2019年10月27日

大本山總持寺に納めた法要の鐘。お父さんおじいちゃんの名前を探してみる
私は、献体をされた方の葬儀を、何度か勤めました。
ある方は、特攻兵として志願しながら、基地に向かう列車が空襲されて止まり、まもなく終戦を迎えた人でした。
戦後、役所に勤めながら、匿名で福祉施設への寄付を生涯続けておられたと奥さんから伺いました。
あるいは青年の日の滅私奉公の志を献体によって成し遂げたのかとも思いました。
遺族、親族、知己の人々によってしめやかな葬儀が営まれた後、遺体は医大に運ばれました。
献体をする人は増えているそうです。
医学部や歯学部のある大学と献体篤志家団体が窓口で、およそ30万人が登録しているそうです。医学、科学の発展の役に立ちたいという篤志に因るのでしょうが、増えている理由には経済的な側面もあるそうです。
霊柩車費用や献体後の火葬、棺桶代などがかからないのです。
また、女性の登録者が増えているそうです。
自分の葬儀が遺族の負担にならないようにとの考えの人もあり、中には夫と一緒の墓に入りたくないという希望から登録する人もいるそうです。
ただし、家族がいる場合、大学の納骨堂には入れないというのが大部分の原則になっているそうですが。
いずれにしても、心の宿るところ、人生の土台である自分の身の始末を、勧請や厭憎の観点から考えて欲しくはありません。
献体された方の葬儀は、多くは遺体の無い葬儀です。
宗門の定める引導作法においては、遺体、遺骨の有る無しに違いはなく、霊位への以心即通をもって務めます。
かつて、このような葬儀が多く行われた時代がありました。
戦死者の葬儀です。
遺体のない葬儀は、形あるものとしての対象を欠いて、慎み、悲しみの心が定まらなくなってしまうことになりかねません。
しかし、より純粋に故人との由縁(ゆかり)を偲び、人生を深く思い見る場ともなります。
形が無に帰して、なおかつ残るものがあるのが人間なのですから。
令和元年十月十五日
祥雲寺住職 安藤明之