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令和8年8月 朝坐禅会「指月の会」案内(8月24日朝6時半より)
2026年8月23日諸行無常 諸法無我 一切皆苦 涅槃寂静 『四法印』
先月の坐禅会では7月にあったグリーフケアシンポジウムにまつわる話をしました。
終わりましての茶話会で参加者の方から、
死別した遺族の悲しみを癒やす事への言及はあったが、死にゆく人の心の問題への言及が欠けているのでは、
といったご指摘を頂きました。
これは言葉として区別して用いられているもので、ご指摘の問題はターミナルケアと称されます。
グリーフケアは大切な人を失った遺族の悲しみ、悲嘆を癒やしていこうとするケアを示し、ターミナルケアは治療が見込めない末期の患者に行われる医療的精神的なケアを示しています。
私自身僧侶として末期医療にある方から相談を受けることもあります。
そうした時にどんな言葉を返してあげられるのか、いつも自問自答するばかりです。
前回お話ししたのに同じく、特効薬となりうるものはありません。
よくお話を聞く、傾聴する、が最初に有って、定型なんてありません。
宮澤賢治の「アメニモマケズ」にあるように、
「死にそうな人あれば、行って怖がらなくてもいいよといい」です。
僧侶の、仏教徒の願い行うところは「施無畏」です。
皆同じだよ、怖がらなくていいんだよと言ってあげることです。
その上で参考に出来うることとして、これまで何度か取り上げたものですが幾つか列挙してみます。
■昔放送されたNHKスペシャルで『チベット死者の書バルドトドゥル』という映像があります。
ヒマラヤ山中の村では、死に行く人の枕辺で死者の書バルドトドゥルが読み聞かせられます。
経典では死に行く貴方は段々とこうなって、門をくぐってこういう光の中へ入っていって、というように「これから」を教えてくれるのです。
葬式と言う以前に、弔いの儀式とはどういうものなのかを教えてくれる映像だと思っています。
儀式とは、定めがたい治まりがたい想いを、収まるべき所に修めていくもので。
同年の僧侶の一周忌に参列し祭壇の遺影を見ていて、自分の亡くなった後を見た思いがしました。
■作家立松和平さんの著書で、良寛和尚の和歌俳句を紹介する本の一節
「~誰でもが諸行無常という真理の中に生きるしかないからである。
この流れの中に、生老病死がある。この無常こそがこの世を包む大きな流れであって、世の中の出来事など小さな流れに過ぎない。そのことを私は痛切に気付かされた体験がある。
私の母は現在病気療養中であるが、決して治ることのない病に倒れ、死が逃れられないということが現実となった時、私は悲しくて悲しくてたまらなかった。
出来たらその現実から逃れたいと、七転八倒した。そんな私の様子を見て、あるお坊さんがいった。
「無常とは闘うものではありません。受け入れるものです」
本当にその通りだと思った。真理と闘うことは出来ない。
真理は誰をも差別することなく、一人も洩らさずみなを平等に包むのである。
■BSのニュース番組に出演された順天堂大学の樋野興夫先生の提唱された「ガン哲学外来」
ガンで余命宣告された人にかけてあげる言葉を模索し、自身の読んだ様々な書物の中からその患者さんに届きうる言葉をかけてあげる活動を継続。
一例に本の表題にも用いられた言葉が「明日この世を去るとしても、今日の花に水をあげましょう」
宗教改革者ルターの言葉を少し換えたもので、死を命の敵として失うことにおびえネガティブになるならば、命よりも大切なものを見つけるために自分以外、外に関心を向けてみましょう。
そうすると違うものが見えることもある、時には人生の役割や使命に気付くこともある。
祥雲寺 安藤淳之
偏りのない、こだわりのない、囚われのない時間。
欲から離れた、我を起点としない時間。これがそのまま非思量、ほとけ心に生きられる修行です。
我を離れることの出来る閑かな時間、坐禅の時間を御一緒にいかがですか?
当分の間は6時半開始、一炷(坐禅一座)のみとなります。初めての方は15分前に来てください。来月の開催は第四週月曜が本山参拝旅行と被ってしまう為第三週9月21日月曜となります。また、雀宮善応院坐禅会は第四水曜日以外毎週行っています
