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31年1月 朝坐禅会「指月の会」案内
2019年1月26日善因善果 悪因悪果
新年おめでとうございます。
本年もどうぞ宜しくお願いいたします。
昨年年末に読売新聞の海外社会欄を読んでいて気になる記事がありました。
「LGBTの楽園 裏に差別」という性的マイノリティ差別の現場を取材した記事です。
その差別の現場取材で、
“信仰が深い年配者や都市部以外の伝統的な地域社会で暮らす住民の間では、LGBTは「前世の業を背負って生まれてきた」とする考えが根強く残っている”
という部分が目にとまったのです。
私が気になった理由は「タイでも間違った業論が根強くあるのか」でした。
「前世の悪業の因縁で今世の悪い境遇がある」という言い回しは二昔前にはよく、今でも少々聞く言い回しです。
日本でも長らく使われた論法ですが、これは元来の仏教からすれば誤りです。
私の大学時代の恩師、駒沢大学名誉教授の田上太秀先生は仏教の平和活動という講演の中で
「元来の仏教に差別はない。勉強不足の人が間違った業の使い方をする。
業とは日々の行い行動によって培われる、常日頃の習慣なのだ。
自らの為他人の為、周囲や未来の為になる事を心がければ、それが習慣となり身についていく。
その生き方が自らを良き人とし、それが周囲に伝播していったならば世の中を良くしていくこととなる。
逆に悪いことを行い続けたなら、習慣となり身について、自分にも他人にも悪い環境を作ってしまう。
業とはするべき事、するべきでないことを身につける事。習慣のめぐみを言うものなのだ。」
という大意のお話をされていました。
仏教は歴代の祖師が身を以て示してきたように「自らの生き方を問う物」なのです。
日常生活でいかに己を律し、正しい習慣を身につけて生活するかを教えているに過ぎないのです。
その結果それが周囲に影響し、世を平らかならしめていくことを願う。
それが仏教徒の平和活動となるのだと、私は教わりました。
業は、生き方の違う人を非難する材料などではなく、まして差別の理由づけに用いられるものではないのです。
悪いことをすれば自らが汚れ、良いことをすれば自らが清し。
その生き方の中には、他人を悪し様にとらえる差別なんてなくなるはずです。
きちんとした言葉で、正しく仏法を伝えられるよう、今年も精進していきたいと思います。
祥雲寺副住職 安藤淳之
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日時:1月28日(月)朝6時半~8時(途中参加、途中退出可)12月のみ第三週開催
6時30分~7時10分(一回目の坐禅)
7時20分~8時 (二回目の坐禅)
場所:祥雲寺本堂一階
用意:身一つで大丈夫です。
足の組めない方は椅子での坐禅もできます。
注意:初めての方は最初に指導を行います。
その為可能ならば一回目の坐禅から参加されてください。
尚、次回は第三月曜日となる18日に開催します。
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