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令和5年6月 朝坐禅会「指月の会」案内(6月26日朝6時半より)
2023年6月24日無常を観ずる時、吾我(ごが)の心生ぜず、名利の念起らず
『学道用心集』
上記の言葉は私が曹洞宗栃木県宗務所に通っていた時、事務所のあった栃木市のお寺に大書されていた文言です。
門前の小僧習わぬ経を読むという表現そのままに、週二回四年間通う中意味もわからず眺めている内に知らず頭に写し出されるようになりました。
これも行の功徳と言えるのかもしれません。
上記の言葉は我が宗祖道元禅師の残された言葉です。
私なりに思う無常を感じた時に思うこと、無常觀を書いてみます。
私も大学を卒業して僧侶となり、もうすぐ20年となります。
後ろを歩く友人に後頭部が薄くなったと言われ、寝ても疲れがとれなくなってきて、4月の花祭り準備で痛めた足の腫れが6月になってもまだ引かず、歳を取ったことを実感しつつあります。
今まで大勢の人を僧侶として見送ってきましたが、漸く私も知識としてだけではなく自分のこととして感じるようになりました。
私もまた枯れてきたのだ、と。
この時に思い感じることは、とても恵まれた環境でお坊さんを勤められた事実です。
沢山の人の支えと助けがあってお坊さんとしてやってこられた。
やがて枯れて朽ちるのならば、多くの人にしてもらったように後に続く人に良い土壌となって残すことが出来たなら自身の良い始末となってくれるだろう、というのが偽らざる想いです。
昨今テレビを見ていて、勝利者インタビュー等で多くの人が「恩返し」を言われています。
性分が天邪鬼なもので、周囲からたたかれない穏当な表現で言葉を発しているように思いつつ聞いてきましたが、やっぱり支えてくれた人達へ恩を返したいというのは自然に皆が行き着くところなのでしょう。
これが私なりの無常觀。
私が枯れて朽ちるならば、良い土となって次代を支え繁らせる豊かな土壌になれたらと願います。
祥雲寺 安藤淳之
偏りのない、こだわりのない、囚われのない時間。
欲から離れた、我を起点としない時間。これがそのまま非思量、ほとけ心に生きられる修行です。
我を離れることの出来る閑かな時間、坐禅の時間を御一緒にいかがですか?
当分の間は6時半開始、一炷(坐禅一座)のみとなります。初めての方は15分前に来てください。来月の開催は7月24日となります。また、雀宮善応院坐禅会は第四水曜日以外毎週行っています