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平成27年2月観音朝詣り
2015年2月14日祥雲寺陶芸教室入口
作陶風景
日本各地に郷土料理があります。
土地土地の風土を反映していて、旅行先で味わうのは楽しみです。
秋田のきりたんぽや、富山の鱒鮨、讃岐うどんなど全国に名をとどろかせているものもたくさんあります。
栃木県の郷土料理はなんといってもしもつかれ!
ところが評判はまことに悪い。
静岡からむこに来た人が、
「人間のたべるものじゃない」とのたまっていました。
栃木の人間でも、食べない人はたくさんいます。
とくに若い人は敬遠する人が大部分じゃないでしょうか。
一般には、あの見た目が嫌いの原因になっていると思います。
何かによく似ていますものね。
かくいう私も、子供のころは食べたくなかった。
出されて残すのは厳禁でしたから我慢して食べたのですが、酒粕のにおいがいやでした。
おいしいと思うようになったのは酒をたしなむようになってからです。
本来、立春後の初午の日に造る料理ですから今が季節です。
材料の基本は大根、にんじん、大豆、塩鮭の頭、酒粕。
初牛はお稲荷さんですから油揚げも欠かせません。
大豆は節分の豆まきに使うもの。
冬の新巻鮭を食べ終わった残りの頭。
寒仕込みの新酒を絞った酒粕。
どれも捨ててしまっては勿体ない。
無駄にしないでおいしく使う工夫があります。
大根、にんじんは冬が季節。
鬼おろしで擂りますが男がやったほうが荒く砕けておいしいといいます。夫がやれば夫婦合作となる。
できあがったしもつかれは、野菜をおいしくたくさん食べることのできるまことにヘルシーな料理です。
かつて敬遠していた私は、今ではどんぶりでおかわりどころか鍋一杯食べかねません。
こんなおいしいものを、食わず嫌いでいるのはまことにかわいそう。
体にもいいですよ。
もしかして静岡にはおいしい野菜はないのかな。
平成27年2月15日 祥雲寺住職 安藤明之
18日の朝詣りは午前9時から行います。
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平成27年1月観音朝詣り
2015年1月17日除夜の鐘終わって、元朝祈祷
祈祷終わって、巡堂終了は夜明けのころ
祥雲寺のお正月は、午前2時頃から始まります。
元朝祈祷といいますが、大般若経理趣分というお経を読み、檀信徒の一年の幸せを祈ります。
灯りはロウソクだけ、ほの暗い中で作法に則って読経することおよそ一時間、新年に皆様に差し上げている立春大吉のお札はこのようにして祈祷したものです。
祈祷というと、商売繁盛や現世利益の霊験を期待して行われる法要ととる人もいると思います。
しかし、祈祷の意味はもっと広いもので「祈り」という言葉で表すほうがより適切です。
お寺で行われている朝のお勤(つと)めは、ほとんどの宗旨が々形式をとっています。
最初に本尊さまを礼拝し供養するお経が読まれます。
そして「回向」といって祈りの言葉が読み上げられます。
曹洞宗の言葉でいうと
正法興隆 仏さまの教えが世に遍く行き渡りますように
国土安穏 国が安泰でありますように
万邦和楽 世界が平和でありますように
福寿長久 人々が幸せでありますように
という祈りで、言葉は違っても各宗派大体々意味の祈りがなされています。
仏教が伝わったときに、古代の人は仏教の精神で国を造っていこうという国家ビジョンを立てました。
聖徳太子が制定したと伝えられる十七条憲法です。それが具体化されたのが、奈良の東大寺です。東大寺建立の祈りはそのあとの仏教宗派に受け継がれていきました。
日本の仏教の歴史は、国を中心として仏さまに祈るあり方から、民衆がおのれの悩み苦しみの救済を仏さまに祈ることを中心とするあり方に変わっていきましたが、出発点が間違っているわけではありません。
世の中すべての平安と、一人ひとりの幸せを祈る、それが仏教の祈りです。
この年が、皆様にとって良い年でありますように。
平成27年1月15日 祥雲寺住職 安藤明之
18日の朝詣りは午前9時から行います。
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平成26年12月観音朝詣り
2014年12月16日12月9日写経会の納経会。須弥壇に上り土台の柱にお経を書いた石を投入。
一年の写経を納め、参加者には来年の干支文鎮を。今年は羊の文鎮です。
釈迦牟尼仏 明星を見て悟道(ごどう)してのたまわく、
我と大地有情(うじょう)と同時に成道す(瑩山禅師 伝光録)
お釈迦様が悟られた御様子を伝える言葉です。
王子の位を捨てて苦行すること六年、苦行のみでは悟れないと感じたお釈迦様は、修行の地、前正覚山を下り、村の娘スジャータから乳粥の供養を受けられた後、ブッダガヤの菩提樹の下で禅定に入られました。
魔王たちはあらゆる誘惑と脅しと恐怖を以て悟りを妨げようとします。
それらの全てを制して、暁の明星が燦然ときらめく中にお悟りを得られた、これが仏伝に記されるお悟りの様子です。
我と大地有情と同時成道とは、悟りの世界に立たれた、その境地からは、天地万物、生きとし生けるもの全てが悟りの世界にある。
という意味でしょうか。
仏像では、お悟りを得られた時の姿は、禅定印を解いて、右手の指先を大地に付ける触地印(そくちいん)で表されます。
経典には天魔の誘惑に対し大地の神がお釈迦様を護っていることを示したとあります。
私には天地万物悟りの世界で一体なるを大地の感触を確かめることで示されたように感じられます。
梅花流御詠歌では
明けの星 仰ぐ心は 人の世の 光となりて 天地(あめつち)にみつ
とうたわれます。
釈尊の成道(じょうどう)によって天地万物が悟りの光に輝いているよろこびを詠っています。
本堂の後ろには、触地印の露座の大石像が祀られています。
どうぞお参りください。
平成26年12月15日 祥雲寺住職 安藤明之
18日の朝詣りは午前6時半から行います。
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平成26年11月観音朝詣り
2014年11月15日華は愛惜(あいせき)にちり、草は棄嫌(きけん)におふる
道元禅師「正法眼蔵現成公案」
境内の紅葉がさかりです。
といっても、すでに散り終えた木もありますし、これから枯れ葉となって一斉に葉を散らす木もあります。
自然は、刻一刻変化をやめません。晩秋、初冬の朝にはその変化のさまが心にしみいります。
十月の末、表に出ると朝日射す本堂前庭を背景に、色づいた葉と緑のままの葉を付けた楓の枝が重なり合って、コントラスト鮮やかに目に飛び込んできました。
高く澄んだ空にはすじ雲が流れます。
さまざまな鳥の声、群れ鳥の声にさえ風情を感じます。
十一月十日は濃い霧でした。
陽に映える鮮やかさはありませんが、しっとりと霧に包まれたモミジの色合いが何とも美しい。
晴れた昼下がり、おだやかな風を受けて色づいたケヤキやヤマボウシの葉がはらはらと散ります。
よく見ると一枚一枚はみな同じではありません。
赤や黄だけではなく、茶色やシミのような黒、緑を残したものもあります。
一枚一枚の葉が異なった有様で生きてきた証しです。シミがあっても風情もあり美しくもあります。
そしてそこに人の世を重ね合わせました。
人生さまざまであっても、ほかには替わることのできないかけがえのなさと素晴らしさがあるのだと。
変化無限の景色は美しく、それを成り立たせる一つ一つも愛(いと)おしい。こんな感情を持てるのも、心のはたらき一つです。
心の働きには、喜びもあれば愛着もあり、苦しみ、悲しみ、怒り、後悔、憎しみもあります。
迷い多き人生でも、生ききっていく時、すべてを包み込んでくれる奥深さを持っているのがこの世界なのだと感じさせてくれる落ち葉の季節です。
平成26年11月15日 祥雲寺住職 安藤明之
18日の朝詣りは午前6時半から行います。
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平成26年10月観音朝詣り
2014年10月16日白の曼珠沙華と参道の羅漢さま
曹洞宗には二つの大本山があります。
道元禅師の開かれた永平寺と、瑩山禅師の開かれた總持寺です。
道元禅師は日本曹洞宗の初祖であり、瑩山禅師は四祖ですから、普通では本山は永平寺となり、少なくとも總持寺より格上の寺ということになります。
しかしそうではない。
永平寺と總持寺の格式は全く同じです。
また永平寺派、總持寺派というように組織が分かれていることもありません。
それが曹洞宗の大きな特色です。
永平寺では道元禅師が説かれ実行された修行が堅く守り続けられ現在に到っています。
道元禅師の教えを端的に示す根本道場です。
修行は自己の何たるかを究(きわ)めていくことでもあります。
修行に徹した時、世間の人との接点を失うこともあります。
總持寺開山瑩山禅師は、お師匠様から「永平の宗風を興すべし」と委(ゆだ)ねられました。
お釈迦様の教え、道元禅師の教えが真に意味あるものになるのは、悩み苦しみ悲しみ憂いを抱えて生きているたくさんの人々の心に教えが届いた時です。
瑩山禅師は曹洞教団を確立し、民衆教化の基(もとい)を築きました。瑩山禅師の教化への志を継承し、曹洞宗を大発展させたのが總持寺第二祖の峨山禅師です。
峨山禅師のもとで修行し、そこから旅立った僧達は、日本全国の武士や農民の帰依を受け、村々、町々に寺が建てられました。
僧達が帰依を受けたのは、厳しい修行を積み真理を究めた傑僧達だったからです。
この人達は後世に二十五哲と讃えられました。
僧侶には、真理を究めて修行する求道者のあり方と、体得した真理を世に伝えて人々の安心をはかる救済者としてのあり方の両面がなければなりません。
来年は峨山禅師の650回忌に当たります。
道元禅師から峨山禅師にいたる祖師方の偉大な行跡を偲び、常に人々と共にあり続けようとする曹洞宗の願いを新たにする大遠忌がつとめられます。
大遠忌行事にどうぞご参加ください。
平成26年10月15日 祥雲寺住職 安藤明之
18日の朝詣りは午前6時から行います。