ごあいさつ

宇都宮市の祥雲寺は歴史のある曹洞宗のお寺です。
栃木県庁のすぐ北にあり、自然林の中には西国三十三番の観音像が祀られています。
また、樹齢350年を超える枝垂れ桜の老樹は県天然記念物として有名です。
たくさんの方々に仏教を親しんでいただくことを願いとし、様々な信仰行事を催しています。

ようこそおまいり

お知らせ 栃木県宇都宮市の祥雲寺(曹洞宗) | 桜や祭りが名物の寺

お知らせの記事

  • 平成22年11月朝参りお知らせ

    2010年11月15日

     

    菊の大輪(於 庫裏前)

     

    菊を采(と)る東籬(とうり)の下、悠然として南山を見る(陶淵明の詩「飲酒」の一節)

    [意味]我が家の東側の籬(まがき)のもとの菊を手折り、ゆったりした心持ちで南の山を眺めている。

     

    中国南朝の詩人陶淵明が、故郷に隠棲した日常を詠んだ詩の一節です。

    漢文訓読みにすると、散文では伝わらない詩人の清澄な心持ちが伝わってくると思います。

     

    清澄さを際立たせているのが菊の花です。

    菊は気品ある姿ときよらかな香りによって長く尊ばれてきました。

    中国原産で、日本には平安時代の初め頃に入ってきました。

    王朝時代には中国文化の薫りを伝えるエキゾチックな花として珍重されました。

     

    晩秋、菊の花が咲くと秋も終わりになります。

    菊より後に咲く秋の花はない、それもこの花が珍重される理由でした。

     

    心あてに 折らばや折らむ はつ霜の
    おきまどはせる 白菊の花(凡河内躬恒)

     

    百人一首でおなじみのこの歌でも、初霜に凛然と咲く菊の気品が伝わってきます。

    日本人の感性に合ったのでしょう、「春の桜」に対する「秋の菊」として日本を代表する花になりました。

    後鳥羽上皇が手回りの品に菊の紋を用いてから皇室の紋となり、日本の象徴となりました。

     

    ヨーロッパには18世紀に中国から移入され、さらに幕末の日本から伝えられて人気のある花になりました。

    フランスなどの国では墓参の花として用いられ、洋菊として逆輸入され葬儀の際の献花に用いられています。

    アメリカで開発された大量栽培が可能な品種が用いられているのですが、消耗品扱いされて粗末にされているのを見ると悲しくなります。

    菊花は日本人の心映えを象徴する花だと思うのです。

     

    祥雲寺の受け付け庫院の入り口には、今年も別井保行さんが持ってきてくれた鉢が並んでいます。

    一鉢で三輪ずつ、三鉢で計九輪の菊です。

    丹精の程が偲ばれる見事な大輪の花が参詣の方々を楽しませてくれています。

     

    平成22年11月15日  祥雲寺住職 安藤明之

     

    18日の観音様の朝詣りは午前6時半から行います。

     

  • 平成22年10月朝参りお知らせ

    2010年10月16日

     

    星ヶ丘中学サッカー部座禅会

     

    人生、楽しきは相知の心に在り(王安石「明妃曲」)

     

    「相知の心」とは心を通い合わせること。

    夫婦であれ親子であれ師弟朋友であれそのような人間関係を持つことのできた人はしあわせです。

     

    王安石は11世紀中国宋代の政治家。

    詩人、文章家としても名高い人です。

    彼が提唱し推進した新法と呼ばれる政治改革は、窮乏した政府財政を立て直し、軍隊を精鋭化し、人民の生活を向上させるためのものでした。

     

    彼は、人民の窮乏を救うことが国家の繁栄をもたらすと考えました。

    農民を収奪する大地主や経済を牛耳る大商人の特権を削ぐ政策を実行しました。

    国を動かす高級官僚の多くは富裕な地主層の出身であり、また商人とも結びついていましたから激しい反対にあいました。

     

    しかし、彼は断固として改革を実行しました。

    そしてその改革は相当な成果を上げたのです。

     

    彼の改革に反対し、左遷された人の中には、司馬光や蘇東坡といった中国の歴史の中でも第一級の文化人がたくさんいました。

    そのため、歴史上画期的な改革を成し遂げたにもかかわらず、後世の中国人の彼に対する評価はおおむね否定的です。

    文章、詩、政治実績は素晴らしいが人間性が良くないと評した人もいました。

     

    冒頭にあげた「明妃曲」も実は非難された詩です。

    明妃とは漢の時代匈奴の王と政略結婚をさせられた絶世の美女、王昭君のことです。

    故郷を思いながら野蛮の地で一生を終えた悲劇のヒロインとされました。

     

    実際の王昭君は、匈奴の王に愛され幸せだったようでそのことは王安石も知ることだったのでしょう。

    明妃曲では、冒頭に掲げた一節の前に、「漢の王室の仕打ちは冷たく、匈奴王の愛情は深かった」という言葉があります。

    これが中華思想に凝り固まった人から愛国心が足りないと非難されたのです。

     

    王安石は、熱心な仏教徒でその平等思想をよく理解していました。

    そのため国家や民族、階級や貧富、男女の別なく人間を平等に見ることができた人でした。

    妻や娘たちとやりとりした詩が残されていますが、ほのぼのとした暖かみがあり、人間性の素晴らしさが感じられます。

     

    平成22年10月15日  祥雲寺住職 安藤明之

     

    18日の観音様の朝詣りは午前6時から行います。

     

  • 平成22年9月朝参りお知らせ

    2010年9月13日

     

    庫裏横手の百日紅

     

    NHK朝の連続テレビドラマ「ゲゲゲの女房」は久し振りに面白い。

    視聴率も上々のようです。

     

    私はドラマの中の受け手の世代になります。

    紙芝居、貸本漫画、漫画の月刊少年誌から週刊少年誌、5歳のころから高校生まで、すべて同時代のこととして育ちました。

    「悪魔くん」や「鬼太郎」も面白く読んでいました。

    大学生になってもドラマの中で「ゼタ」という名で出てくる「ガロ」という漫画雑誌はよく読んでいました。

     

    ドラマの中で水木しげるさんの兵隊時代の話は、父親が同年代の人達と話しているのをそばで聞いていた思い出と重なります。

     

    特に印象に残るのは水木さんの次の言葉です。

    「自分は生きて帰ったものには同情せんのです。死んでいった人達はかわいそうだ。」

     

    真珠湾攻撃から終戦まで、祥雲寺のお檀家で戦死した人達は166人。

    ニューギニアで、ルソンで、ビルマで、命を散らしていきました。

    無事に帰ってきた人達も悲惨な戦争を骨の髄まで味わった人達です。

    父も2年半の中国戦線、さらに千島守備隊から2年間のシベリヤ抑留に遭いました。

    その人たちが戦中のことを話していて最後によく言っていた言葉が「何だかんだ言ったって俺たちは幸せだ。死んでいったやつらは本当にかわいそうだ。」でした。

     

    水木さんの、生きて帰ってきたものには同情しないという言葉は、戦争の悲惨を本当に味わった人にして言えることです。

    死者への悼みであり、自己を含めて生きて帰ってきたものへの励ましであり、平和のありがたさのうったえでもあります。

    過酷な時代を生きた大正年代の多くが鬼籍に入ろうとしている今日、平和な時代に生きることの出来た私のような戦後世代がよくよくかみしめなければならない時代のメッセージだと思いました。

     

    平成22年9月15日  祥雲寺住職 安藤明之

     

    18日の観音様の朝詣りは午前6時から行います。

     

  • 平成22年7月朝参りお知らせ

    2010年7月15日

     

    しだれ桜下の紫陽花。

     

    卒塔婆は梵語ストゥーパの音訳で、もともと仏舎利塔を意味します。

    お釈迦様は涅槃に入られた後、遺体は火葬され、遺骨は八つに分骨されました。

    ゆかりのある人々が持ち帰りそれぞれに塔を建てて祀りました。

    百数十年のち、古代インドを初めて統一したアショーカ王は、一つを除いた七つの塔の遺骨をすべて集め、それをさらに細分して八万四千の塔をインド全土に建てたと伝えられます。

    卒塔婆は仏教徒の信仰の中心になりました。紀元前後の頃のインドでは仏教徒のことを「塔を祀る者たち」と呼びました。

     

    今日、日本で卒塔婆というと、木の板の上部を五輪の形にきざんだものを指します。これは石造りの五輪の塔に由来します。

    五輪塔の起源は、あるいはインドや中国にあるのかも知れませんが、残されているもので見る限り日本独自のものです。

    平安時代の末から、死者に対する供養塔として盛んに建立されました。

    とくに高野聖といわれる人たちによって広められました。

    高野聖は死者の極楽往生のため遺骨を高野山に分骨して祀ることを勧めて回った僧侶たちです。高野山にお参りすると、奥の院の長い参道に何十万基ともつかない五輪塔があって彼らの活動がいかに活発であったかを示しています。

     

    祥雲寺でも、法事の際には必ず卒塔婆を建立して供養の証(あかし)としています。これについて私は次のように説明しています。

     

    「今日、お施主を中心に大勢の方が集まり、尊いお経が上げられるなかで、手を合わせ、御焼香して本尊様に個人の冥福を祈りました。その祈りの心は目に見えるものではありません。目に見えない心を仏教徒の信仰の象徴であった卒塔婆の形に書き付けて形に表わしてささげるのがこのお塔婆です。」

     

    祈りの心が込められたとき卒塔婆は単なる板きれとは違ってきます。

    卒塔婆をささげる習慣はこれからも大事にしてゆきたいものです。

     

    平成22年7月15日  祥雲寺住職 安藤明之

     

    18日の観音様の朝詣りは午前6時から行います。

     

  • 平成22年6月朝参りお知らせ

    2010年6月16日

     

    永平寺 龍門

     

    唐時代の禅僧、香厳(きょうげん)禅師は潙山霊祐禅師のもとで修行していました。

     

    ある時、師が問います。

    「おまえはたいへん博学聡明であるが、この世にまだ何も現れていない前のことを、経典や書物にある言葉ではなく、自分の言葉でわしに言うてみよ。」

     

    香厳禅師は数度にわたって考え抜いたが、どうしても言うことができませんでした。

    そしてこのことを悲しんで、持ってきた書物を焼き捨ててしまい、修行僧たちの食事の給仕をする役目に就いて年月を過ごしました。

    さらには、むかし慧忠禅師という大禅匠が住んでいた山に入って庵を結び、世間とのかかわりを捨てた生活をおくりました。

     

    ある日、道を掃き清めていると、箒(ほうき)の先にはじかれた小石が道ばたの竹にあたってカーンと鋭い音を立てました。

    そのとたん、なが年こころのなかで問い続けていたことが氷解し、悟られたのです。

     

    この話は有名な禅話です。

    以前、私はこの話を軽く考えていました。それは香厳禅師の真剣さを真剣に考えていなかったからです。

     

    弟子を問いつめる師霊祐の力量、それに必死で応えようとする香厳、ただものではない師弟関係です。

    霊祐の問いには模範解答があります。

    しかし、そんな知識で答えられることを問うているのではないのです。

    頭で答えきることができないことを頭で徹底して考え抜き、その結果が書物を焼き、僧堂での下積みの役を勤め、独り山に入っての修行だったのです。

    いずれも自分だったらどうかと思いめぐらすと、そのすさまじさが伝わってきます。

     

    香厳禅師はその後も、山中の奇岩や清泉を修行の相手として、一生目立たない静かな生活を送りました。

    道元禅師は修行こそ悟りの表われであるとされていますが、その修行はかくも徹底したものだったのです。

     

    平成22年6月15日  祥雲寺住職 安藤明之

     

    18日の観音様の朝詣りは午前6時から行います。

     

祥雲寺行事案内

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