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令和4年8月 朝坐禅会「指月の会」案内(22日6時半より)
2022年8月21日供養
この度祥雲寺境内にペットの埋葬供養を行える霊園施設を設けました。
以前より多くの方から要望をいただいており、漸くの運びとなりました。
年内より受け付けられる様進めていきたいです。
供養という言葉は今日広く用いられています。
辞書などを見るとインド語からの訳語で、諸仏諸天に供物を真心から捧げることとあり、また亡くなった人への祈りの行いが今日用いられる意味合いになります。
私はお寺で生まれ育ちましたが、亡くなった人への供養というものが長く腑に落ちませんでした。
死別した人に何をしても意味がないではないか。
そんな想いが修行を終えて寺で法要をやるようになっても離れず、内心焦りがありました。
自分でやっていることに自信が持てず、それではウソをついているも同じではないのか、と。
ある時息子さんを亡くされたお母さんが一周忌の際、子供の為に書写した写経をお墓に埋めるのに立ち会いました。
お経をあげて埋め終わって、何気なく良かったですね、と声を掛けました。
お母さんは
「ええ、こんなことなんの意味もないんですけれどね」
と返されました。
私はその一言に何も返すことができませんでした。
これではいけないと思って勉強を始めました。
しかしどの本を読んでもピンと来ず、遂には勉強会で来られた仏教学の先生に尋ねてみました。
その先生は難しい言葉で返されて、より悩んでしまった私に、参加されていた佐野のお坊さんが声をかけてくれました。
「淳之君、君は考えすぎなんだよ。お母さんが息子さんのためを想って用意してくれたものがそばにある。それが嬉しくないはずないじゃないか」
ああそうなんだ、と私は漸く納得することができました。
死んでしまって心を通わせることはできなくなっても贈り物をすることはできる、想いを届けようとすることはできる、それでいいんだと。
年回供養の時などで、私はこの話をしています。
どうか皆さん、この節目の時に故人を想い、一心に合掌されてください。
集まってくれた来てくれた皆さんを見られたならば、きっと良いお顔をされることでしょう。
祥雲寺副住職 安藤淳之
偏りのない、こだわりのない、囚われのない時間。
欲から離れた、我を起点としない時間。これがそのまま非思量、ほとけ心に生きられる修行です。
我を離れることの出来る閑かな時間、坐禅の時間を御一緒にいかがですか?
当分の間は6時半開始、一炷(坐禅一座)のみとなります。初めての方は15分前に来てください。次回は9月26日となります。また、雀宮善応院坐禅会は第四水曜日以外毎週行っています