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令和4年3月28日 朝坐禅会「指月の会」案内
2022年3月27日「災難に遭う時節には災難に遭うがよく候。死ぬ時節には死ぬがよく候。これはこれ、災難を逃るる妙法にて候」
知人にあてた良寛の手紙より
何年か前ですが、3月11日東日本大震災慰霊の日に合わせて、テレビで災害特集が行われ、その中でキャスターが
「私たちに豊かな恵みをもたらしてくれるはずの自然が、なぜこのような災害をもたらしたのでしょうか」
と言っていたことがありました。
日本人の自然観はここまで変化していたのか、と思いながら聞いていました。
日本は四季の彩りがはっきり現れる、惠み多く美しい国だといわれています。
それは裏を返せば気候の変化が大きく、その分苛酷に人々を苛むことがあります。
地震が多い国であることは言うまでもありません。
天変地異、災害の多い国で生きる私たち日本人は、災害を協力して生き残るべく淘汰され、「和」という精神を大切にしてきました。
そしてそんな私たちだからこそ、自然は恵みをもたらすばかりではなく災いをもたらす面もあるのだと、畏れ敬う和魂荒魂という自然崇拝としての神道が育まれたと思います。
自然は思い通りにならないもの、制御できないものと、私たちは長い時をかけて自然との付き合いを覚えてきたはずです。
自然から遠ざかった都市の内側から見る世界観は、私には些かいびつに思えます。
それは自然を征服したという人間の驕りや、自分たちのものにしたという執着から生まれてくる考えのように感じられます。
江戸時代の禅僧、良寛さんの残した言葉に上記のものがあります。
これは注意深く読み取らなくてはならない言葉です。
災害への遭遇も老病死に会うことも、殆ど不可避のもの。
それを思い煩い、危ぶみ悩み悔やんでばかりならば心が疲れてしまう。
不可避の事態なら、「そういうこともある」と腹をくくることも時として必要になる。
無手無策でいろと言うのではなく、都度あることなのだと真摯に臨む腹積もりを持つ。
腹を決めて臨むことが、結局は災難に心がとらわれない対処法なのだ。
私にはそんな風に説いているように感じます。
偏りのない、こだわりのない、囚われのない時間。
欲から離れた、我を起点としない時間。これがそのまま非思量、ほとけ心に生きられる修行です。
我を離れることの出来る閑かな時間を、御一緒にいかがですか?
祥雲寺副住職 安藤淳之当分の間は6時半開始、一炷(坐禅一座)のみとなります。初めての方は15分前に来てください。次回は4月25日となります。また、雀宮善応院坐禅会は第四水曜日以外毎週行っています