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平成27年10月観音朝詣りのお知らせ
2015年10月14日10月1日、梅花特派講習会(トップクラスのご詠歌の先生に教わる機会です)
長崎市地蔵寺の塩屋先生から教わっています。
境内を飛び交うカラスの数が近年とみに増えました。
ねぐらは2キロ以上北の山にあって、祥雲寺は町への通り道に当たり、夕方裏山に何百羽と集まって一休みし、いっせいに飛び立つさまは壮観です。
現代ではカラスは嫌われ者になってしまいました。
町中にカラスに荒らされたゴミ袋の残骸を見かけます。
農村の果物、作物の被害も甚大です。
お寺でも、墓地に上げた花が抜かれて散らかされます。
それどころか、ステンレス製のネジなしの花立てが持っていかれることもあります。
光るものに興味があるのですね。
ともかくいたずらで油断も隙もあったものじゃない。
にくらしい。
しかし、カラスは昔から特別な能力を持った鳥として、世界のどこの国でも一目置かれてきました。
神話の八咫烏のように神の使いとされ、あがめられることが多いのです。
真っ黒な姿で腐肉を食うことから死に神を連想し、不吉なものとされもしますが、それはまたあの世とこの世を結ぶ生き物とされ畏敬されることでもあったのです。
カラスは知恵のある鳥です。
感情をもってお互いに声を掛け合っているそうです。
必要に応じて集団で敵に立ち向かったり、助け合ったりします。
夫婦つがいで子を大事に育て、母ガラスが巣立ちさせる様子は「カラスの子別れ」という言葉があるように昔から人の知るところでした。
私は本堂の前で、二羽のカラスが供えた花を引き抜いて空中でキャッチボールのようにして遊んでいるのを見たことがあります。
人間のすぐそばにいて、人間と通じあうような生き方をしている。
それが「夕焼け小焼け」や「七つの子」のような親しみを込めた童謡になったのでしょう。
カラスの数が増えるのや、人間の出す大量のごみが原因らしい。
鳥は飛ぶために身軽でなければならない。
食いだめができないから、残飯などが少なくなれば自然に数が減るはずだといわれています。
人間の生活を改めることによって、本来あるべきカラスと人間のよい関わりが復活すればいいなと思います。
平成27年10月15日 祥雲寺住職 安藤明之
18日の朝詣りは午前6時から行います。
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27年9月 月例早朝坐禅会「指月の会」案内
2015年9月22日ブッダガヤー大菩提寺、金剛座の垣根。
夜分にもお参りの人は絶えません。
菩提樹の垣の真中に金剛座がある。昔、賢劫の初めにできたもので、大地と共に出たものである。
~賢劫中の千仏がここに坐り金剛定に入られたので金剛座と言い、悟りを開かれた所であるので菩提道場とも言う。
『大唐西域記』6.2 金剛座
昨年のはじめにインドの仏跡(お釈迦さま由来の遺跡)参拝をしてきました。
大変に素晴らしい巡礼であったので、来年二月にお檀家さん方と団体参拝旅行をするべく計画中です。
今度は先導する立場となるので勉強を始めましたが、テキストとして最適と手に取ったのが玄奘三蔵の『大唐西域記』です。
玄奘は唐の時代の僧侶です。
仏教を構成する経(仏の教え)、律(僧侶の決まり事)、論(仏教の解釈論)の三つをきちんと習得した人への敬意の表れとして玄奘三蔵とも呼ばれます。
玄奘は仏教を学ぶ中で釈尊が実際に歩まれたインドの地と、そこに根付く最初のころの教えに憧れ、ついには国禁を犯して出国します。
シルクロードを歩みヒンドゥークシュ山脈を越えてインドに渡り、16年をかけて各地を回って膨大な経典を中国に持ち帰りました。
この旅行の記録が『大唐西域記』です。
当時のインドや中央アジアの貴重な記録であり、これを元とした伝奇小説『西遊記』を知らない人はいないでしょう。
上記の文はお釈迦様が悟りを開いたブッダガヤーを見聞した章のものです。
お釈迦さまは29歳で出家をされ、6年間の苦行を経て、坐禅こそが悟りへの道と見極められて、菩提樹の下に座して坐禅をされました。
悟りを開かれた地ブッダガヤーは聖地としてお参りの人は昼も夜も絶えません。
それは、お釈迦様の教え、心の平安を説く仏教が、現代社会においてなおのこと必要とされているからであるのだと思います。
祥雲寺副住職 安藤淳之
一人で修行を行おうとすると、怠けてしまったり後回しにしてしまい続かない場合もあります。
ですがみんなで行えば、難しいことでも楽しく行えるはずです。
この朝坐禅会はそのような場となるよう始めました。
一日の始まりを迎えるこのひと時、ご一緒に「かろやかに」生きてみませんか?
日時:9月28日(月)朝6時半~8時(途中参加、途中退出可)
6時30分~7時10分(一回目の坐禅)
7時20分~8時(二回目の坐禅)
場所:祥雲寺本堂一階
用意:身一つで大丈夫です。
足の組めない方は椅子での坐禅もできます。
また、祥雲寺では毎週水曜夜6時(第四水曜のみ休み)、雀宮布教所「善応院」にて坐禅会を行っています。
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平成27年9月観音朝詣りのお知らせ
2015年9月17日本堂前、西国観音様
今年は2週間近く早く彼岸花が咲きました。
島田裕己さんという宗教学者がゼロ葬というのを提案しています。
遺体を火葬場に持って行き、火葬が終わったら遺骨を受け取らず火葬場で処分してもらうというのです。
墓地は要らず、散骨等という手間もとらない、きわめて安上がりな葬儀が可能であると言います。
遺骨を火葬場が引き取るのかと疑問に思う人が大部分だと思います。
しかし、関西地方では昔から、のど仏など少量の遺骨を遺族が受け取り大部分を火葬場で処分する習慣があります。
民間運営が多い東京の火葬場ではそれにならって遺骨全部を火葬場で引き取るところもあるかもしれません。
問題は、この人の言うゼロ葬が、どんなにもっともらしい理屈をこねても、葬儀ではなく結局は遺体の処分にしかならないということです。
ゼロ葬をする人も、亡くなった人と親子であれ夫婦であれ親族であれ特別な関係にあるはずです。
生活を共にし、共にした、あるいは血の絆を持った人です。
そのような近しい人を失って、悲しみ、悼(いた)むのは、人間の自然な感情です。
悼まない人もいるかもしれないがそれは特殊な人であったり、よほどの事情のある場合です。
葬儀は、悼み、悲しみの感情を、儀式を通して安心へと導くものです。
儀式を通すことによって、止め処なさや不条理さを伴った感情という中にある悲しみが、純化され、深められ、悼む人の心も安らぐのです。
しかも、このような安心への導きが必要なのは、近親者だけではありません。
人がこの世を生きる中で生まれる絆ー縁といいますーある人にも必要なのです。
宗教学者ならば、以上述べたことは百も承知であるはずです。
それなのにゼロ葬なというのは、どういう了見があってのことでしょうか。
親子、兄弟、親族の結びつきは、理屈を超えたものであり、それによって社会が成り立っているのです。
それをどうでもよいとするならば、遺産の相続など私有財産に関することも成り立たなくなります。
平成27年9月15日 祥雲寺住職 安藤明之
18日の朝詣りは午前6時から行います。
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27年8月 月例早朝坐禅会「指月の会」案内
2015年8月23日昨年のライオンズクラブ坐禅会
妄息めば寂生じ、寂生ぜば智現じ、智現ずれば真を見る 『坐禅用心記』
先日お盆明けに高野山にお参りしてきました。
高野山は日本有数の規模を誇る宗教都市です。
日本仏教に大きな足跡を残された弘法大師空海の教えが今も生きている聖地です。
宿坊に泊り、明け方の澄んだ空気の中で坐禅を行っていると、高野山で1200年もの間精進されてきた先人たちの足跡が、自ずと厳かさを以てわが身を正してくれる、そんな気がします。
宗旨は違えど、同じ仏道を歩む身として、先達の歩みの連なりに一時身を置かせていただこうとして坐っていると、自然に心が凪いできて、木立の静けさが心地よく聴こえてきました。
自分という思いを立てることもなくなれば、ただこの霊山に連なる仏塔や木々の一つであるかのような大きな広がりを感じます。
思い返せばこの地を開いた弘法大師も
「雲が一つ大空に浮かび風に流されるままに、自分にも定まれる場所などない。
生まれながらに山容を愛し、人里とは無縁に生き、ただ月を見て松の根もとに横臥するばかりだ」
という言葉を残されていました。
幼いころから方々の山々を歩き回られた大師は、終の家とされたのもまた深山幽谷のこの高野山でした。
山を愛するのと同時、心を煩わせる世間から離れた、この静かな時間を尊ばれたのではないか。
そのようなことを思いながら朝のお勤めに臨み、奥の院に詣で、大師にご挨拶をしてきました。
祥雲寺副住職 安藤淳之
一人で修行を行おうとすると、怠けてしまったり後回しにしてしまい続かない場合もあります。
ですがみんなで行えば、難しいことでも楽しく行えるはずです。
この朝坐禅会はそのような場となるよう始めました。
一日の始まりを迎えるこのひと時、ご一緒に「かろやかに」生きてみませんか?
日時:8月24日(月)朝6時半~8時(途中参加、途中退出可)
6時30分~7時10分(一回目の坐禅)
7時20分~8時(二回目の坐禅)
場所:祥雲寺本堂一階
用意:身一つで大丈夫です。
足の組めない方は椅子での坐禅もできます。
また、祥雲寺では毎週水曜夜6時(第四水曜のみ休み)、雀宮布教所「善応院」にて坐禅会を行っています。