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令和6年11月 朝坐禅会「指月の会」案内(11月25日朝6時半より)
2024年11月24日朝念観世音 暮念観世音
念念従心起 念念不離心 「延命十句観音経」
西国観音巡礼にいってきました。
祥雲寺には西国観音のお砂踏みがあります。
先々代住職、私の祖父が観音信仰に篤い人で、遠い西国に行かなくても檀家信徒が西国札所観音様の御利益に与れるように整備をし、以来毎月18日の朝には一時間ほどのプチ巡礼会として観音朝詣りを行っています。
また札所巡礼も積極的に行い、西国板東秩父お遍路と、何度も参拝旅行を行ってきました。
この度久しぶりに西国札所を巡る企画をスタートさせました。
今秋で京都市外の京都滋賀奈良の札所を巡り、来春以降で一番から巡る予定です。
観音菩薩は仏様の慈悲の心を体現された菩薩様です。
表に表せない心の声を聞き届け、また様々な願いに応じてくださる方としても信仰されています。
今回私自身奈良の興福寺国宝館で、国宝の千手観音菩薩を参加者に説明する時、
「千手観音さんの沢山の手はみんな違う形をして違う法具を携えておられる。人は皆違っていてそれぞれの悩みを抱えている、そのそれぞれに適して応じる事が出来る様にと文字通り手を尽くしている様を表しているのが観音様の千手なのでしょう」
といった言葉を用いました。
また今回参考にした資料に瀬戸内寂聴さんの文章がありました。
「(観音霊場の)三十三という数字は観世音は三十三身に化身して我々衆生を救けて下さるという御利益にちなんでいる。三十三という数字は、仏教では無限を意味する。あらゆる場所であらゆる苦難の時、一心に観世音を祈れば、観音は直ちに光のような速さで祈願者の前に出現して、救助して下さるというのである。そのお姿は観世音の形ではなく、祈願者がその時、最も必要としている姿に化身して現れて下さる。病人の前には名医となって現れるように。」
私には今年に入って二度、身に覚えがあります。
夏の頃打合せの不備から法要の迎えが来なくて慌てて運転して行き、腹立たしい気持ちを抑えようとしながら始まりの鐘を鳴らしていると、仏と成った故人に諭されました。
「怒るのは自分を傷つけ損なわれたと思うからだが、無我を説く僧侶の身であり、自意識に囚われないことが安楽の道だと腹落ちした者が、他人の過失によって一体何を損なわれたというのか」
腹立たしさはキレイに無くなり、かつて無く静かな心持ちでお勤めに臨めました。
また秋の頃には、立て続けの檀務と行事で疲労した状態で余所のお施餓鬼に随喜しましたが、お経を読んでいたら壁側の聖僧さまに親しくしてくれた先代老師がかぶり、「喝」を入れてくれました。
これらは単なる見間違いやこじつけ、自分の心理無意識がその場に必要な解を場の主役的な人の影絵で伝えてきた、等と理屈を付けることは出来るのでしょう。
ですが宗教者としては、それこそ観音様のお導きだったと受け取ってもよいのではないかと思うのです。
亡くなり失われた人とも、没後も面と迎える時もある。
ご縁を続けていけることもある。
迷いの多い凡愚の身なればこそ、仏の救いの手は大きくあたたかくさしのべられる。
観音霊場のかむさびた厳かな佇まいは、そういうものだと私達に語りかけてくれるようでした。
祥雲寺 安藤淳之
偏りのない、こだわりのない、囚われのない時間。
欲から離れた、我を起点としない時間。これがそのまま非思量、ほとけ心に生きられる修行です。
我を離れることの出来る閑かな時間、坐禅の時間を御一緒にいかがですか?
当分の間は6時半開始、一炷(坐禅一座)のみとなります。初めての方は15分前に来てください。来月の開催は12月23日となります。また、雀宮善応院坐禅会は第四水曜日以外毎週行っています