのに相応しい、葬式法要を行う場としてお寺が有ることです。
この二つをキチンと行う事が、社会で果たすべき役割で有ると思っています。
ある時県内の老師のお話を聞いていて
「亡くなった人を仏さまとして導き、残された遺族が仏さまとしていただくことが出来るようにするのが葬式だ」
という言葉が耳に残りました。
その時は良く理解できませんでしたが、後日になってこれなのかと思える出来事がありました。
2年ほど前の冬、私に大変良くしてくれていた近所のおじさんと親戚のおじさんが立て続けに亡くなられました。
一月ほど何をするにも手につかず、鬱々とした日々を送っていました。
ある日の行事を行っている中、ふいに「亡くしてしまった人を思い続けてもどうにもならない。それよりも今あるご縁を大切にしなくては」と思いを転換することが出来ました。
でもご縁を大切にといってもどうしたらいいのか?
それこそ私を大切にしてくれたお二人にしてもらったことを、そのまま人にしてあげたらいいではないか。
そう思い、諸事心がけて臨んでいると、人に親切にしてあげようとする行為の中に故人との思い出が蘇り、寂しさが少しやわらいで、故人のことを身近に感じることが出来るように思えました。
故人を仏としていただくというのはこういうことなのではないか、今はそのように思います。
まだ上手く整理して話せていませんが、もっと上手に伝えられるよう精進したいです。
それが私がお寺を守り伝える人として、求められはたすべき役割なのだと思っています。
祥雲寺副住職 安藤淳之
当分の間6時半からの一座のみとなります。