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平成27年11月 観音朝詣りのお知らせ
2015年11月15日ご詠歌の練習会。
毎月一回行っています。
平成の初めごろ、祥雲寺の西国霊場を建立に当たって、庭師の佐藤明さんという方にたいへん世話になりました。
佐藤さんは石屋の金野さんと共に西国巡礼に同道して各霊場の雰囲気を身に感じ、それをもとに庭木や築山の配置を考えてくれたのです。
その佐藤さんから聞いた庭造りについての話です。
施主の意向をよく聞き、その目的に沿って、庭のある場所の地形、土質、日当たり、さらにはそこから見える景色まで考えに入れて構想を練り作業を進めていきます。
将来この庭がどうなるのかを思い描きながら仕事をすることは庭師冥利に尽きるし、そうして苦労をした庭には後の手入れにも身が入ります。
しかし何年かすると庭が独り歩きを始めてしまい、思い通りにならなくなります。
それでも愛着のある庭ですからさらに手入れを続けていくと何年かして最初に思い描いたものとは全然別のものになってしまいます。
ですがその庭は決まってはるかに素晴らしいものになっているというのです。
それを佐藤さんは「時のたつのは素晴らしい」と表現していました。
ものを育てるには愛着がいります。
植木屋さんが細かい手入れを続けられるのも自分の造りだしたものに対する愛着あればこそでしょう。
ところで、庭が一人歩きを始めたときに、思い通りにならないといって手入れを止めてしまったり、無理やり自分の思い描いたとおりにしようとしたらどうでしょう。
素晴らしい庭には決してならない筈です。
庭木への手入れは子供へ愛情をそそぐことにも似ていて示唆に富む話だと感銘を受けました。
平成27年11月15日 祥雲寺住職 安藤明之
18日の観音様の朝詣りは午前6時半から行います。
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平成27年10月観音朝詣りのお知らせ
2015年10月14日10月1日、梅花特派講習会(トップクラスのご詠歌の先生に教わる機会です)
長崎市地蔵寺の塩屋先生から教わっています。
境内を飛び交うカラスの数が近年とみに増えました。
ねぐらは2キロ以上北の山にあって、祥雲寺は町への通り道に当たり、夕方裏山に何百羽と集まって一休みし、いっせいに飛び立つさまは壮観です。
現代ではカラスは嫌われ者になってしまいました。
町中にカラスに荒らされたゴミ袋の残骸を見かけます。
農村の果物、作物の被害も甚大です。
お寺でも、墓地に上げた花が抜かれて散らかされます。
それどころか、ステンレス製のネジなしの花立てが持っていかれることもあります。
光るものに興味があるのですね。
ともかくいたずらで油断も隙もあったものじゃない。
にくらしい。
しかし、カラスは昔から特別な能力を持った鳥として、世界のどこの国でも一目置かれてきました。
神話の八咫烏のように神の使いとされ、あがめられることが多いのです。
真っ黒な姿で腐肉を食うことから死に神を連想し、不吉なものとされもしますが、それはまたあの世とこの世を結ぶ生き物とされ畏敬されることでもあったのです。
カラスは知恵のある鳥です。
感情をもってお互いに声を掛け合っているそうです。
必要に応じて集団で敵に立ち向かったり、助け合ったりします。
夫婦つがいで子を大事に育て、母ガラスが巣立ちさせる様子は「カラスの子別れ」という言葉があるように昔から人の知るところでした。
私は本堂の前で、二羽のカラスが供えた花を引き抜いて空中でキャッチボールのようにして遊んでいるのを見たことがあります。
人間のすぐそばにいて、人間と通じあうような生き方をしている。
それが「夕焼け小焼け」や「七つの子」のような親しみを込めた童謡になったのでしょう。
カラスの数が増えるのや、人間の出す大量のごみが原因らしい。
鳥は飛ぶために身軽でなければならない。
食いだめができないから、残飯などが少なくなれば自然に数が減るはずだといわれています。
人間の生活を改めることによって、本来あるべきカラスと人間のよい関わりが復活すればいいなと思います。
平成27年10月15日 祥雲寺住職 安藤明之
18日の朝詣りは午前6時から行います。
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平成27年9月観音朝詣りのお知らせ
2015年9月17日本堂前、西国観音様
今年は2週間近く早く彼岸花が咲きました。
島田裕己さんという宗教学者がゼロ葬というのを提案しています。
遺体を火葬場に持って行き、火葬が終わったら遺骨を受け取らず火葬場で処分してもらうというのです。
墓地は要らず、散骨等という手間もとらない、きわめて安上がりな葬儀が可能であると言います。
遺骨を火葬場が引き取るのかと疑問に思う人が大部分だと思います。
しかし、関西地方では昔から、のど仏など少量の遺骨を遺族が受け取り大部分を火葬場で処分する習慣があります。
民間運営が多い東京の火葬場ではそれにならって遺骨全部を火葬場で引き取るところもあるかもしれません。
問題は、この人の言うゼロ葬が、どんなにもっともらしい理屈をこねても、葬儀ではなく結局は遺体の処分にしかならないということです。
ゼロ葬をする人も、亡くなった人と親子であれ夫婦であれ親族であれ特別な関係にあるはずです。
生活を共にし、共にした、あるいは血の絆を持った人です。
そのような近しい人を失って、悲しみ、悼(いた)むのは、人間の自然な感情です。
悼まない人もいるかもしれないがそれは特殊な人であったり、よほどの事情のある場合です。
葬儀は、悼み、悲しみの感情を、儀式を通して安心へと導くものです。
儀式を通すことによって、止め処なさや不条理さを伴った感情という中にある悲しみが、純化され、深められ、悼む人の心も安らぐのです。
しかも、このような安心への導きが必要なのは、近親者だけではありません。
人がこの世を生きる中で生まれる絆ー縁といいますーある人にも必要なのです。
宗教学者ならば、以上述べたことは百も承知であるはずです。
それなのにゼロ葬なというのは、どういう了見があってのことでしょうか。
親子、兄弟、親族の結びつきは、理屈を超えたものであり、それによって社会が成り立っているのです。
それをどうでもよいとするならば、遺産の相続など私有財産に関することも成り立たなくなります。
平成27年9月15日 祥雲寺住職 安藤明之
18日の朝詣りは午前6時から行います。
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27年8月観音朝詣りのお知らせ
2015年8月13日8月13日、迎え火の祭壇
6月に沖縄に旅行しました。
研修旅行でしたので、二日目は沖縄戦を伝えていこうとするボランティア会のガイドの方と、南部の戦場跡を巡りました。
全島が戦場となり、住民を巻き込んだ戦闘で日本国内で最大の惨禍に見舞われたことはもちろん知っています。
同情も寄せてきました。
しかし、現地に行って、ひめゆりの塔の資料館で戦場に散った少女たちの写真を目にし、あるいは軍人と民間人が一緒に隠れた鍾乳洞に入って当時の悲惨な状況について説明を受けると、戦争のむごさが身に伝わってきます。
米軍に日本人が追いつめられた沖縄島南端の海岸はまことに風光明媚ですが、その美しさがかえって悲しさをつのらせます。
知識ではなく、実感として沖縄戦にふれることが多少ともできました。
沖縄県民の基地反対の心情に対しても理解を深めることができました。
大変有意義な旅行だったのですが、心に掛かることがありました。
それは、ガイドさんの熱意が空回りしていると感じたことです。
戦争のむごさ、沖縄の惨状についてこれでもか、これでもかと説明します。
炎天下で、あるいは湿気に満ちた真っ暗な洞窟の中で、これが真実である、これを知らなければならないとくり返されると、かえって辟易してしまうのです。
戦後七十年、戦争の悲惨さを伝えることがむずかしくなっているといわれます。
実体験として伝える人が少なくなったのはやむを得ません。
しかし、聞こうとする人が少なくなるのは問題です。
学校などで戦争体験を聞く催しが敬遠されている、語りべのお年寄りが修学旅行生から侮辱された、などの報道がされています。
真実であっても、それを伝えることは難しいのです。
聞いてくれないことを嘆くのではなく、聞き手の心情を思いやり、その感性を信じて語りかけることが大切であると思いました。
お釈迦様の教えを無上なるものと信じ、世の人々に伝えることを使命としている私にとっても、戒めとしなければならないと感じました。
平成27年8月13日 祥雲寺住職 安藤明之
18日の朝詣りは午前6時から行います。