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令和元年11月 朝坐禅会「指月の会」案内
2019年11月23日幸せになる道とは身をつつしむこと。言葉をつつしむこと。心をつつしむこと。つつしむことは自分を縛ることではない。むしろ、このうえなく安楽にする。そして、つつしみによって得られるのは苦しみからの脱却と幸福である。『ウダーナヴァルガ』第七章日本中を熱狂させたラグビーワールドカップも終わって、祭りの後の寂しさとともに秋も深まり、境内を紅葉が彩ってくれています。ワールドカップの為に大勢の方が日本に来られ、多くの方に日本を楽しんでいただけていたようです。イギリスの記者が書かれた記事に「我々が日本のラグビーW杯を愛する理由」というのがあって、曰く「日本人はルールを愛し、それから逸脱することはない。しかし、それは日本での生活を快適で簡単なものにする」と評して、規律を守る国民性によって日常が良いものとなっていると賞賛されていました。私たち仏教徒は信仰の実践として「戒」を授かり、これを日頃よりつとめて行います。戒の数はまちまちですが、共通して「殺さない、盗まない、うそを言わない、人をそしらない、怒らない」等と極端な行動を慎む文言が連なります。これらの決め事によって行動が縛られ不自由となるのではと思う人もいるかもしれませんが、そうではないのです。むしろ、その自由によって他者との不和、軋轢が生まれ、それらが苦しみのもととなるのです。戒はつつしむことによって他者を尊重し自らの心を護り育み、安らぎをもたらしてくれるのです。きちんとした決まり事を護るのは、他者を尊重し自らを護る、最善の道なのです。日本人は、長い歴史の中でそのことをよく学び、行動様式に深く根付いているからこその、こうした評価が生まれるのでしょう。この日本人の美点をこれからも護り育み伝えていけるよう、私もまた実践し繋げていきたいと思います。祥雲寺副住職 安藤淳之一人で修行を行おうとすると、怠けてしまったり後回しにしてしまい続かない場合もあります。ですがみんなで行えば、難しいことでも楽しく行えるはずです。この朝坐禅会はそのような場となるよう始めました。一日の始まりを迎えるこのひと時、ご一緒に「かろやかに」生きてみませんか?日時:11月25日(月)朝6時半~8時(途中参加、途中退出可)
6時30分~7時10分(一回目の坐禅)
7時20分~8時 (二回目の坐禅)
場所:祥雲寺本堂一階
用意:身一つで大丈夫です。
足の組めない方は椅子での坐禅もできます。
注意:初めての方は最初に指導を行います。
その為可能ならば一回目の坐禅から参加されてください。
また、祥雲寺では毎週水曜夜6時(第四水曜のみ休み)、雀宮布教所「善応院」にて坐禅会を行っています
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令和元年10月 朝坐禅会「指月の会」案内
2019年10月27日花はただ咲く 只ひたすらに只になれない 人間の私相田みつを禅宗の有名な言葉に「放下着」があります。着ているものを放下せよ、つまり執着を捨てろ、という趣旨の言葉と読み取れます。是に限らず、執着、欲得の類いを離れ捨てよとの言葉は多々あります。我が宗祖道元禅師も「我が身をも、心をも放ち忘れて、ほとけの家に投げ入れて ほとけのかたよりおこなわれてこれにしたがいもていくとき、力をも入れず、心をもついやさずして生死を離れ、ほとけとなる」と説かれ、私自身坐禅会に初めて来た方への説明は「捨てれば必ず軽くなる、捨てて、かろやかに生きなさい」というスッタニパータ(南方仏教に伝わる釈尊の語録)からの引用を必ず用いています。それは、坐禅が執着を、人が知らず抱えてしまっているあれそれを手放すことが出来る淨行であると信じていればこそです。その故に、坐禅をして何になるのか?との問には何にもならない(何かの為では捨行と成らない)と答えるのが正道となるのです。しかし、何事も言うは易く行うは難し、社会の仕組みの中に生きる身には中々捨てきることは難しいです。そもそも人間を知れば知るほどに、ロジカルに割り切れるものではないのだと思い知らされます。そうした見地に立った時、心に芽生える視点、想いにこそ「慈悲」があるのだと思います。慈悲は「慈しみ」「悲しみ」の二字で表現されます。有機体で構成される私たち人間は、無常の道理の中で必ず生老病死の苦にさらされ、徹底しようとしてもしきれない悲しさを元来持った生き物です。この弱さ、もろさ、あやうさを知るからこそ、同じ悲しみをもつ同類への哀れみ慈しみの心が、人には自ずと芽生えうるのです。悲しみに裏打ちされた慈しみの心、故に慈悲というのです。冒頭に引用した相田みつをさんは、足利で長らく坐禅会に通われて、このことをよく学んでいるからこそ、その作品には慈悲の眼差しがはっきりとあらわれています。「だめだっていいじゃないか、人間だもの」などはその代表と言えるでしょう。これらは、元々だめなのだから刹那的に生きるべきだ、とか怠惰に自堕落に耽っても良いとかをいっているのでは決してありません。ポジティブになれない上手くいかないという時に、そういうこともあるんだよという許しと労り、慈しみの視点が、木石ではない人には必要とされるのです。だからこそ、慈悲の心の表れである観音様は、今日まで広く信仰されてきたのでしょう。冒頭の一句は、このことをきちんと心しているかと自分に問いかける警句として、いつも自室に掲げているものです。祥雲寺副住職 安藤淳之一人で修行を行おうとすると、怠けてしまったり後回しにしてしまい続かない場合もあります。ですがみんなで行えば、難しいことでも楽しく行えるはずです。この朝坐禅会はそのような場となるよう始めました。一日の始まりを迎えるこのひと時、ご一緒に「かろやかに」生きてみませんか?日時:10月28日(月)朝6時半~8時(途中参加、途中退出可)
6時30分~7時10分(一回目の坐禅)
7時20分~8時 (二回目の坐禅)
場所:祥雲寺本堂一階
用意:身一つで大丈夫です。
足の組めない方は椅子での坐禅もできます。
注意:初めての方は最初に指導を行います。
その為可能ならば一回目の坐禅から参加されてください。
また、祥雲寺では毎週水曜夜6時(第四水曜のみ休み)、雀宮布教所「善応院」にて坐禅会を行っています
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令和元年9月 朝坐禅会「指月の会」案内
2019年9月15日仏法僧「三宝」上記の「仏」「法」「僧」とは三宝と呼ばれる、仏教徒の帰依信仰を表す言葉です。日本で最初に仏教を広めようとした聖徳太子は「篤く三宝を敬え」と憲法十七条に書かれました。この三宝を信仰する功徳をある老師がお話しされた内容が素晴らしかったので、あいまいな又聞きながらこちらで紹介します。かつて老師が結婚式の導師を勤め、その披露宴の席でされたお話です。「今日このお二人は仏前で三宝に帰依し夫婦の誓いを交わした。お二人は必ずや幸せになるであろう。何故か?三宝に帰依することを誓われたからである。三宝とは何か?仏と法と僧である。仏とは何か?仏とは光じゃ。この全てがうつろう無常の世の中でお釈迦様は心の平安を体現され、それを誰しもが成しえる道を示して歴代の祖師方が続かれた。仏に帰依する誰しもが迷いを払って仏となりうる希望の光を示されたのじゃ。法とは何か?法とは正しさじゃ。この全てがうつろう無常の世の中で迷ったときに道しるべとなる正しさをお示しになられた。たとえ人生の暗がりに迷うともこの正しさをともし火とするなら迷いを離れることができるのじゃ。そして最後の僧とは何か?これが一番肝心なのじゃ。僧とは仲良さじゃ。違う生き方をしてきた二人が共に生活するならば、時には互いの正しさがぶつかり合う時もある。そんな時には互いの正しさを一たび収めて認め合い許しあう「仲良さ」が、和が大切になるのじゃ。この仏法僧の三つを三宝という。この三宝は如何なる宝にも勝る優れたものである。世間一般に宝という金銀財宝は、あれば生活を豊かにするのであろうが、時に自分や他人の欲望を呼び起こして不和のもととなり、また盗まれるのでは、等と思って疑心暗鬼の種や時には重荷ともなる。世間の宝は心の平安を生みはしないのだ。しかしこの三宝はそのような欲望も起こさず悩みの種ともならず、またそれでいてこの三宝に依って生きるならば必ずやよき人よき夫婦となり、その周りには良き和が生まれて幸せとなるであろう。これほどの素晴らしいものを宝と呼ばずして何と呼ぶ?故に三宝と呼ぶのじゃ。今日お二人は三宝に帰依し夫婦の誓いを交わした。是非とも教えをもとに、素晴らしい家庭を築かれていただきたい。」祥雲寺副住職 安藤淳之一人で修行を行おうとすると、怠けてしまったり後回しにしてしまい続かない場合もあります。ですがみんなで行えば、難しいことでも楽しく行えるはずです。この朝坐禅会はそのような場となるよう始めました。一日の始まりを迎えるこのひと時、ご一緒に「かろやかに」生きてみませんか?日時:9月16日(月)朝6時半~8時(途中参加、途中退出可)
6時30分~7時10分(一回目の坐禅)
7時20分~8時 (二回目の坐禅)
場所:祥雲寺本堂一階
用意:身一つで大丈夫です。
足の組めない方は椅子での坐禅もできます。
注意:初めての方は最初に指導を行います。
その為可能ならば一回目の坐禅から参加されてください。
また、祥雲寺では毎週水曜夜6時(第四水曜のみ休み)、雀宮布教所「善応院」にて坐禅会を行っています
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令和元年8月 朝坐禅会「指月の会」案内
2019年8月25日私が昔から作ってきた色々な悪い業は、
遠い過去から積み上げてきた、貪瞋癡すなわち三毒によるものです。
それは、体で行った・話した・思ったという三業から生まれたのです。
私は今、それら全てを懺悔します。
懺悔文(華厳経より)
皆さんはお盆をいかがお過ごしでしたでしょうか。
お寺は年で一番の忙しい時期となり、私も例にもれず慌ただしい日となりました。
迎え盆というと日暮れなのですが、今は暑くない朝のうちに来られる方もいるので朝5時には玄関を開けて来客の備えをして、最初に鉢を鳴らしてお経をお唱えしながら境内のお墓を巡る「墓おこし」と呼んでいる行事をして、お盆で戻ってこられたご先祖方を迎えます。
祥雲寺墓地は斜面にあるため上り下りして一時間半ほど行って、それが終わるとそろそろ駐車場が混雑してくるので駐車整理に回ります。
今年は大変暑い日となり、十時ごろには坂下で倒れた方がいたので救急車を呼ぶ騒ぎにまでなりました。
十一時ごろ、暑さも駐車場の混雑もピークを迎え、救急車騒ぎで駆けずり回ったため体力の余裕もなくなり、道をふさいで客を待とうとするタクシーについつい強い口調で当たってしまいました。
すると一緒に駐車整理をしていた人が、自分の誘導を叱られたと受け取って大変怒ってしまい、「副住職のあんな顔見たこと無いよ」と言われてしまいました。
これは大いに反省しなくてはならないことでした。
上記の懺悔文とは古くから宗派を問わず唱えられている、悪いことをしてしまう心のはたらきを表した文章です。
「私が行ってしまう悪い行いは、わき上がるむさぼり、いかり、おろかしさによるものです。身と口と心から、この三つの毒は生まれるのです。これを理解し反省します」
私は僧侶です。悟りという心の平穏を体現したお釈迦様に憧れ、その生き方を現在に模倣し人々に広めることを使命とするものです。
それでありながら私は
・もう体調的に無理なのにまだ出来るという見栄虚勢を押し通した「むさぼり」
・相手の職責を思いやらず自分の都合を押し通さんとした「いかり」
・無常(おもいどおりにばかりはならない)が故に都度真摯に向き合わねばならない道理を忘れた「おろかしさ」
この故に不和を招き、折角寺に来た人に悪い思いをさせてしまったことは、正に不徳の致すところというより他ありません。
出来ることと出来ないことをきちんと見定め、準備を周到にしてこの年に一度のお盆を良い仏縁の日と出来なくては、この身の甲斐がないというものです。
むしろそれを気付かせてくれたあの運転手を、それこそ導きの観音様と受け取り、そうしてこそ悪縁を善縁へと変えていくことが出来るのでしょう。
私にとってこのお盆は、忙しくも心に期すべき時でありました。
祥雲寺副住職 安藤淳之
一人で修行を行おうとすると、怠けてしまったり後回しにしてしまい続かない場合もあります。ですがみんなで行えば、難しいことでも楽しく行えるはずです。この朝坐禅会はそのような場となるよう始めました。一日の始まりを迎えるこのひと時、ご一緒に「かろやかに」生きてみませんか?日時:8月26日(月)朝6時半~8時(途中参加、途中退出可)
6時30分~7時10分(一回目の坐禅)
7時20分~8時 (二回目の坐禅)
場所:祥雲寺本堂一階
用意:身一つで大丈夫です。
足の組めない方は椅子での坐禅もできます。
注意:初めての方は最初に指導を行います。
その為可能ならば一回目の坐禅から参加されてください。
また、祥雲寺では毎週水曜夜6時(第四水曜のみ休み)、雀宮布教所「善応院」にて坐禅会を行っています
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令和元年7月 朝坐禅会「指月の会」案内
2019年7月21日自証自悟(『正法眼蔵』自証三昧より)
去年から、県内の有志による正法眼蔵の勉強会を定期的に行っています。
福井県永平寺を開かれた曹洞宗の高祖道元禅師は、その思想の集大成として大著『正法眼蔵』を遺されました。
曹洞宗の人間として読み込まねばならない所ですが、難解なところが多く、中々手が伸びていかない。だからこそみんなで集まって読もう、ということで自主学習会となりました。
独りでは大変でもみんなでやるならばどうにかなるし、むしろ面白くもなる。
僧宝の功徳、僧団のありがたさ、ここに現成せりしかな。
さて、上記の言葉は眼蔵八十八巻の内の『自証三昧』に用いられる言葉です。
ある老師は、眼蔵を一つ勉強するならばこの章をこそ読みなさいと説かれていて、漸く手をつけることが出来ました。
この道を行く者は伝統的には自らを証し自ら悟るべきもの(自証自悟)ではあるが、それは独りよがりの思い込みであってはならず、伝えられてきた経典や先達となる師の薫陶あって初めて身につくものである。
そして教えを受けたならば、それを実践し人に説くことをためらうべきではない。
「他人の為に説くということは、自己のために説くことに他ならない」
他人に説くことで自らも反芻し、それがいつしか自らのものともなりえるだろう。
だからこそ、半可通の身であるともためらわず歩み出すことで、道は深まり、そしてそれこそが自分と他者が共に道を成すことへとつながろう。
このように自他共に体得する、それこそが仏祖の大道である。
(意訳による大意)
私が本山での修行を終えて、雀宮善応院で坐禅会を始めて、もう十五年程になります。
修行道場でやってきたことではあれど、人に説明する練習などまったくしていない身でどうしたものかと頭を抱えながらなんとか微力を尽くしてきました。
おかげなのか近年は、この道の妙味や難しかった正法眼蔵の味わいが一層感じられるようになった気がします。
願わくは、我らと衆生と皆共に仏道を成ずることができますように。
祥雲寺副住職 安藤淳之
一人で修行を行おうとすると、怠けてしまったり後回しにしてしまい続かない場合もあります。ですがみんなで行えば、難しいことでも楽しく行えるはずです。この朝坐禅会はそのような場となるよう始めました。一日の始まりを迎えるこのひと時、ご一緒に「かろやかに」生きてみませんか?日時:7月22日(月)朝6時半~8時(途中参加、途中退出可)
6時30分~7時10分(一回目の坐禅)
7時20分~8時 (二回目の坐禅)
場所:祥雲寺本堂一階
用意:身一つで大丈夫です。
足の組めない方は椅子での坐禅もできます。
注意:初めての方は最初に指導を行います。
その為可能ならば一回目の坐禅から参加されてください。
また、祥雲寺では毎週水曜夜6時(第四水曜のみ休み)、雀宮布教所「善応院」にて坐禅会を行っています