ごあいさつ

宇都宮市の祥雲寺は歴史のある曹洞宗のお寺です。
栃木県庁のすぐ北にあり、自然林の中には西国三十三番の観音像が祀られています。
また、樹齢350年を超える枝垂れ桜の老樹は県天然記念物として有名です。
たくさんの方々に仏教を親しんでいただくことを願いとし、様々な信仰行事を催しています。

ようこそおまいり

栃木県宇都宮市の祥雲寺(曹洞宗) | 桜や祭りが名物の寺

新着ブログ

  • 令和元年12月 観音朝詣りのお知らせ

    2019年12月18日

    成道会。12月8日はお釈迦様の道を達成された(悟りをひらかれた)日です。

    この日は写経会の人にお経を書き付けた石を本尊様の膝元から須弥壇に納めてもらっています。

     126日、大嘗宮を参観しました。大変な人出でした。
     大嘗祭は天皇即位の最も重要な儀式で、今回はその模様がテレビで中継されました。儀式の中心になる悠紀殿、主基殿での行事は秘事とされ見ることはできませんが、まことに厳かな儀式でした。悠紀殿の神饌に、高根沢町の米が選ばれたことから、大嘗祭に関心を寄せた栃木県民も多かったと思います。
     大嘗祭はまぎれもない宗教儀式であり、厳かさもそこに由来します。そのことから、憲法の規定に違反するのではとの批判がありました。条文に照らし合わせれば当然の批判ではあります。しかし、憲法が国民統合の象徴としての天皇から始まっていることを踏まえれば、即位儀礼を否定できないし、儀礼の宗教性を否定することもできないと思います。
     日本国憲法は、宗教のことについて大きな矛盾をはらんでいて、これを解決するには、天皇の条項を削除するしかありません。
      象徴天皇制に反対する人も多いでしょう。それはそれでいい。しかし、大嘗宮の参観者が18日間の期間中におよそ80万人と発表されたように、国民の多くが皇室に関心を持っているし、好意も持っていることも確かなことと思います。憲法改正の論議が進められようとしていますが、象徴天皇制を見直すことは検討の対象にさえならないと思います。
     私は、大嘗祭が宗教儀式であることをよしとしますが、今回残念に思ったことがあります。それは、神饌のその後に関することです。
     日本全国の食材を選りすぐった神饌は、平成の大嘗祭では地中に埋められましたが、今回は関係者がいただくことになったそうです。捨ててしまうのは勿体ないから、良いことだと好意的な報道がされていました。
      しかし地中に埋めるのは捨てることではありません。生命の源である大地に還(かえ)すことなのです。貴重なもの、選りすぐったものだからこそ、母なる大地に還してやるのです。
    日本の歴史と風土に適(かな)った大事なことだったと思うのですが…。
     
    令和元年1215
    宇都宮市東戸祭1-1  祥雲寺住職  安藤明之
    十八日の朝詣りは午前6時半から行います。
  • 令和元年11月 朝坐禅会「指月の会」案内

    2019年11月23日

    イチョウの木も見ごろになっています。

    十六羅漢様と紅葉

    幸せになる道とは
    身をつつしむこと。
    言葉をつつしむこと。
    心をつつしむこと。
    つつしむことは自分を縛ることではない。
    むしろ、このうえなく安楽にする。
    そして、つつしみによって得られるのは
    苦しみからの脱却と幸福である。
                         『ウダーナヴァルガ』第七章
     
    日本中を熱狂させたラグビーワールドカップも終わって、祭りの後の寂しさとともに秋も深まり、境内を紅葉が彩ってくれています。
    ワールドカップの為に大勢の方が日本に来られ、多くの方に日本を楽しんでいただけていたようです。
    イギリスの記者が書かれた記事に「我々が日本のラグビーW杯を愛する理由」というのがあって、
    曰く
    「日本人はルールを愛し、それから逸脱することはない。しかし、それは日本での生活を快適で簡単なものにする」と評して、規律を守る国民性によって日常が良いものとなっていると賞賛されていました。
    私たち仏教徒は信仰の実践として「戒」を授かり、これを日頃よりつとめて行います。
    戒の数はまちまちですが、共通して
    「殺さない、盗まない、うそを言わない、人をそしらない、怒らない」等と
    極端な行動を慎む文言が連なります。
    これらの決め事によって行動が縛られ不自由となるのではと思う人もいるかもしれませんが、そうではないのです。
    むしろ、その自由によって他者との不和、軋轢が生まれ、それらが苦しみのもととなるのです。
    戒はつつしむことによって他者を尊重し自らの心を護り育み、安らぎをもたらしてくれるのです。
    きちんとした決まり事を護るのは、他者を尊重し自らを護る、最善の道なのです。
     
    日本人は、長い歴史の中でそのことをよく学び、行動様式に深く根付いているからこその、こうした評価が生まれるのでしょう。
    この日本人の美点をこれからも護り育み伝えていけるよう、私もまた実践し繋げていきたいと思います。
     
                                  祥雲寺副住職 安藤淳之
    一人で修行を行おうとすると、怠けてしまったり後回しにしてしまい続かない場合もあります。
    ですがみんなで行えば、難しいことでも楽しく行えるはずです。
    この朝坐禅会はそのような場となるよう始めました。
    一日の始まりを迎えるこのひと時、ご一緒に「かろやかに」生きてみませんか?

    日時:11月25日(月)朝6時半~8時(途中参加、途中退出可)

    6時30分~7時10分(一回目の坐禅)

    7時20分~8時    (二回目の坐禅)

    場所:祥雲寺本堂一階

    用意:身一つで大丈夫です。

    足の組めない方は椅子での坐禅もできます。

     

    注意:初めての方は最初に指導を行います。

    その為可能ならば一回目の坐禅から参加されてください。

    また、祥雲寺では毎週水曜夜6時(第四水曜のみ休み)、雀宮布教所「善応院」にて坐禅会を行っています

  • 令和元年11月 観音朝詣りのお知らせ

    2019年11月17日

    11月7日、祥雲寺で宇都宮仏教会主催 御詠歌各流大会が開かれました。

     

    こちらは叡山流の発表。宇都宮仏教会で数年に一度行っている各宗派のご詠歌の発表会、今年は祥雲寺で行いました。

     

    曹洞宗梅花流の発表。各宗派の様々な取り組みが伺え、また大勢で楽しくお唱えができた賑やかな日でした。

     先月はじめ、一団の女性たちの訪問を受けました。
    絵手紙の同好会の方たちで、境内を散策してスケッチしていいかとのご挨拶でした。
     もちろんかまいませんので、どうぞどうぞと言い、たまたま時間も空いていたので、少し案内をいたしました。
    秋の陽が爽やかに射す日でしたので、自然豊かな境内を楽しんでもらえたと思います。数日経って、来られた方々から絵手紙をいただきました。
    そのほとんどに五百羅漢の絵が描かれていました。
     平成九年から制作が始まった羅漢像は、羅漢渓と名付けた本堂の裏手に安置しています。
    現在430体になった像が、二手に分かれて並んでいる様は壮観です。いつの間にか、羅漢像群のある寺として知られるようになりました。
    先月には、下野新聞のコラムでも紹介されました。
     羅漢像群が映えるのは、祥雲寺が豊かな自然環境にあることが大きいと思います。
    12日の朝は、深い霧が立ちこめました。
    紅葉に包まれた境内も違った景色を見せます。
    今年は雨が多かったせいでしょうか、紅葉は黒ずんであまり鮮やかではないのですが、かえってそれが静寂のおもむきを深めます。
    霧に煙る松、ようやく鮮やかな黄色になった銀杏、黄色く色づいた萩の枝のたおやかなうねり、羅漢像群を霧が流れ、不思議な陰影を作り出していました。
     絵手紙の会の人たちが見た祥雲寺、霧の朝の祥雲寺、同じ処でも景色は刻一刻と変わり、同じものはありません。
    素晴らしいと思う時に心を止めて、それが絵になり、文になり、手紙になるのはなんと素晴らしいことでしょう。
     12月1日の無縁供養の日には、新たな羅漢像が10体開眼され、また少し景色が変わります。
     令和元年11月15日
                  宇都宮市東戸祭1-1  祥雲寺住職  安藤明之
    十八日の朝詣りは午前6時半から行います。
  • 令和元年10月 朝坐禅会「指月の会」案内

    2019年10月27日

    夏の終わりの祥雲寺

    花はただ咲く 只ひたすらに
    只になれない 人間の私
                       相田みつを
     
    禅宗の有名な言葉に「放下着」があります。
    着ているものを放下せよ、つまり執着を捨てろ、という趣旨の言葉と読み取れます。
    是に限らず、執着、欲得の類いを離れ捨てよとの言葉は多々あります。
    我が宗祖道元禅師も
    「我が身をも、心をも放ち忘れて、ほとけの家に投げ入れて ほとけのかたよりおこなわれて
    これにしたがいもていくとき、力をも入れず、心をもついやさずして
    生死を離れ、ほとけとなる」
    と説かれ、私自身坐禅会に初めて来た方への説明は
    「捨てれば必ず軽くなる、捨てて、かろやかに生きなさい」
    というスッタニパータ(南方仏教に伝わる釈尊の語録)からの引用を必ず用いています。
    それは、坐禅が執着を、人が知らず抱えてしまっているあれそれを手放すことが出来る淨行であると信じていればこそです。
    その故に、坐禅をして何になるのか?との問には何にもならない(何かの為では捨行と成らない)と答えるのが正道となるのです。
     
    しかし、何事も言うは易く行うは難し、社会の仕組みの中に生きる身には中々捨てきることは難しいです。
    そもそも人間を知れば知るほどに、ロジカルに割り切れるものではないのだと思い知らされます。
    そうした見地に立った時、心に芽生える視点、想いにこそ「慈悲」があるのだと思います。
    慈悲は「慈しみ」「悲しみ」の二字で表現されます。
    有機体で構成される私たち人間は、無常の道理の中で必ず生老病死の苦にさらされ、徹底しようとしてもしきれない悲しさを元来持った生き物です。
    この弱さ、もろさ、あやうさを知るからこそ、同じ悲しみをもつ同類への哀れみ慈しみの心が、人には自ずと芽生えうるのです。
    悲しみに裏打ちされた慈しみの心、故に慈悲というのです。
    冒頭に引用した相田みつをさんは、足利で長らく坐禅会に通われて、このことをよく学んでいるからこそ、その作品には慈悲の眼差しがはっきりとあらわれています。
    「だめだっていいじゃないか、人間だもの」などはその代表と言えるでしょう。
     
    これらは、元々だめなのだから刹那的に生きるべきだ、とか怠惰に自堕落に耽っても良いとかをいっているのでは決してありません。
    ポジティブになれない上手くいかないという時に、そういうこともあるんだよという許しと労り、慈しみの視点が、木石ではない人には必要とされるのです。
    だからこそ、慈悲の心の表れである観音様は、今日まで広く信仰されてきたのでしょう。
    冒頭の一句は、このことをきちんと心しているかと自分に問いかける警句として、いつも自室に掲げているものです。
                          祥雲寺副住職 安藤淳之
    一人で修行を行おうとすると、怠けてしまったり後回しにしてしまい続かない場合もあります。
    ですがみんなで行えば、難しいことでも楽しく行えるはずです。
    この朝坐禅会はそのような場となるよう始めました。
    一日の始まりを迎えるこのひと時、ご一緒に「かろやかに」生きてみませんか?

    日時:10月28日(月)朝6時半~8時(途中参加、途中退出可)

    6時30分~7時10分(一回目の坐禅)

    7時20分~8時    (二回目の坐禅)

    場所:祥雲寺本堂一階

    用意:身一つで大丈夫です。

    足の組めない方は椅子での坐禅もできます。

     

    注意:初めての方は最初に指導を行います。

    その為可能ならば一回目の坐禅から参加されてください。

    また、祥雲寺では毎週水曜夜6時(第四水曜のみ休み)、雀宮布教所「善応院」にて坐禅会を行っています

  • 令和元年10月 観音朝詣りのお知らせ

    2019年10月27日

    大本山總持寺に納めた法要の鐘。お父さんおじいちゃんの名前を探してみる

    私は、献体をされた方の葬儀を、何度か勤めました。
    ある方は、特攻兵として志願しながら、基地に向かう列車が空襲されて止まり、まもなく終戦を迎えた人でした。
    戦後、役所に勤めながら、匿名で福祉施設への寄付を生涯続けておられたと奥さんから伺いました。
    あるいは青年の日の滅私奉公の志を献体によって成し遂げたのかとも思いました。
    遺族、親族、知己の人々によってしめやかな葬儀が営まれた後、遺体は医大に運ばれました。
     
     献体をする人は増えているそうです。
    医学部や歯学部のある大学と献体篤志家団体が窓口で、およそ30万人が登録しているそうです。医学、科学の発展の役に立ちたいという篤志に因るのでしょうが、増えている理由には経済的な側面もあるそうです。
    霊柩車費用や献体後の火葬、棺桶代などがかからないのです。
     
     また、女性の登録者が増えているそうです。
    自分の葬儀が遺族の負担にならないようにとの考えの人もあり、中には夫と一緒の墓に入りたくないという希望から登録する人もいるそうです。
    ただし、家族がいる場合、大学の納骨堂には入れないというのが大部分の原則になっているそうですが。
     
    いずれにしても、心の宿るところ、人生の土台である自分の身の始末を、勧請や厭憎の観点から考えて欲しくはありません。
     
     献体された方の葬儀は、多くは遺体の無い葬儀です。
    宗門の定める引導作法においては、遺体、遺骨の有る無しに違いはなく、霊位への以心即通をもって務めます。
    かつて、このような葬儀が多く行われた時代がありました。
    戦死者の葬儀です。
     
    遺体のない葬儀は、形あるものとしての対象を欠いて、慎み、悲しみの心が定まらなくなってしまうことになりかねません。
    しかし、より純粋に故人との由縁(ゆかり)を偲び、人生を深く思い見る場ともなります。
    形が無に帰して、なおかつ残るものがあるのが人間なのですから。
     
     令和元年十月十五日
                         祥雲寺住職 安藤明之
祥雲寺行事案内

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