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平成28年9月 観音朝詣りのお知らせ
2016年9月17日山門前の百日紅(さるすべり)
リオ五輪で、女子レスリングの吉田選手が負けてしまいました。
彼女は、女子レスリング全体を引っ張ってきました。
その責任感から、何が何でも負けられないという強い使命感を背負っての戦いでした。
負けた瞬間、彼女はマットにうつぶせになって泣いていました。
直後のインタビューでは、
「沢山の方に応援していただいたのに銀メダルになってごめんなさい。申し訳ない。何とか最後は勝てると思っていて、自分の力を出し切ることが出来なかった。日本の主将として申し訳ない。」
と、「申し訳ない」の繰り返しでした。
表彰式になってメダリストたちがずらりと並んだ時には、魂が抜けてしまったような姿で立っていました。
台に上ってもそれは変わりませんでした。
不敗の王者として、世界中から目標にされ、弱点も調べ尽されていたはずですから、負けることも大いにあり得ることで、銀メダルに終わってもだれも非難などしません。
観衆は盛大な拍手を送りましたが、それでもうちひしがれた姿は変わりませんでした。
金メダルのアメリカの選手は、吉田選手に敬意を持っていたようです。
はしゃぐことなく控えめにしていました。
それでも表情に喜びが自然にわき上がってくる。
それが対照的でした。
でも、私は、このときの悄然とした姿に感動しました。
全身全霊を傾けて敗れるのならばこんな姿でいたいと。
式後のインタビューの言葉は、私にとってさらに素晴らしいと思えるものでした。
亡きお父さんとどんな言葉を交わしましたかと問われて、
「父が居ないオリンピックは初めてだったのでどこかで助けてくれると思っていたかもしれない・・・。
お父さん私をここまで育ててくれてありがとうって言いたいです。」
正直な言葉だと思います。
最後に感謝が口に出たのが素晴らしい。
神仏への額(ぬか)づきと相通じると思いました。
平成28年9月15日 祥雲寺住職 安藤明之
18日の朝詣りは午前6時から行います。
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平成28年8月 観音朝詣りのお知らせ
2016年8月13日弁天さまのお堂。
5月に境内の弁天堂に泥棒が入りました。
新聞に載りましたのでご存知の方もいると思います。
5月17日に弁天堂を掃除していた中川さんが、堂内にある小さな木彫りの像がなくなっていることに気が付きました。
石彫会の渡辺さんが彫った琵琶を持つ弁天様の像で、心を込めて彫り上げたものを粗末にはできないと思い、弁天堂に納めたのです。
その時は、それしか気がつかず、警察にも届け出ませんでした。
ところが、中央警察署の警察官が尋ねてきて、祥雲寺からの盗品を預かっているのだが心当たりがないかと尋ねられました。
別の容疑で逮捕された泥棒の部屋を捜索したら、祥雲寺の名前の入った絵馬があったというのです。
盗まれていたのは、木像、絵馬のほかに何とご本尊弁財天像が右手に持つ剣と左手の掌に持つ宝珠でした。
目の前におがんでいながら気が付かなかったのです。
何とも恥じ入るばかりであり、弁天様に謝罪申し上げねばなりません。
調書に記載する必要があるというので、損害額を聞かれました。
さて、いくらになるのでしょう。
7月7日の弁天祭りの前にすべて戻ったのですから、実質の損害はありません。
そもそも、信仰の対象に値段をつけることは出来ません。
テレビの人気番組「なんでも鑑定団」などで、仏像にとてつもない値段がつけられることがあります。
人の嗜好の対象である骨董品、美術品として商取引されることを前提にしています。
しかし、仏像や神像は信仰されてこそ価値があるのです。
祥雲寺の弁天様は、もともと前の小学校のところにあった沼地の祠にまつられ、おそらく何百年と信仰されてきました。
御像も古いものですが、骨董的価値のあるものではありません。
それでもありがたい。
宗教的なものに関心が無いのは、一般的な風潮のようです。
このことで取材に来た若い新聞記者が、「宮司さんはいますか」と言ったのにびっくりしました。
確かめたら寺も神社も代表は宮司と言うと思っていたようです。
平成28年8月15日 祥雲寺住職 安藤明之
18日の朝詣りは午前6時から行います。
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平成28年7月 朝詣りのお知らせ
2016年7月13日7月7日べんてんまつり、転読しての参列者諸災消除諸縁吉祥の祈願
バングラディシュで痛ましい事件が起きました。
テロの犠牲になったのは、日本人の中の宝石というべき人たちです。
この世界の一隅に火を点(とも)し、人びとの幸せのために分け隔てすることなく仕事をしていた人達です。
ご家族の悲しみはいかばかりでしょう。
縁もゆかりもない我々でさえ悲しみに胸が熱くなります。
犯人たちに憎しみを感じます。
しかし、あの若者たちの心情は、おそらく、身を捨てて大義を成し遂げようとしたのです。
見方を変えれば殉教者であり愛国者です。
なぜこんなことが起こってくるのか。
背景には、欧米の先進国が、石油の利権をわが物にしようとして、中東のイスラム教の世界に介入したことがあります。
湾岸戦争、イラク戦争が起こり、現在も止め処ない内戦が続いています。
欧米だけのせいにできない色々な要因はありますが、過激派はこの状態をもたらした責任は欧米にあるとしています。
そして、欧米と戦うための根拠をイスラムの教えの中に求めています。
先日、イスラム教を研究する先生の講義を受けました。
イスラム国やアルカイダのような暴力を是とする考えは、本来のイスラム教にはありえないそうです。
しかし、現実にイスラム国やアルカイダはイスラムの大義のためと称しテロをくり返し、止むことがありません。
それらの組織が壊滅しても、また新たな組織が生まれ同じことがくり返されます。
私は、全知全能の神を立てる一神教の中に、対立を生み出す根本的な問題点があるのではないかと思っています。
自分たちの信じる神にのみ正義があり、信じないもの、別の神を信じる者は正しくないのです。
ブッシュ大統領はアフガニスタン派兵決定にあたり
「これは十字軍だ。邪悪な者との戦争だ。」
と演説しました。
これと、テロリストたちが
「神は偉大なり。聖戦(ジハード)だ」
と叫ぶこととあまりにも似ています。
異なった文化、歴史を持った人々の心が通じ合うには、
「絶対に」
という言葉はいりません。
平成28年7月15日 祥雲寺住職 安藤明之
18日の朝詣りは午前6時から行います。
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28年6月 朝詣りのお知らせ
2016年6月11日今年も梅雨入り。紫陽花の季節。
江戸時代、正大の北方六里に吉岡という宿場がありました。
その宿場は、藩御用の物資運搬を責任を持って勤める伝馬役を課せられて苦しんでいました。
馬や人夫を無償で手配するのですから重い年貢と同じです。
負担できずに夜逃げするものがあとを絶ちませんでした。
「このままでは村が滅びてしまう。」
穀田屋十三郎と菅原屋篤平治という二人の若者は宿場の将来を憂えました。
そして思いついたのが、宿場の資産ある人から財を募って千両(五千貫文・二億円くらいか)の金を作って財政難の仙台藩に貸し、利息を取って伝馬の費用に充てるという奇想天外のアイデアでした。
二人はなけなしの財産から五百貫文という大金を出しました。
宿場の将来のためにすることであり、出資者には何の見返りもないことですので率先して誠意を示さなければなりません。
それでもというか、当然にというか協力者は少なく、目標にはほど遠い状態でした。
ところが、十三郎の実家が家産のすべてを出して協力することにより、ついに千両相当の金を集め、その後も困難の連続ではありましたが当初のもくろみを達成できたのです。
実は、十三郎の父親は、はるか昔から十三郎と同じことを考え、守銭奴とののしられながらも金をためていたのです。
この話のすごいところは、出資者9人が見返りを求めなかったことです。
金銭だけでなく、栄誉も求めない。
寄合では下座に座り、道は端を歩く。
それは子々孫々まで伝えられました。
このことが世に知られたのは、彼らの菩提寺の住職が記録にまとめたものが残されたからです。
昔の日本人の偉さがよくわかります。
と同時に、私は自分をかえりみて恥じ入るばかりです。
この話は、磯田道史著「無私の日本人」という本に収められ、さらに「殿、利息でござる」という映画になって現在上映されています。
どうぞご覧になってください。
平成28年6月11日 祥雲寺住職 安藤明之
18日の朝詣りは午前6時から行います。
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平成28年4月 朝詣りお知らせ
2016年4月16日桜が散るころには若葉が芽吹いて、新緑の季節が待ち遠しくなります。
人間が負けることはないといわれていた囲碁で、コンピューターが世界最強の天才棋士に勝ちました。
人間の知能の発達と似た学習法で、勝負に勝つための判断力を高めたからだそうです。
コンピューターは正確に計算しつくす機会から、判断力を備えた人工知能に変わってきたのです。
30年後には、知能として人間を上回るという予想です。
これはどんなことを意味するのでしょうか。
先ず考えられるのは、人間のために働いてくれるロボットです。
辛い労働を代行するのはもちろんのこと、レシピに基づいておいしい料理を作り、マニュアルに則った至れり尽くせりの介護もします。
人間が快適な生活をするために必要なことはすべてやってくれそうです。
人型のロボットだけではありません。
技術の開発をしたり、科学上の発見や新しい理論も生み出します。
文学や芸術分野でも、人間の感性や好みについての分析が蓄積されて、感動を呼ぶすぐれた作品が生まれます。
人工知能のはたらきで、人間は何もしないでも欲しいものは手に入り、願うことは達成されるようになるのです。
スイスの学者は、未来の人間は、自分がやりたいことを好きなだけやる人生を送るようになると予想しました。
これが幸せなことでないことはどなたもお分かりでしょう。
社会に関わらずに一人だけで幸せを感じることはありません。
生きる意味がなくなります。
人間とはそういう生き物です。
幸せは、人それぞれが価値あると思うものを実感することから生まれます。
それは成長し滅びる肉体の中にあります。
満開の桜に心のときめきを覚え、散りゆく花におのれの人生を重ねる。
無常なる肉体だからこそひとつがかけがえのないものとなり、価値あるものとなって輝くのです。
取り換えのきくコンピューターには、知能はあっても価値と感じるものはありません。
そんなものによって生きる意味がなくなる。
そんな未来があってはなりません。
平成28年4月15日 祥雲寺住職 安藤明之
18日の朝詣りは午前6時から行います。