ごあいさつ

宇都宮市の祥雲寺は歴史のある曹洞宗のお寺です。
栃木県庁のすぐ北にあり、自然林の中には西国三十三番の観音像が祀られています。
また、樹齢350年を超える枝垂れ桜の老樹は県天然記念物として有名です。
たくさんの方々に仏教を親しんでいただくことを願いとし、様々な信仰行事を催しています。

ようこそおまいり

座禅会 栃木県宇都宮市の祥雲寺(曹洞宗) | 桜や祭りが名物の寺

座禅会の記事

  • 30年2月 月例早朝坐禅会「指月の会」案内

    2018年2月24日

     

    「蓋し一色の弁道による」 『典座教訓』

     

    今年から県内有志で集まって勉強会を行っています。

    一人では中々熟読出来ない難解な古書も、皆で集ってワイワイしながら読めば楽しく理解を深められる。

    これぞ大衆の威神力、皆で行うことの有り難さを改めて感じます。

     

    この勉強会の最初の一冊は道元禅師の『典座教訓』となりました。

    鎌倉時代、中国から帰ってきた道元禅師は、当時寺の下働きの役目であった調理こそ、修行として極めて大切な役割であり、典座(調理担当の僧侶)こそ仏道修行そのものであると、この本を通して強く表明されています。

     

    関西の僧侶にネルケ無方さんという曹洞宗の方がいます。

    この方はドイツで学生のころ坐禅サークルで仏教に触れて、兵庫の安泰寺に飛び込み修行僧となりました。

    入門の際に師匠から「お前が安泰寺をつくるのだ」と言われ感激したそうですが、来る日も来る日も掃除や調理ばかりで、修行らしい修行は出来ないことに不満を漏らしたところ、今度は師匠から「お前のことなんか知るか」と言われ落胆したそうです。

     

    しかし後日思い返してみれば、仏道修行とは我執を捨て心をととのえていくことであり、皆で連携して雑事をこなし寺を運営し、共に修行の場をつくっていくなかで自分の修行を主張するばかりであった自分への叱咤は当然であり、むしろこれこそが「我執を離れろ」という師匠の激励の言葉であったのだと気づかれたそうです。

     

    『典座教訓』では典座のことを、悟りを求める深い心をおこした人達だけが、いつも役にあてられてきた職である、と説いています。

    「蓋し一色の弁道による」(思うにそれは、典座の職というものが、純粋で雑念のない仏道修行そのものであることによる)

     

    食事を戴くことは生命を繋ぐ為に必須のことであり、修行僧にとって修行を完遂し悟りをひらく為に無くてはならないこと。

    自らの修行を優先するのではなく、共に道を歩む輩の為に活力を養わせる典座こそ尊い役割であり、我執を離れる浄行そのものである。

     

    道元禅師の修行観、その姿勢に叱咤激励される思いであります。

     

    祥雲寺副住職 安藤淳之

     

    一人で修行を行おうとすると、怠けてしまったり後回しにしてしまい続かない場合もあります。

    ですがみんなで行えば、難しいことでも楽しく行えるはずです。

    この朝坐禅会はそのような場となるよう始めました。

    一日の始まりを迎えるこのひと時、ご一緒に「かろやかに」生きてみませんか?

     

    日時:2月26日(月)朝6時半~8時(途中参加、途中退出可)

       6時30分~7時10分(一回目の坐禅)

       7時20分~8時    (二回目の坐禅)

    場所:祥雲寺本堂一階

    用意:身一つで大丈夫です。

    足の組めない方は椅子での坐禅もできます。

     

    注意:初めての方は最初に指導を行います。

    その為可能ならば一回目の坐禅から参加されてください。

     

    また、祥雲寺では毎週水曜夜6時(第四水曜のみ休み)、雀宮布教所「善応院」にて坐禅会を行っています。

     

  • 30年1月 月例早朝坐禅会「指月の会」案内

    2018年1月21日

     

    正月の祥雲寺、門松は門前の小学校でどんと焼きに使われます

     

    蝋梅を見に今日は俳句の会の方たちが来られていました。

     

    「知足」

     

    本年もどうぞよろしくお願いします。

     

    今年を迎え、この一年の抱負として、自分のテーマを「今あるものを大切にしていこう」としたいと思っています。

     

    私には叔父がいました。

    昔から大変よくしてくれて、成人後もよくお寺に顔を出してくれて、気にかけてくれていましたが昨年ガンで亡くなりました。

    いつも大きい行事の時には手伝いに来てくれていたので、行事の度に叔父がいないことを再度認識し、改めて寂しく思います。

     

    そして昨年末になり、今度は近所の住職さんがやはりガンで亡くなりました。

    やはり小さいころから大変よくしてくれて、僧侶として活動するようになってからもよく気にかけてくれていたので、大変ショックでした。

     

    自分も年を重ね、良くしてくれた人を見送る年代になったのだと感じます。

    新年になってからもショックは残り、寂しさを引きずりながら日々を過ごしていました。

     

    そうした中で三が日が過ぎ、作務をしながら心に浮かんだのは

    「今あるものを大切にしていこう」でした。

     

    生きている限り、これからも親しい人を失くしていくことは避けられないでしょう。

    ですが、そればかりに気を取られていては心が萎れてしまいます。

    過去の温もりを懐かしむばかりではなく、未来の失う寂しさに慄くばかりでなく、

    今、目の前にあってご縁をもってくれている人たちをこそ大切にするべきなんだ、良い悪いによらずご縁があるというだけでも有り難いものなんだ、それをこそ、大切にするべきなんだ。

     

    新しい一年を迎え、これを肝に銘じながら日々を精進して過ごしたいと思います。

     

    祥雲寺副住職 安藤淳之

     

    一人で修行を行おうとすると、怠けてしまったり後回しにしてしまい続かない場合もあります。

    ですがみんなで行えば、難しいことでも楽しく行えるはずです。

    この朝坐禅会はそのような場となるよう始めました。

    一日の始まりを迎えるこのひと時、ご一緒に「かろやかに」生きてみませんか?

     

    日時:1月22日(月)朝6時半~8時(途中参加、途中退出可)

       6時30分~7時10分(一回目の坐禅)

       7時20分~8時(二回目の坐禅)

    場所:祥雲寺本堂一階

    用意:身一つで大丈夫です。

    足の組めない方は椅子での坐禅もできます。

     

    注意:初めての方は最初に指導を行います。

    その為可能ならば一回目の坐禅から参加されてください。

     

    また、祥雲寺では毎週水曜夜6時(第四水曜のみ休み)、雀宮布教所「善応院」にて坐禅会を行っています。

     

  • 29年11月 月例早朝坐禅会「指月の会」案内

    2017年11月26日

     

    無縁供養塔横の大銀杏

     

    もうじき12月、今年も一年が過ぎようとしています。

     

    この時期になるときまって思い返すのが永平寺での修行時代、一週間の集中坐禅修行「摂心」の時です。

     

    お釈迦様は29歳で出家され、6年の苦行生活の後、菩提樹の下での一週間の坐禅に入り、悟りを開かれました。

    その故事に倣い、禅宗の寺院では12月1日から一週間起きてから寝るまで只管坐禅を行う「摂心」という修行を行います。

     

    15年前の私もまた、福井永平寺でこの修行を行いました。

    当時の私は、坐禅が言葉ばかり先行した、無意味で退屈な慣例としか受け取ることができず、毎日の坐禅は漫然とやり過ごすものにすぎませんでした。

    しかし摂心に臨み、朝3時から夜9時まで坐禅三昧ともなると、これまでのようにやり過ごすこともできず、心身の消耗にあえぐばかりでした。

    数日が過ぎて、朦朧とした意識の中で、同じく消耗した仲間との軋轢に悩んでいると、ふと、それまで頭を悩ませていたあれこれがすとんと腑に落ちて、ラクに坐禅ができるようになりました。

     

    摂心を終えて僧堂を出てみれば、福井の山中の冷たい夜気が今までと違って胸に心地よく、仏さまを模した配置の永平寺七堂伽藍が、懐の深いものなのだと訳もなく感じられる自分を不思議に思いながら床に就きました。

    私が坐禅を、退屈なだけの慣例などではなく、素晴らしい行なのだと受け取れる様になったきっかけの時です。

     

    私は永平寺できっかけを、總持寺で確信を、御誕生寺でそれを語る言葉と姿をいただくことができました。

    その素晴らしさを、有り難さを多くの方に知ってもらいたい、その思いでこの十年坐禅会を続けてきました。

     

    この時期、寒さ深まる12月を前にすると、あの時の雪降り積もる永平寺をいつも思い返します。

    この道の、仏道の尊さを思い返させてくれる肌寒さを有り難く感じる自分で有る様、明日もまた坐禅に臨みたいです。

     

    祥雲寺副住職 安藤淳之

     

    一人で修行を行おうとすると、怠けてしまったり後回しにしてしまい続かない場合もあります。

    ですがみんなで行えば、難しいことでも楽しく行えるはずです。

    この朝坐禅会はそのような場となるよう始めました。

    一日の始まりを迎えるこのひと時、ご一緒に「かろやかに」生きてみませんか?

     

    日時:11月27日(月)朝6時半~8時(途中参加、途中退出可) 

       6時30分~7時10分(一回目の坐禅)

       7時20分~8時(二回目の坐禅)

    場所:祥雲寺本堂一階

    用意:身一つで大丈夫です。

    足の組めない方は椅子での坐禅もできます。

     

    注意:初めての方は最初に指導を行います。

    その為可能ならば一回目の坐禅から参加されてください。

     

    また、祥雲寺では毎週水曜夜6時(第四水曜のみ休み)、雀宮布教所「善応院」にて坐禅会を行っています。

    尚、12月の坐禅会は第三週の18日(月)に行います。

     

  • 29年10月 月例早朝坐禅会「指月の会」案内

    2017年10月22日

     

    秋の日の羅漢さま

     

    「悉有仏性」

     

    私は自転車に乗るのが好きです。

    補助アリではありますが、自分の力で風を切って走っていく感覚がとても好きです。

    時間のある時は郊外の河川敷を一時間ほど走っています。

    春夏秋冬それぞれの季節の現れがよく見えて、強く自然を感じられる時間でもあります。

     

    5月のころ、若葉生い茂る季節、河川敷を何時ものように走っていると茂り育つ若葉が太陽にきらめき、新緑の木漏れ日が鮮やかに川面を照らしています。

     

    そんな時、何とはなしにふっと「世界に仏の命が満ちている、ああ悉有仏性とはこういうことなのか」という想いが浮かびました。

     

    仏性というのは仏となる要素、それがあらゆる命に備わっているのだという言葉が悉有仏性です。

    仏性という言葉は扱いが難しい言葉です。歴代の多くの先達がいろんな意味で使ったため、詳細に定義することすら難しく、曖昧になりかねないため私自身あまり好んで使おうとは思わない言葉でもあります。

    しかしこの時は、天地万物あらゆるものがあるようにある、各々の有様にそって正しく育ち芽吹き花開かせている、その正しい命(神羅万象の運行営み)の働きをこそ「仏性」と称するのではないか、そんな風に感じました。

     

    人間に置き換えるなら、昔読んだベトナム出身の禅僧ティク・ナット・ハン師の言葉が最初に浮かびます。

     

    「ブッダはあなたのなかにいます。ブッダは、呼吸の仕方も、優雅に歩む方法もよくご存じです。あなたが忘れていても、ブッダよ、来てくださいとお願いすれば、すぐに駆けつけてくださいます。」

     

    坐禅の調身調息調心でよく戒められるのは、強引に心を鎮めようとするのではなく、自分の身・息・心に謙虚に問いかけて、その都度、より正しい在り方を新鮮に習っていかねばならないことです。

     

    強引にやろうとすればかえってそれは遠ざかっていきます。

    謙虚に、真摯に整えることで正しい命の働きを促し、はたらかせていくことが坐禅の肝要な所、そこにこそ仏性の働きがあるのだと思います。

     

    最後に引用します道元禅師の言葉は、これをこそ意味しているのだと私は理解しています。

     

    「ただわが身をも心をも、はなちわすれて、仏のいえになげいれて、仏のかたよりおこなはれて、これにしたがいもてゆくとき、ちからをもいれず、こころをもついやさずして、生死をはなれ、仏となる。」

     

    『正法眼蔵 生死』

     

    祥雲寺副住職 安藤淳之

     

    一人で修行を行おうとすると、怠けてしまったり後回しにしてしまい続かない場合もあります。

    ですがみんなで行えば、難しいことでも楽しく行えるはずです。

    この朝坐禅会はそのような場となるよう始めました。

    一日の始まりを迎えるこのひと時、ご一緒に「かろやかに」生きてみませんか?

     

    日時:10月23日(月)朝6時半~8時(途中参加、途中退出可) 

       6時30分~7時10分(一回目の坐禅)

       7時20分~8時(二回目の坐禅)

    場所:祥雲寺本堂一階

    用意:身一つで大丈夫です。

    足の組めない方は椅子での坐禅もできます。

     

    注意:初めての方は最初に指導を行います。

    その為可能ならば一回目の坐禅から参加されてください。

     

    また、祥雲寺では毎週水曜夜6時(第四水曜のみ休み)、雀宮布教所「善応院」にて坐禅会を行っています。

     

  • 29年9月 月例早朝坐禅会「指月の会」案内

    2017年9月23日

     

    この夏羅漢渓に咲いた蓮の花

     

     

    「不立文字」

     

    先日、坐禅会のことで新聞の取材を受けました。

    朝日新聞の若い記者さんでしたが、以前は京都で寺社の取材を担当していたそうで、とても博識な方でした。

     

    私の纏まらない話を大変うまく整理してくださり、簡潔な読みやすい記事用の文章にされて確認を求められましたが、この文章は変えてもらいたい所が一つ目につきました。

    「言葉では語りつくせない仏様の教えを坐禅で体感してほしい」といった表現の所です。

     

    昔から禅宗では「不立文字」と言って、悟りの心は頭で理解するものではなく体で納得するものだとされ、故に文字によって立たず、不立文字と表現してきました。

    坐禅のことは坐禅でしか表現し得ない、他のものに還元して理解することの出来ないものです。

    このまとめの表現はむしろとても正しくもあり、記者さんの学識の高さを見ることの出来る部分ですが、折角記事の形で多くの人に坐禅会のことを知ってもらえるのだから何とかより多くの方に受け取りやすい表現に出来ないものかと私は頭をひねりました。

     

    そこでお借りした表現が、奈良薬師寺の管長であった高田高胤師が使われた

    「かたよらない心、こだわらない心、とらわれない心」という般若心経の説明の言葉です。

    般若心経は仏様の智慧、空の心を説いたお経です。

     

    お経は難しい表現の多いものですが、高田師が用いられたこの表現は大変受け取りやすく、私が修行していた福井御誕生寺でもお参りの人を迎える法要の結びの言葉に用いさせてもらっていました。

    「偏らない心、拘らない心、捉われない心。広く広くもっとひろく、これがお釈迦様の心なり。」と。

     

    これがそのまま坐禅の心であるとは言いません。そうした先入観が正しい納得の障りともなるからです。

    ですが、脚注としてならばとても素晴らしい表現であると思っています。

     

    字数の制限で訂正を全て反映は出来ませんでしたが、記事の結びはこのようになりました。

    「言葉に縛られない時間を持つことが大事。とらわれのない仏の心を坐禅で体感して下さい。」

     

    祥雲寺副住職 安藤淳之

     

    一人で修行を行おうとすると、怠けてしまったり後回しにしてしまい続かない場合もあります。

    ですがみんなで行えば、難しいことでも楽しく行えるはずです。

    この朝坐禅会はそのような場となるよう始めました。

    一日の始まりを迎えるこのひと時、ご一緒に「かろやかに」生きてみませんか?

     

    日時:9月25日(月)朝6時半~8時(途中参加、途中退出可) 

       6時30分~7時10分(一回目の坐禅)

       7時20分~8時(二回目の坐禅)

    場所:祥雲寺本堂一階

    用意:身一つで大丈夫です。

    足の組めない方は椅子での坐禅もできます。

     

    注意:初めての方は最初に指導を行います。

    その為可能ならば一回目の坐禅から参加されてください。

     

    また、祥雲寺では毎週水曜夜6時(第四水曜のみ休み)、雀宮布教所「善応院」にて坐禅会を行っています。

     

祥雲寺行事案内

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