ごあいさつ

宇都宮市の祥雲寺は歴史のある曹洞宗のお寺です。
栃木県庁のすぐ北にあり、自然林の中には西国三十三番の観音像が祀られています。
また、樹齢350年を超える枝垂れ桜の老樹は県天然記念物として有名です。
たくさんの方々に仏教を親しんでいただくことを願いとし、様々な信仰行事を催しています。

ようこそおまいり

座禅会 栃木県宇都宮市の祥雲寺(曹洞宗) | 桜や祭りが名物の寺

座禅会の記事

  • 令和2年9月 朝坐禅会「指月の会」案内

    2020年9月26日

    今年は彼岸花も咲くのが遅く、それでもお彼岸中日には花開いてくれました。

     

    他は是吾にあらず         『典座教訓』
     我が宗祖道元禅師は数多くの言葉を残されており、その中でも世間に知られた言葉と思います。
    他の人にやってもらうのは自分がしたものではない。
    自らのことは自分で行う。
    ごく当たり前のことを言っていますが、その真意は仏道を歩む姿勢そのもののあらわれであると思います。
     禅師が中国に留学して学んでいた際、あるお寺であったエピソードです。
    暑い時文、真昼の太陽が照っている中、日差しを浴びながら庭で椎茸を干している老僧を見かけられ、
    「貴方のような年功を積み重ねた方がこのような雑事をしなくても若い者にでも任せればよいのでは」
    という趣旨の言葉をかけられて、それに対して老僧は
    「他人にやってもらったのでは自分でしたことにはならない(他は是吾にあらず)」
    と返されたそうです。
     自らが成すべき事を、行う。
    自らの本分を全うする。
    当たり前のことに聞こえますが、そこにやらない理由をつけてしまう事を、私たちは当たり前のように行っています。
    それは惑わしとなり、煩い悩ますものとなりうるものです。
    身分や長幼の序等に依らず、成すべき時に成すべき事を自らが成せるように行う。
    惑わされないことを身と心に習わせ慣らしていく、習慣づけていく。
    これこそが仏道の修行と呼ぶべきものです。
    心を耕すあり方そのものです。
     盲目的に義務を果たすロボットになれ、などと言っているのではありません。
    自らを惑わす怠け心に陥ってはいないか身心を常にチェックして、出来ることを出来るときにやらず何時行うのか、ハッパをかけるように自身を鼓舞し習慣づけていく。
    そうすることで自らを良く整えていく。
    自らのなすことのみが自らに帰結するのですから。
                             祥雲寺副住職 安藤淳之
    28日の朝坐禅会も6時半からの一座のみとなります。
  • 令和2年8月 朝坐禅会「指月の会」案内

    2020年8月23日
    威儀即仏法
     
    8月になってから大変暑い日が続いています。
    加えて新型コロナへの対処から暑い最中でもマスクをつけなくてはならない場合も多く、より一層体調に厳しい夏となりました。
    先日人数を少なくしてのご供養の法要をお勤めしました。
    11時頃の気温が高い中大汗かきながら来られた方から
    「ネクタイってつけなければいけませんか?」
    との質問を受けました。
    私は
    「法事などで服装を整えるのは仏さまや亡くなられた人にしゃんとした姿で向き合う、礼をとる姿で臨むためですが、この暑い最中に服装に気を遣って体調を損なってしまうのは誰も望まないと思います。
    一番大切なのは臨むに当たっての心構えなのですから、今日は心のネクタイを締めるつもりで臨まれればよろしいと思います。」
    といった事をお答えしました。
     
    曹洞宗には威儀即仏法という言葉があります。
    日ごろの身なりや立ち居振る舞い一つ一つを整えることこそ心を整える大切な修行である、という意味になります。
    日々の行いの積み重ねが私という人間を形作っていく。
    ならば私を心穏やかな、落ち着いた整った人間にしようとするならば日々の行い一つ一つを整えていくことが必要となる。
    だからこそ私たち禅宗のお坊さんは一挙手一投足を厳しく整える修行生活を行うのです。
     
    ですが心を整える為に行う事が健康を損ねてしまうのは、本末転倒と言うしかありません。
    仏教の行事や教えは、常に心をどう整えるかが肝なのですから、肝心なところを踏まえているならば臨機応変で何も問題ないのです。
    「こうでなければならない」等という固定観念こそ、心を整える実践たる仏道を最も損なう思い込みであり、元来自由闊達である心を閉ざす檻となることを注意すべき処です。
                                       祥雲寺副住職 安藤淳之
    明日の朝坐禅会は本堂2階の広い空間で行います。
  • 令和2年7月 朝坐禅会「指月の会」案内

    2020年7月26日

    今年も蓮が綺麗に咲きました。

     

    謹んで大衆に申す
    生死事大 無常迅速
    各々宜しく星醒すべし
    謹んで放逸なることなかれ
                      僧堂で鳴らす板に書かれる警句
     私の坐禅の師、福井御誕生寺の板橋興宗禅師が75日に遷化されました。
    修行を終えても僧侶としてのあり方に迷っていた私に道を示して下さり、お膝元で2年ほど再度修行の機会をいただきました。
    禅師様には沢山のことを学びました。
    寂寥の思いは募れども、別れに際して思うのは上記の「無常迅速」でした。
     お釈迦様は2600年の昔、80年の人生を歩まれ、沢山の弟子に看取られる最後であったと言います。
    弟子達が惑うことの無いよう、これまで説いた教えを要約して語られ、そして最後は自らの死に様を示す無言の説法であったそうです。
    人は誰しもが死ぬ、死とはこういうものだ、だからこそ生きている今怠ること無く務め励み精進して修行を成しなさい、と。
    以来仏教徒の姿勢とはかくの如くで、上記の警句はそれを受けて中国で書かれ、今日も修行道場で心すべき警句として用いられています。
     禅師様は本当に様々な手本をお示し下さいました。
    その手本を、今度は自分がこの身で実践し、能うならば示していくべく務めていく番が巡ってきました。
    教えは人生に生かされてこそのもので、そして歴代の仏祖は実践の中で教えを伝えてきたのですから。
    禅師様の教えを実践する中に、仏と成られた禅師様の命がきっと息づいていることを私は信じています。
                            祥雲寺副住職 安藤淳之
    明日の坐禅会は本堂二階、広い空間で間隔をあけての坐禅となります。
  • 令和2年6月 朝坐禅会「指月の会」案内

    2020年6月21日

    梅雨の時期は紫陽花の季節

     

     

    栴檀林せんだんりん雑樹ぞうじゅし、鬱密うつみつ森沈しんちんとして獅子ししのみじゅう
    (香木の林に他の雑木が生えることの無いように、弁道精進の場には志ある人が集う)
                                    『証道歌』
     
     先日境内草木の手入れをしていたところ、お参りに来ていたアジア人の青年と立ち話をしました。
    県内在住でお寺へのお参りを時折されているとのことで、信仰している宗教は無いがお寺に来ると気持ちが落ち着くのだそうです。
    お寺も仏教も心を安らかに、落ち着けていくものなのだから機会があればどうぞいらして下さい、という趣旨の話をしたら「また菩薩さまに会いに来ます」といって帰られました。
     
     以前NHKの番組で題材にされていましたが、お寺の建物を表現する伽藍という言葉は「僧侶の修行する林」を現す言葉を原型としています。
    インドの時代僧侶は、誘惑の多い町中ではなく近郊の林を修行の地としていました。
    それは市中の俗塵世情から離れた惑わすもののない自然の環境こそ、心を落ち着ける最適の環境であると知っていたからでしょう。
    今日のお寺もまた、浮き世の波風から離れた心を落ち着けるに足る作りを伝統として踏襲しています。
    異国の青年との語らいは、私たち仏教徒の受け継ぎ育み伝えるものが人種や文化の垣根を越えて通じるもの、尊びうるものなのだと再確認させてくれました。
    或いは大げさな言い方なのかもしれませんが、ささやかなりとも古人はこうした出会いと導きを「観音様のお導き」と受け取っていたのでしょう。
     
     
                                祥雲寺副住職 安藤淳之
    明日の坐禅会は風通しの良い広い堂内で短縮して行います。
  • 令和2年5月 朝坐禅会「指月の会」案内

    2020年5月24日

    5月の本堂と境内

    これわが最後に教誨する処なり
                 『遺教経』
     
     先日市内のお坊さんの葬儀に参列しました。
    僧侶として活動して以来の付き合いでしたから、16年ほどの付き合いがありました。
    突然死であったためお勤めしていても実感がわかず、最後にお骨を祭壇に安置して参列者が帰られ静かになってから漸く、もうお話しできることはないのだと理解できました。
    一人堂内で御遺影と10分ほど対面し、身近に居た人を無くした寂しさと思っていた以上に暖かい思い出を頂いていたのだという驚きと、そしてお釈迦様の最後の説法とされる『遺教経』の一節をかみしめていました。
     
     お釈迦様は今から2600年の昔、インドに生まれて80年の人生を歩まれました。
    その最後は、沙羅双樹の元に横たわり多くの弟子に見守られながらのもので在ったと言います。
    自分が世を去った後弟子達が惑うことのないように、臨終の床にありながらこれまで説かれてきた教えを丁寧に再確認できるように纏めて説かれたのが今日『遺教経』という形で伝えられ、そしてその最後の教えは自らの死にゆく姿を見なさいと言う無言の内の説法であったと言います。
    人は誰しもが亡くなっていく、死とはこのようなものなのだ。
    だからこそ生きている今、怠ることなく務め励み精進し、道の達成心の安心を成しなさい、と。
     
     今、一人の和尚が世を去られて、多くのことを示してくれました。
    願わくは私も暖かい思い出を人に持ってもらえるような、あの和尚さんの様に人に接することが出来ればと思います。
    その行いの中に、仏と成られた和尚さんとのご縁が、きっと確かに息づいていることを信じています。
     
                           祥雲寺副住職 安藤淳之
    明日の坐禅会は風通しの良い広い堂内で短縮して行います。
    その為暖かい格好でお越しください。
祥雲寺行事案内

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