ごあいさつ

宇都宮市の祥雲寺は歴史のある曹洞宗のお寺です。
栃木県庁のすぐ北にあり、自然林の中には西国三十三番の観音像が祀られています。
また、樹齢350年を超える枝垂れ桜の老樹は県天然記念物として有名です。
たくさんの方々に仏教を親しんでいただくことを願いとし、様々な信仰行事を催しています。

ようこそおまいり

永平寺 栃木県宇都宮市の祥雲寺(曹洞宗) | 桜や祭りが名物の寺

永平寺

  • 令和6年1月 朝坐禅会「指月の会」案内(1月22日朝6時半より)

    2024年1月21日

    11月結制の際の行列出立処。檀家の代表を勤めて頂きました。

    いっさいの怨みを棄てよ。

    今まで抱いてきたあれこれの思いをさっぱりと棄てよ。

    棄てれば、必ず軽くなる。                 『スッタニパータ』

     

     先日ある方のお宅にお伺いしたとき、引きこもりになっている息子さんと少しお話をしました。

    曰く、職場でいじめに近い扱いを受け、疲れてしまったのだと。

    親御さんも当然心配されているので、どうにかならないかという期待の籠もった視線が感じられました。

    私も東日本大震災でボランティアをしていた時等で傾聴活動の為避難所を廻ったりしていました。

    お坊さんだからこその安心感をもって貰いやすいからとの要望が複数あったものです。

    その時にまとめ役の方からよく言われたのが

    「君たちが問題を解決しようとするものではない。

     私たちがやるのはお話に真摯に耳を傾けること。

     誰かに話したい、聞いて欲しい、そうした要望に丁寧に寄り添うことだ。

     社会的な物は別にして、個人的ななやみや問題は結局は当人にしか解決は出来ない。

     私たちに出来るのは自分で問題に向き合えるようにアシストすることなんだ」

    今でも良く憶えています。

     

     お話をご家族から聞く中で、お母さんから心に抱えてしまう物をどうやり過ごすのか、何か秘訣はないかと聞かれました。

    若干悩んでしまう問いです。容易に答えられる物ではありません。

    昔ある席で20年経っても怨みは無くならない、骨になって墓に入るまで消え去らない、と吐露されたこともありました。

    それでも、胸に抱えた怒りや怨みは沢山の物を損なってゆきます。

    抱えている限り、思いに焼かれて疲れてしまいます。

    上記の言葉は、お釈迦様がスッタニパータという経典で説かれている言葉です。

    お前の苦しみを、じっと見つめてみよ。

    誰々にののしられた、誰々により損害を受けた、

    誰々に手ひどく負かされた、誰々に盗まれた、

    という思いを抱いてはいないか。

    その思いがすでに怨みであると知りなさい。

    怨みを抱いた人生は重いものだ、安らぎというものがなくなってしまう。

    いっさいの怨みを棄てよ。

    今まで抱いてきたあれこれの思いをさっぱりと棄てよ。

    棄てれば、必ず軽くなる。

    棄てて、かろやかに生きなさい。

    どう捨てるのか、捨てる手法として、個人的には趣味の山歩きかサイクリングがありますが、お坊さんとしてお勧めするのはやはり坐禅です。

    坐禅は、身を正し呼吸を正す、それだけに集中し没入していると、波風経っていた自分がいつしか正されて静かになっていきます。何もしない何も考えないことに没頭するのです。

    私は坐禅は様々抱えてしまう物から自由になるものだと思っています。

    今回の事はどうなるか解りませんが、機会が合えば、一緒に坐りませんかとお誘いしたいです。

                                祥雲寺 安藤淳之

     

     

    偏りのない、こだわりのない、囚われのない時間。

    欲から離れた、我を起点としない時間。これがそのまま非思量、ほとけ心に生きられる修行です。

    我を離れることの出来る閑かな時間、坐禅の時間を御一緒にいかがですか?

    当分の間は6時半開始、一炷(坐禅一座)のみとなります。
    初めての方は15分前に来てください。
    来月の開催は2月26日となります。
    また、雀宮善応院坐禅会は第四水曜日以外毎週行っています

     

  • 令和5年12月 朝坐禅会「指月の会」のご案内(12月25日朝6時半より)

    2023年12月24日

    秋の彩りの水子地蔵と観音様

    諸法無我

                        「四法印」

     

     11月の晋山結制が終わりましたが、檀務や雑事が多く未だに後片付けが終わりません。

    何とか年内には綺麗に片付けて、平常に戻したいものです。

     

     せわしなくしていたら、いよいよ今年最後の坐禅会になりました。

    お坊さんとしての節目を越え、年の瀬を迎える機会ですので、私なりの仏道というか僧侶としてのまとめの話をしてみたいと思います。

     

     私は祥雲寺に生まれ育ちましたが、お寺のことには殆ど携わらずに育ちました。

    般若心経くらいは読めましたが、正座は大嫌いで、周囲からなんとはなしに向けられる跡継ぎのプレッシャーには見て見ぬふりをして、そのくせ入った宗立の駒澤大学で体験した坐禅は退屈極まりないものでした。

    それでも卒業の年となり、駒沢公園で沈む夕日を眺めながら、期待に応えないわけにはいかないからと僧侶になることを決めました。

    そんな程度の覚悟しか無かったので、永平寺での修行は最初ひたすら辛かったです。

    仲間の助けが無かったら多分挫折していたでしょう。

    大学四年間、勉強より没頭した少林寺拳法で培った体力で何とかこなし、半年を乗り切りました。

    そうして12月になり、お釈迦様が悟りを開かれた成道会に行われる蝋八大摂心(1週間の坐禅行)で、私は仏心に見えました。

    坐禅というのは、形ばかりの物では無く、私たちがどうしても抱え囚われてしまう悩み苦しみを解きうるものなのだと知ることが出来ました。

    達磨大師の言われる、私たちの心こそがほとけなのだと見ることが出来ました。

    やり過ごそうとするばかりだった私には、この時から本当の意味での修行が始まったのです。

     

     上記の四法印とは、仏教思想の根幹となる四つの教えで、その中の一つが諸法無我です。

    「私」なんてものは無い、ということです。

    永平寺での修行は集団生活で、だからこそ多人数で寝食を共にすることからくるストレスがあります。

    しかし集団生活で自分を優先しようとする我を張ることこそが、苦しみの原因であると解るのも修行のありがたさでありました。

    自分で自分にしがみついて、その故に辛い苦しい重たいと喚いていた自分がそこには居たのです。

    それを見つけ、解り、我を離れていくことこそが修行だったのです。

     

     私は仏道というのは、ほとけごころに安住する事が出来る人生の歩み方だと思っています。

    それは刑事ドラマや時代劇であるような情け深さなどではなく、

    欲や自意識と言った重い物を離れ、拘り囚われから解き放たれて、軽やかで縛られない心で生きる事です。

    我が坐禅の師、福井御誕生寺の板橋禅師はそれをこんな言葉で表現していました。

    かたよらない心

    こだわらない心

    とらわれない心

    広く広くもっと広く

    これがお釈迦様の心なり

     

    これが仏教を信じる、行ずる喜びで、だから私は多くの人に仏教を、坐禅をこれからも勧めていきたいと思っています。

    祥雲寺 安藤淳之

     

    偏りのない、こだわりのない、囚われのない時間。

    欲から離れた、我を起点としない時間。これがそのまま非思量、ほとけ心に生きられる修行です。

    我を離れることの出来る閑かな時間、坐禅の時間を御一緒にいかがですか?

    当分の間は6時半開始、一炷(坐禅一座)のみとなります。
    初めての方は15分前に来てください。
    来月の開催は1月22日となります。
    また、雀宮善応院坐禅会は第四水曜日以外毎週行っています

     

  • 令和5年10月 朝坐禅会「指月の会」案内(10月23日朝六時半より)

    2023年10月22日

    埼玉県の幼稚園が遠足で宇都宮に来て、お昼に立ち寄られました。羅漢さんとのご対面。

    放四大莫把捉  (四大を放って把捉することなかれ)

    寂滅性中隨飮啄 (寂滅性中隨って飮啄せよ)

    諸行無常一切空 (諸行は無常にして一切空なり)

    卽是如来大圓覺 (即ちこれ如来の大圓覺)

                                  『証道歌』

     

     

    11月晋山結制まで一月を切りました。

    いよいよ準備も大詰め、スケジュールが始終埋まっててんてこ舞いです。

    十月の頭に筆の達者な方にお願いをして、本堂前に角塔婆を立てました。

    大行事につきものの証のような物で、いよいよ感が出てきました。

     

    書き付ける文言は正面にやる行事の趣旨、裏面に日付と建立者名の記入。

    左右の面はそれぞれ経典や祖録からの引用を書き付けます。

    上記の文は証道歌という祖録から引きました。

    証道歌というのは中国仏教の祖師が書かれた、禅の境地を詩として歌い上げた文言で構成されています。

    其の中で、私の思うところにしっくりくる箇所を今回用いたわけです。

     

    少しわかりやすく崩して読むならば

    起こる物事の理由理屈を突き詰めすぎようとするべきではない。

    全てはあるがままにありなるようになっていくのだから流れに従ってあるべくしてあれ。

    そもそも万物万象は移り変わってゆきそこに意味など無い。

    だからこそ、そんなものに拘り心囚われる必要など何処にも無い、というのが釈尊の悟りなのだ。

     

    私は

    永平寺での修行坐禅で、自分に拘りすぎる必要は無いんだ、ということを知りました。

    總持寺での参禅弁道で、お坊さんらしくあることが拘りの無い最適のあり方だと教わりました。

    御誕生寺での参学問法で、それを続けていくことの大切さを禅師様に身を以て示して頂きました。

    私なりの足跡、仏道を歩む発端というか、動機となるところに合致する表現であり、また三十三回忌の法事の時にいつも読んでいて馴染みがあることから用いました。

     

    願わくは過去の祖師方に同じく、佛意を損なわずに話すことが出来ますように。

     

    祥雲寺 安藤淳之

     

    偏りのない、こだわりのない、囚われのない時間。

    欲から離れた、我を起点としない時間。これがそのまま非思量、ほとけ心に生きられる修行です。

    我を離れることの出来る閑かな時間、坐禅の時間を御一緒にいかがですか?

    当分の間は6時半開始、一炷(坐禅一座)のみとなります。
    初めての方は15分前に来てください。
    来月の開催は11月27日となります。
    また、雀宮善応院坐禅会は第四水曜日以外毎週行っています
  • 令和5年9月 朝坐禅会「指月の会」案内(9月25日朝6時半より)

    2023年9月24日

    永平寺山門。駒沢の先生は「道元禅師の信仰とは歴代仏祖の生き方にならうこと」と説明され、事実そのままを再現しようとして中国禅宗伽藍を忠実に模倣して永平寺は建てられた。

     

    ただわが身をも心をも、はなちわすれて、仏のいへになげいれて、仏のかたよりおこなわれて、これにしたがひもてゆくときちからをもいれず、こころをもつひやさずして、生死をはなれ仏となる。たれの人か、こころにとどこほるべき。

                                           『正法眼蔵』生死の巻

     

     しばらく前にネットの記事で、定年した後にお坊さんを選ぶ人達がいる、というものを読みました。

    曰く、仕事に邁進して仕事以外の人間関係が疎かな日本人男性は定年後の長い余生をもてあます。

    多様な選択肢の中に第二の人生として僧侶を選べる道が近年整備されている。

    老いの中で無常を感じることは機縁が整うことでもあるが、金儲けのため知識欲のため老人ホームがわりを求めて等様々な理由があり、俗っ気が抜けないままで修行に臨んでも上手くはいかない。

    ある住職が言うには、生半可な覚悟では自己を捨てられず、修行の邪魔になることが多い、

    との事。

     

     コメント欄で、自分には自己は捨てられない、との投稿がありましたが、ここが肝の所なのでもう少し掘り下げてみます。

    自己を捨てる、だと仕事でまま求められたりカルト宗教のイメージで浮かぶような、他人のいいなりになってロボットのように動くことを強要されるといったことを想像する方も多いかと思います。

    私としては、ここは伝統的な我を捨てる、という表現の方が受け取りやすいように思います。

    我を捨てる、というのは自己の意思決定を放棄して外の情報を丸呑みするといった意味ではありません。

    俺が私が、なんで自分ばっかりといった我見を離れようとするもので、自己中心の世界観の呪縛からの脱却とも言い換えられます。

    自己愛自己保存自己優先自己顕示と欲は密接に結びついていて、重たく煩わされるもの、いわゆる煩悩です。

    それを小さく少なくしていくのが修行であり、欲に振り回されない自分を育てていくことなのです。

     

     上記は我が宗祖道元禅師の有名な言葉です。

    少し崩して現代語訳します。

    自分の身と心を手放して、仏の家の中に投げ入れる(伝わってきたとおりの教えや修行に倣う)。
    そうすれば、仏の方から全てが行われていく。
    自分は仏のはたらきに従うのみである。ただ従うだけで、自分で力むこともなく、あれやこれやと悩むこともなく、生死の惑いから自由になる。そういう生き方をしている人こそ、仏だ。

    だというのにどうして『自分』に執着し続けるというのか!?

     

     第二の人生としてせっかくの仏縁を得た方達には是非とも踏ん張って欲しいと願います。

    まずは倣うこと。

    仏の生き方を学び真似び、倣うことが欲や自意識といった重たく煩わしいものから離れる道であると感じることが、きっと長く続ける意欲となるはずです。

    願わくはこの機会を持って多くの人が仏道を成ずることができますように。

               祥雲寺 安藤淳之

     

    偏りのない、こだわりのない、囚われのない時間。

    欲から離れた、我を起点としない時間。これがそのまま非思量、ほとけ心に生きられる修行です。

    我を離れることの出来る閑かな時間、坐禅の時間を御一緒にいかがですか?

    当分の間は6時半開始、一炷(坐禅一座)のみとなります。
    初めての方は15分前に来てください。
    来月の開催は10月23日となります。
    また、雀宮善応院坐禅会は第四水曜日以外毎週行っています
  • 令和5年7月24日 朝坐禅会「指月の会」案内

    2023年7月23日

    上旬から綺麗に咲いています。

     

    法堂上に鍬をさしはさむ人を見る

                                       『瑩山禅師洞谷記』

     

     本年11月2日3日に行う晋山結制まで100日を切りました。

    いよいよお尻に火が付いてきて、準備に注意が持って行かれてスケジュール管理が疎かになり、この坐禅会の事を前日まですっかり忘れていました。

    折角ですのでこの晋山結制について少しお話しします。

     

     晋山結制を行うにあたり、人には住職の就任披露式典といった説明をしています。

    ですが厳密には、晋山式と結制はそれぞれ別の物になります。

    晋山式は住職の就任式です。

    余所から修行を終えた僧侶を迎え、到着してお寺の本尊様や祀っている神様に到着の挨拶をして任に就く式典です。

    対して結制は修行を主催する行事です。

    一山の住職として力量を積み、夏と冬に行う集中修行期間「制中」を主催し力量を示すもので、この結制をやり通して始めて「大和尚」と呼ばれるようになります。

    今日ではこれを併せて行うのが主流になり、晋山結制と言われるようになりました。

     

     晋山結制は大変な行事で、多くのお寺では一世一代の大行事として行われます。

    行事のハイライトは結制の上堂と呼ばれる所です。

    仏様の台座である須弥壇に登り、本尊様に代わり法を説いてみせようと宣言し、満座の僧侶檀信徒の前で仏法の問いかけに答える式典です。

    これをこなして見せてこそ、一人前の住職と見なされるようになるのです。

     

     五月に新潟で大学学友の結制にお呼ばれし、この上堂で印象に残るシーンがありました。

    学友の和尚が須弥壇上に登り問いかけを受けると宣言し、最初に問いかけたのは彼の十歳ほどの息子でした。

    曰く「お坊さんって必要ですか?」

    中々強烈な問いかけです。

    対しての答えは大体このようなものでした。

    「世の中車は便利だと皆が使うが、信号機が無くては皆迷いぶつかり合いが絶えなくなる。

     お坊さんは法律とは別の所で信号機の指し示す役割を果たしているんだよ」

    色々な想いがあっての例え話だなぁ、と思いながら聞いていました。

     

     上記の言葉は大本山總持寺を開かれた瑩山禅師の言葉です。

    お釈迦様の残された「私は心の畑を耕すものである」の言葉を受けての表現でしょう。

    お寺の本堂で法が説かれ、それを聴く人の心が豊かに耕され、それが後代までも続いていくようにという願いの言葉でもあります。

    仏法は私たち今を生きる人の心を耕し、道を明るく照らし出す灯火とも標ともなるものです。

    願わくはこの苦心惨憺の晋山結制をもって多くの人に仏道を成ずる機会となりますように願い、まだまだ準備に取り組みます。

     

    祥雲寺 安藤淳之

    偏りのない、こだわりのない、囚われのない時間。

    欲から離れた、我を起点としない時間。これがそのまま非思量、ほとけ心に生きられる修行です。

    我を離れることの出来る閑かな時間、坐禅の時間を御一緒にいかがですか?

    当分の間は6時半開始、一炷(坐禅一座)のみとなります。
    初めての方は15分前に来てください。
    来月の開催は8月28日となります。
    また、雀宮善応院坐禅会は第四水曜日以外毎週行っています
祥雲寺行事案内

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