-
令和4年9月 朝坐禅会「指月の会」案内(25日朝6時半より)
2022年9月25日或被悪人逐 堕落金剛山 念彼観音力 不能損一毛 『観音経』
数年前から若手のお坊さんとお経や祖録(歴代仏祖の著書)を読む勉強会を月毎に行っています。
一人だと中々進まない難解な読書も、仲間とやるならばやる気も出て楽しくなろうというものです。
故宮崎禅師は三宝の仏法僧の「僧」を仲良きこと、良き仲間と力を合わせることで身心が正され精進できると説かれていましたが、和合の功徳ここに現成せり、と思いながら切磋琢磨しています。
上記の言葉は今読んでいる法華経の第25、観世音菩薩普門品偈の一節です。
法華経は日蓮聖人が奉戴していたことで有名ですが、聖徳太子の昔から日本人に親しまれ読まれてきたお経で、第25章は観音経とも呼ばれて日本の観音信仰の基になったお経です。
観音経は法華経の中でも若干毛色の違う、観音様への信仰を説いたお経になります。
その説明の中で「観音の力を念ずれば」火の燃えさかる穴に落ちても池に変わり、海を漂流して危機に陥っても沈まず、崖から落ちても虚空に止まる等、あるとは思いがたい不思議が説かれています。
その故に観音経は法華経でも異色の、現世利益主眼の後付けであると断じる学者もいます。
ですが観音様は日本の殆どの仏教宗派で信仰され、全国各地で拝まれてきた仏さまです。
数年前に亡くなった仏教学者で禅僧の奈良康明先生は、観音経は二重構造で受け止めるべきものだと著書で書かれています。
何か危機に遭ったときの「観音さま、助けて」という素朴な祈りと、高次の宗教的な救いの重なりが、観音信仰がこれだけ広く根付いた理由だと説かれています。
上記の一節は、悪人に山から落とされたとしても観音様を念ずれば毛一つほどの損失も無い、という下りです。
悪人に追われて山から落ちるとは何か。失脚、競争に負けるともとれるでしょうし、他人やあるいは自身によって精神的に追い詰められることともとれます。
そんな時、観音様を拝むことによって、本来の自分を見つめ、取り戻すことが出来るとここでは説いているのです。
ある方は、私たち人間は、沢山の着物や衣装を着て、それが自分だと思っているというのです。
着物というのはレッテルや肩書きと言い換えられますが、自分が「日本人」や「○○大学生」「財産家」といった着物を着ることで「これが私です」と胸を張って歩いているわけです。
しかしそうした着物を失ったとき、私とは何なのかという喪失に惑ってしまうのです。
ですがそうした着物を脱いで、裸になった姿こそが私たちの本当の姿では無いでしょうか。
評価も肩書きも財産も変わってゆくもので、だからこそ転落しないよう観音様に祈り、また落ちた時、観音様を拝んで心をいやしてゆくことが大切になります。
それが時には、着物を脱がなくてはならなくなったとき、心の拠り所ともなるのでしょう。
仏教ではそれを、「本来の面目」とか「自己実現」と呼んでいるのです。
祥雲寺副住職 安藤淳之
偏りのない、こだわりのない、囚われのない時間。
欲から離れた、我を起点としない時間。これがそのまま非思量、ほとけ心に生きられる修行です。
我を離れることの出来る閑かな時間、坐禅の時間を御一緒にいかがですか?
当分の間は6時半開始、一炷(坐禅一座)のみとなります。初めての方は15分前に来てください。次回は10月24日となります。また、雀宮善応院坐禅会は第四水曜日以外毎週行っています