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令和4年2月28日 朝坐禅会「指月の会」案内
2022年2月26日お前たちは「もう我らの師はおられない」と考えてはならない。
私の説いた法と私の定めた律こそが、私亡き後の師である。
『涅槃経』
2月はお釈迦様の亡くなられた月です。
15日が命日なので、1日から涅槃図という釈尊入滅の軸を掲げ、前日14日まで遺言のお経を読んでお勤めをしています。
上記の言葉はお釈迦様が亡くなる前の最後の旅を描いた『涅槃経』の一節になります。
多くの仏教徒に同じく、私にとっても導きとなった大切な言葉です。
私の法話の師匠に
「葬式で導師は故人を仏さまとして導く。
そして遺族に、故人を仏さまとして自らの人生の師として頂いてもらう。
それが導師のなすべきことである」
といった大意のお話を頂戴したことがあります。
叔父を亡くした時近所の近しい方を亡くした時、お二人に良くしてもらったように人に良く接して、ご縁を大切にしなくてはと、思いが切り替わった時がありました。
そうして親切にしようと努めるとき、そこかしこにお二人に良くしてもらった思い出がよみがえり、寂しさが少し薄れた経験があります。
故人を仏さまとして、自らの人生の導き手として頂くというのはこういうことなのかと思いました。
お葬式の翌日、初七日の際には私はこの話をしています。
多くの方は近しい人を亡くされた後は、それまであったネガティブな想いが薄らいで、よかった思い出ばかりが浮かんでくるようになるそうです。
対立する相手がいなくなって反発する想いが行き場を失い、見えていなかったものが見えるようになるからです。
遺族の方が知る、故人の良かった所素晴らしかった所良くしてくれた事、可能ならばそれらをどうか心がけてあげてください。
それらが行われるとき、行いの中に仏となられた故人がよみがえります。
良いことをして幸せの種をまき、善行の導き手として師として仏となった故人を自分の人生に生かす。
これが忌中の間心がけるべきこと、追善供養となるのです。
偏りのない、こだわりのない、囚われのない時間。
欲から離れた、我を起点としない時間。これがそのまま非思量、ほとけ心に生きられる修行です。
我を離れることの出来る閑かな時間を、御一緒にいかがですか?
祥雲寺副住職 安藤淳之当分の間は6時半開始、一炷(坐禅一座)のみとなります。初めての方は15分前に来てください。次回は3月28日となります。また、雀宮善応院坐禅会は第四水曜日以外毎週行っています