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令和4年二月 観音朝詣りのお知らせ
2022年2月16日昨年、佐渡の金山を観光しました。坑道に人形を配置して四百年に及ぶ採掘の歴史を分かり易く展示していました。機械のない時代の採鉱の困難さや、それでも世界一の産出量をもたらした技術的な創意工夫に感心もしました。江戸時代の経済の基盤であっただけでなく、技術史の上からも意義のある遺跡であると思いました。
それと同時に、過酷な労働を強いられた人々、特に水替え人足のことを思わずにはいられませんでした。
もともと重労働で、江戸時代前期には高賃金で雇われたのだそうです。そのため、鉱山近辺の村々は潤ったといいます。ところが18世紀になると、坑道が海面下まで進んで湧水量が多くなり、三年で命がつきるとまで言われた重労働になり、応募者がいなくなりました。そこで幕府がやったのは、無宿人を捕まえて佐渡送りし強制労働に就かせることでした。
折りしも、飢饉や貨幣経済の進捗によって農村が疲弊し、多くの農民が故郷を捨て、江戸には無宿人があふれていました。治安対策にもなり、人手不足も補える一石二鳥の方策であると為政者は考えたのでしょう。
この時代、栃木県は全国一の過疎地になっていました。日光社参の行列に関わる助郷などの賦役が多くて苦しんでいた農村は、相次ぐ飢饉に耐えきれず、いわゆる潰れ百姓が続出したのです。これを老中松平定信は「下野の百姓は江戸の華美な風にあこがれて田畑を捨てている」と記しました。お上の目には庶民の本当の姿は見えません。
佐渡送りになった下野出身の人もいたに違いないと想像しました。そしてそんな境遇の中でも何とか生き抜こうという必死の営みがあったことでしょう。仕事の工夫あり、助け合いあり…裏切りや争いもあったでしょうが。
今日世界遺産とされるような文化財の裏には、人民の苦役が隠されています。それも含めて価値あるものは価値あるのです。
三十年近く前、インドのカジュラホー遺跡を観光したとき、ガイドさんの「この遺跡は誰が造ったのか」という問いかけに、「石工が造った」と即答した石屋さんのことを思い出します。
令和4年2月15日
宇都宮市東戸祭1-1 祥雲寺住職 安藤明之
十八日の朝詣りは午前9時から行います。