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2020年4月26日この坐禅会を始めて五周年となりました。大難の時であるからこそ、足下をしっかりと見定める時でもあろうかと思います。初心を思い返し、最初の文章を今年も再掲します。お前の苦しみを、じっと見つめてみよ。誰々にののしられた、誰々により損害を受けた、誰々に手ひどく負かされた、誰々に盗まれた、という思いを抱いてはいないか。その思いがすでに怨みであると知りなさい。怨みを抱いた人生は重いものだ、安らぎというものがなくなってしまう。いっさいの怨みを棄てよ。今まで抱いてきたあれこれの思いをさっぱりと棄てよ。棄てれば、必ず軽くなる。棄てて、かろやかに生きなさい。― 『スッタニパータ』第一章 ―静かな所で何をするでもなく落ち着いて瞑想をすることで心身の調子が整う、という事は昔から広く知られ、行われてきました。近年では科学的分析により血圧が下がる、海馬の機能が促進され脳内の情報整理がされる、精神安定に重要な働きをするセロトニンの生成が促される、等の効果が確認されているそうです。しかし坐禅は、これらの効果を内包しながらも、何も求めないで只ひたすらに坐る事こそ最上のものである、と伝えられてきました。私はそれは、「軽くなる」からだと思います。人間生きていれば百人百様、様々な想いやしがらみを背負っているはずです。古人は人生を「人の一生は重荷を負うて遠き道を行くが如し」と形容したそうですが、時には荷を下ろし、わが身を見つめ直す時間こそ忙しい現代人に必要な物だと思います。一人で行おうとすると、怠けてしまったり後回しにしてしまい続かない場合もあります。ですがみんなで行えば、難しいことでも楽しく行えるはずです。この朝座禅会はそのような場となる様発起しました。明日4月27日の朝坐禅会は、6時半から開催しますが、短縮し広い空間でばらけて行います。その為参加される方は厚着でお越しください。
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令和2年3月 朝坐禅会「指月の会」案内
2020年3月22日諸行無常新型コロナの世界的蔓延で、世の中の色々なところに支障が出ています。祥雲寺でも地域の観音堂例祭や御詠歌講、花祭り写経会が中止になりました。私には医学の心得はありませんが、感染症の話題になる度に、学生時代に読みふけっていた村上龍の『ヒュウガウィルス』をいつも思い出します。この本は簡潔に言えば、九州で酷い病気がはやり、細菌戦の部隊が処置に赴く話です。作中の架空の病気ヒュウガウィルスは未知の病気で、エボラ出血熱を更に酷くした空気感染するウィルスが一帯を変わり果てた死体の山にします。その様子を見て、なんで人間はそんなに弱いんだ、と嘆いた人に、老科学者が返した言葉が印象深く、今でも良く憶えています。「弱くて脆い部品が精密に作動するから生物は進化した。われわれのからだを構成する分子は脆くて壊れやすいつながり方でつながっている。だから化学反応が可能で、全体として信じられないような生体のシステムが生まれた。強い結合で結ばれれば鉱物になってしまう。鉱物は何億年経ってもほとんど変化がない。人間は柔らかい生き物だ。その柔らかさ、脆さ、危うさが人間を人間たらしめている」あまりにも繰り返し読んでいて、私の人間観の基ともなっていますが、これって言葉が変われば、そのまま「無常」を表現しているものだと思っています。私たちは無常(変化)だから生まれ育ち、変化するから老い病み死んでいく。無常には良いも悪いもない、変化するから私たちはこうして在ることが出来る。だから無常は厭うものではなく、受け入れその都度真摯に対応するのが最も良い身と心の処し方と言えるのでしょう。残念なことに、新型コロナとの付き合いはもうしばらく長引きそうです。私たちが成すべきは、こういうこともあるさと腰を据えて向き合って、日々対処して自分と周りを整えていくことなのでしょう。それこそ疲れないようじっくりと。祥雲寺副住職 安藤淳之一人で修行を行おうとすると、怠けてしまったり後回しにしてしまい続かない場合もあります。ですがみんなで行えば、難しいことでも楽しく行えるはずです。この朝坐禅会はそのような場となるよう始めました。一日の始まりを迎えるこのひと時、ご一緒に「かろやかに」生きてみませんか?日時:3月23日(月)朝6時半~8時(途中参加、途中退出可)
6時30分~7時10分(一回目の坐禅)
7時20分~8時 (二回目の坐禅)
場所:祥雲寺本堂一階
用意:身一つで大丈夫です。
足の組めない方は椅子での坐禅もできます。
注意:初めての方は最初に指導を行います。
その為可能ならば一回目の坐禅から参加されてください。
また、祥雲寺では毎週水曜夜6時(第四水曜のみ休み)、雀宮布教所「善応院」にて坐禅会を行っています
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令和2年2月 朝坐禅会「指月の会」案内
2020年2月23日利行は一法なり、普く自他を利するなり修証義第四章 四摂法(ししょうぼう)先日テレビをつけてみて、NHKで昨年行ってきたミャンマーの映像が流れていたので懐かしく視聴しました。世界ふれあい街歩き、黄金輝く仏教の街マンダレ–、という番組です。マンダレ–というのはミャンマーの旧首都です。日本で言えば京都のような場所で、王宮を中心に碁盤の目のように整然と建物が並ぶミャンマーの古都です。冒頭に東南アジアの都市で見かける、街の広場で早朝に大勢集まって太極拳や健康体操をしている人たちが映されて、その中でヒップホップを踊っていた中年のご婦人が、大変印象深い受け答えをされていました。撮影者が「この町はどんな街ですか?」と尋ねると女性は「困っている人を助ける街よ」と答えたのです。これは、中々出てくる言葉ではないでしょう。なんとも素敵な受け答えではないでしょうか。ですが、女性もその周りも、なんてことはない当たり前の認識として答えていたのです。番組の中では様々な人が映されて、多くの人が良いことをする、功徳を積むことで幸せになれると話されて、他者への施しをして手を合わせ、また種々の形で徳行を実践していました。我が宗祖道元禅師の著書に「利行は一法なり、普く自他を利するなり」という言葉があります。人のためになる行いとは決して一方的な、損をするだけのものではない。他者の為の行いとは翻って自分の為の行いともなるのだ。損得ではかれるものではない尊い淨行なのだ。意訳するとこのような意味となるでしょうか。ミャンマーの人々は、他者の為に心を配り分け与える事こそが「普く自他を利する」、他人と自分をそして世界を幸せにする道なのだと理解しているからこそ、世間的には損をしていても皆笑顔で幸せそうにされているのでしょう。頭の下がる光景でした。手を合わせたくなる尊さのある光景でした。いずれまた、お参りの企画を立てて訪ねたいとの思いを新たにしました。祥雲寺副住職 安藤淳之一人で修行を行おうとすると、怠けてしまったり後回しにしてしまい続かない場合もあります。ですがみんなで行えば、難しいことでも楽しく行えるはずです。この朝坐禅会はそのような場となるよう始めました。一日の始まりを迎えるこのひと時、ご一緒に「かろやかに」生きてみませんか?日時:2月24日(月)朝6時半~8時(途中参加、途中退出可)
6時30分~7時10分(一回目の坐禅)
7時20分~8時 (二回目の坐禅)
場所:祥雲寺本堂一階
用意:身一つで大丈夫です。
足の組めない方は椅子での坐禅もできます。
注意:初めての方は最初に指導を行います。
その為可能ならば一回目の坐禅から参加されてください。
また、祥雲寺では毎週水曜夜6時(第四水曜のみ休み)、雀宮布教所「善応院」にて坐禅会を行っています
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令和2年1月 朝坐禅会「指月の会」案内
2020年1月25日今年もどうぞよろしくお願いします。四大分離して甚れの処に向かってか去る。 『無門関』お話しする機会があった方からリクエストをいただいたので以前の話ながら再掲します。しばらく前に「千の風になって」という歌が大変流行しました。私のお墓の前で泣かないで下さい、私はそこに居ません。千の風になって、あの大きな空を吹き渡っています。この曲の特別なところは、死者からのメッセージであるという所です。死という断絶。それを超えて語りかけてくれる「向こうからの言葉」うちひしがれている人にとって何よりの慰めとなる、この歌にはそうした力があるのだと思います。この歌詞は一説にはネイティブアメリカンの言葉が元になってアメリカで広まり、それを新井満氏が翻訳して歌にしたそうです。私たちは縁あってこの世に生を受け、様々な結びつきの仲で育ちやがて枯れていきます。縁によって生まれいでた私たちは、死ねば何処に行くのでしょうか。何処に行くのでもありません。世界から結びつきによって生まれた私たちは、ほどければまた世界に帰っていくのです。私たちの命は、すがたかたちを変えてまたこの世界を巡る大きなはたらきへと立ち返っていく。だからこそ、悲しみに萎れた顔を上げて耳を澄まして見たならば、木漏れ日の煌めきや風のそよめき、土の臭いや水の流れにあの人の命のはたらき、面影を見ることも出来るのでしょう。ですが、お墓こそが故人を思い返す、偲ぶのにこの世で最も適した所であることも間違いないはずです。故人を弔い、文字通りその名残を石の永遠性に託して刻み、この世にあったのだという証拠を立たせているのですから。どうかお墓参りの時にはたくさん声をかけてあげて下さい。故人には出来なくなった掃除をして届けたい物や思いをお供えしてあげて下さい。そうして合わせた手の向こう側に、きっと喜ぶ顔を感じることが出来るはずです。祥雲寺副住職 安藤淳之一人で修行を行おうとすると、怠けてしまったり後回しにしてしまい続かない場合もあります。ですがみんなで行えば、難しいことでも楽しく行えるはずです。この朝坐禅会はそのような場となるよう始めました。一日の始まりを迎えるこのひと時、ご一緒に「かろやかに」生きてみませんか?日時:1月27日(月)朝6時半~8時(途中参加、途中退出可)
6時30分~7時10分(一回目の坐禅)
7時20分~8時 (二回目の坐禅)
場所:祥雲寺本堂一階
用意:身一つで大丈夫です。
足の組めない方は椅子での坐禅もできます。
注意:初めての方は最初に指導を行います。
その為可能ならば一回目の坐禅から参加されてください。
また、祥雲寺では毎週水曜夜6時(第四水曜のみ休み)、雀宮布教所「善応院」にて坐禅会を行っています
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令和元年12月 朝坐禅会「指月の会」案内
2019年12月21日不離叢林(修行を怠らず、仏道を歩み続けること)『正法眼蔵』先日祥雲寺に絵手紙サークルの方が来られました。仲間たちと色々な題材で絵手紙を書いていて、いつもモチーフにできる対象を探しており、祥雲寺の羅漢様を拝観したいとのことでした。後日拝観されたお礼の手紙を頂き、「まるで別天地にいるかのような、心穏やかな時間を過ごせました」との感想が書かれていました。お寺のことを昔の表現で「叢林」といいます。インドでの仏教初期のころ、修行を行う場所は強い日差しや世俗の喧騒から離れた静かな林で行われていました。そのことから修行のお寺を叢林と呼び、また外界から離れ修行に専念する寺院建築を僧伽藍摩(僧侶が集まって修行を行う静かな場所)、短縮して伽藍と呼んできました。伽藍の方は、先日のNHK番組「ちこちゃんに叱られる」で取り上げられた題材ですので、ご存じの方も多いかと思います。私は常々、お寺の果たす社会的役割は二つのことだと思っています。一つは仏道修行の場として。お釈迦様からの教えを受け継ぎ育み伝えていく、修行と布教の場であること。もう一つは慰霊、祭祀の場として。亡くなられた大切な近しい人を弔うのに相応しい、お参りの場であること。この二つを実践するためにも、お寺の境内は心を落ち着けられる場所として常に整える必要があります。来られた方に林の中のような静かな、「心穏やかな時間」を感じていただけたなら、寺の一員としてそれはとても喜ばしく思います。祥雲寺副住職 安藤淳之一人で修行を行おうとすると、怠けてしまったり後回しにしてしまい続かない場合もあります。ですがみんなで行えば、難しいことでも楽しく行えるはずです。この朝坐禅会はそのような場となるよう始めました。一日の始まりを迎えるこのひと時、ご一緒に「かろやかに」生きてみませんか?日時:12月23日(月)朝6時半~8時(途中参加、途中退出可)
6時30分~7時10分(一回目の坐禅)
7時20分~8時 (二回目の坐禅)
場所:祥雲寺本堂一階
用意:身一つで大丈夫です。
足の組めない方は椅子での坐禅もできます。
注意:初めての方は最初に指導を行います。
その為可能ならば一回目の坐禅から参加されてください。
また、祥雲寺では毎週水曜夜6時(第四水曜のみ休み)、雀宮布教所「善応院」にて坐禅会を行っています