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30年8月 朝坐禅会「指月の会」案内
2018年8月26日生をあきらめ死をあきらむるは仏家一大事の因縁なり
『正法眼蔵』永平道元
先日座禅会にて、葬儀の現代化について参加者から話が出ていました。
聞くところでは、ロボットに僧侶の装束をさせてお経や法話を再生させ、木魚や鐘をならして法事を代行するサービスの展示なるものが行われていたそうです。
そうした代行業者に葬儀法要の仕事をもって行かれたら収入がなくなってしまうのでは無いのか、と聞かれることもありますが、私はあまり心配していません。
駒沢の安藤嘉則教授の講義によれば、全国の数多の寺院は、集落として力を持ってきた全国の村々で弔いをしてほしいという要望を受けて僧侶が求められたからこそあるのだそうです。
そして、僧侶にお弔いが依頼されたのは、「如何に生きるか(如何に死ぬか)」という人生の命題に同じ人間として取り組んだ人なればこそだと思っています。
ロボットのマニュアル再生のお話、あるいは発展すればAIによって臨機応変な法話といったものも将来あり得るのかもしれませんが、そこには同じ人間だからこそ相通じる「共感」があり得る物ではありません。
そんなことを心配するならば、自らの精進を如何に人に聞きやすく説けるかを悩むべき、というのが私の思うところです。
祥雲寺副住職 安藤淳之
一人で修行を行おうとすると、怠けてしまったり後回しにしてしまい続かない場合もあります。
ですがみんなで行えば、難しいことでも楽しく行えるはずです。
この朝坐禅会はそのような場となるよう始めました。
一日の始まりを迎えるこのひと時、ご一緒に「かろやかに」生きてみませんか?日時:8月27日(月)朝6時半~8時(途中参加、途中退出可)
6時30分~7時10分(一回目の坐禅)
7時20分~8時 (二回目の坐禅)場所:祥雲寺本堂一階
用意:身一つで大丈夫です。
足の組めない方は椅子での坐禅もできます。注意:初めての方は最初に指導を行います。
その為可能ならば一回目の坐禅から参加されてください。
また、祥雲寺では毎週水曜夜6時(第四水曜のみ休み)、雀宮布教所「善応院」にて坐禅会を行っています。 -
30年7月 朝坐禅会「指月の会」案内
2018年7月19日いかなるところにも塔を建てて供養すべし、故は如何、正に知るべし、このところは即ちこれ道場なり。
「神力品」
来年二月にミャンマー参拝団体旅行の企画をしています。
二年前にインドにお参りして、仏跡にたくさんの国の方がお参りしているのを見ました。
洋の東西、文化人種を問わず、同じようにお釈迦様の教えを尊ばれていて、今日同じように仏跡に手を合わせている、歴史の大きな流れや仏教の懐の深さというものを感じるように思います。
そしてやはり、東南アジアの国々から来られている方はとりわけ多く、熱心に礼拝をされていらっしゃいます。
この方達の信仰、仏教文化を見聞きしてみたい。それは多くの気づきを私たちに教えてくれるものとなるはずだろう、そうした思いを強く持ちました。
ミャンマーの仏教文化というと「パゴダ」と呼ばれる仏塔の林立する姿が観光パンフレットなどでも多く取り上げられます。
塔は仏教のシンボルです。お釈迦様は遺骨を塔に祀られ、上記の経典でも仏教徒はどんなところでも塔を祀り精進に励みなさい、と書かれています。
先日映画の「ビルマの竪琴」を見て、作中で水島上等兵を看病した老僧が
「ここは仏の国じゃ、旗の色が変わろうとも何も変わらない。勝つも負けるも意味がないとなぜわからない」といったことを教え諭していました。
仏教は「無常」を大前提としています。
この世の全ては移り変わり、留まることはなくそのままであってほしいと願ってもかなうことはない。
そしてその中で、人はどう生きたら安心をすることができるのかを説くのが仏教です。
変わっていく世界の中で、変わることのない尊さ。
ミャンマーの人たちはそれを目に見える形にしようとして、仏教のシンボルである塔「パゴダ」を作ったのではないか。
その心根が表れているからこそ、パゴダは白く壮麗な姿で分け隔てなく参拝者を迎えているのではないだろうか。
そんな感想を持ちました。
参拝の為、またかの地で戦没した方たちの慰霊の為、そして楽しい思い出となる様観光の為旅行の企画を練っています。
大勢の方の参加をお待ちしています。
祥雲寺副住職 安藤淳之
一人で修行を行おうとすると、怠けてしまったり後回しにしてしまい続かない場合もあります。
ですがみんなで行えば、難しいことでも楽しく行えるはずです。
この朝坐禅会はそのような場となるよう始めました。
一日の始まりを迎えるこのひと時、ご一緒に「かろやかに」生きてみませんか?日時:7月23日(月)朝6時半~8時(途中参加、途中退出可)
6時30分~7時10分(一回目の坐禅)
7時20分~8時 (二回目の坐禅)場所:祥雲寺本堂一階
用意:身一つで大丈夫です。
足の組めない方は椅子での坐禅もできます。注意:初めての方は最初に指導を行います。
その為可能ならば一回目の坐禅から参加されてください。
また、祥雲寺では毎週水曜夜6時(第四水曜のみ休み)、雀宮布教所「善応院」にて坐禅会を行っています。 -
30年6月 月例早朝坐禅会「指月の会」案内
2018年6月24日戒は第一安穏功徳の所住所たることを
「遺経」
先日永平寺にお檀家さんとお参りしてきました。
私が修行していたのは平成14年ですからもう15年も昔のことになってしまいましたが、時を経ても変わらず有り難いところだなぁ、との思いを強くしました。
それは、志乏しく修行に入った私のようなものであっても、この道をゆく素晴らしさを教えてくれた、仏道を学ぶ(真似る)場として最上の所であるからです。
仏教は業を教えの根幹に据えています。
業とはすなわち習慣です。
悪いことによらず良いことを行い、心を浄めていく、これが仏教ですと古人は言いました。
日々の行いが人間を形成していくのだから、意識的に善業を行っていればその習慣が身について良い方向へ導いてくれる。
悪いことをしないように心掛けて行えば、その習慣が身について悪い方向から離れてくれる。
そうすることで自らの内面をよりよく整えていくことができる。
歴代の祖師方は様々な難しい言葉を用いつつも、その根底には必ずこの考えが仏教にはあります。
良いことを意識せずとも行えるように、仏教には戒という決まりごとがあります。
曹洞宗では道元禅師がまとめた十六浄戒をたてていますが、禅宗寺院ではこの戒を根底に据えた清規という生活規範を基に修行を行っています。
永平寺では一挙手一投足、食事の作法風呂の作法寝る作法までが決まっています。
慣れるまでは大変息苦しく辛いものですが、これが慣れてしまうと不思議と落ち着く、安定した心持ちに導いてくれると感じられるのです。
砕けた言葉で言うならば、お坊さんらしさを身に着けることで、内面もお坊さんらしく落ち着き整っていったのです。
15年前、私の僧侶としての土台、根っこはこの場所で築かれました。
時を経ても教えは色褪せず、同じ道を今なお歩んでいます。
祥雲寺副住職 安藤淳之
一人で修行を行おうとすると、怠けてしまったり後回しにしてしまい続かない場合もあります。
ですがみんなで行えば、難しいことでも楽しく行えるはずです。
この朝坐禅会はそのような場となるよう始めました。
一日の始まりを迎えるこのひと時、ご一緒に「かろやかに」生きてみませんか?日時:6月25日(月)朝6時半~8時(途中参加、途中退出可)
6時30分~7時10分(一回目の坐禅)
7時20分~8時 (二回目の坐禅)場所:祥雲寺本堂一階
用意:身一つで大丈夫です。
足の組めない方は椅子での坐禅もできます。注意:初めての方は最初に指導を行います。
その為可能ならば一回目の坐禅から参加されてください。
また、祥雲寺では毎週水曜夜6時(第四水曜のみ休み)、雀宮布教所「善応院」にて坐禅会を行っています。 -
30年5月 月例早朝坐禅会「指月の会」案内
2018年5月27日五月晴れの境内
正に良薬を事とすることは形枯(ぎょうこ)を療(りょう)ぜんが為なり。
五観の偈
先月に二つの仏教研修会に参加しましたが、そのどちらでも強調されていたのが「仏教は禁欲ではなく制欲、欲を制御していく」という点でした。
欲は人を惑わすものですが、人を生かしているのもまた欲です。
故に欲を程々に抑え、過度の欲に惑わされない習慣を身に着けていくのが仏教の修行となります。
上記の「五観の偈」は食事の際の心得を5か条であらわしたもので、その内の4番目になります。
生き物は皆、食べなければ弱り、死んでしまいます。
それを病とみなし、死を「形が枯れる」形枯と形容して、食事を病に対する薬と心得ていただくように、と書いています。
それは、食欲こそが他のあらゆる欲求の起点となる欲であるからこそです。
故にこそ、過度の貪りに陥ることが無いよう、薬と心得て用法容量を考えることの大切さを説いています。
私が20代のころにこの言葉を聞いても、さほどの感銘を受けることはありませんでした。
しかし、30も半ばを過ぎた今になってみると、以前よりも重くこの言葉が響くようになりました。
それは、若さに由来する驕りが抜けてきて、薬の大切さが身に沁みる年代になったことも大きく関係しているのでしょう。
ですが何より一番の要因は、形枯つまり枯れていくことを意識するようになったからです。
人は皆生まれ育ち、枯れて死んでいく。それは避けられないものなのだから、ならばこの形枯、老いに真摯に向き合わなくてはならない。
そう思い、良薬を事としなくてはと考えてみると、過食の欲求はいささか遠くに感じるようになりました。
今の時点でこのような感想なわけですから、40代になってみるとまた違う感想になるのかもしれません。
願わくはこの5か条の5にあるように、仏道を成ずる為に食を戴く、という心境に近づけるよう、今日も精進を心掛けたいです。
祥雲寺副住職 安藤淳之
一人で修行を行おうとすると、怠けてしまったり後回しにしてしまい続かない場合もあります。
ですがみんなで行えば、難しいことでも楽しく行えるはずです。
この朝坐禅会はそのような場となるよう始めました。
一日の始まりを迎えるこのひと時、ご一緒に「かろやかに」生きてみませんか?
日時:5月28日(月)朝6時半~8時(途中参加、途中退出可)
6時30分~7時10分(一回目の坐禅)
7時20分~8時(二回目の坐禅)
場所:祥雲寺本堂一階
用意:身一つで大丈夫です。
足の組めない方は椅子での坐禅もできます。
注意:初めての方は最初に指導を行います。
その為可能ならば一回目の坐禅から参加されてください。
また、祥雲寺では毎週水曜夜6時(第四水曜のみ休み)、雀宮布教所「善応院」にて坐禅会を行っています。
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30年4月 月例早朝坐禅会「指月の会」案内
2018年4月21日今年は暖かい日が続いたので
例年より藤の花も早く咲き始めています。
本堂前のツツジも色鮮やかに咲き始めました
四諦「苦集滅道」
お釈迦様は出家をされ、最初は苦行の世界に道を求めました。
当時インドでは、肉体を不浄なものとして痛めつけることで清らかなるを目指す、という考え方のもと、多くの修行者が苦行に励んでいたようです。
その中でお釈迦様は6年間苦行に明け暮れますが、肉体を苦しめる道に答えを見出すことは出来ないとして苦行をやめ、菩提樹の下での坐禅に臨み悟りをひらかれました。
お釈迦様の悟りとは、この世が無常であるということです。
すべてのものは変化していきそのままであることはなく、だから思い通りになるはずもない。
そんな中で私たちはどうやって生きたら、どうしたら安心を得ることが出来るのか。
それを説かれたのが四つの真理、四諦という教えです。
世に苦しみ(苦)がある。心を悩ますことがある。
それはこの世の全てはつながり、縁起によって集まって存在している(集)から確固とした永遠不滅のものはなく、故に望むままには生きられない。
そんな中でどうしたら苦しまずに生きられるのか、望ましい状態になれるのか、苦しみから離れる(滅)ことができるのか。
それには中道(道)を歩むことだ。偏らない、拘らない、捉われない生き方をすることだ。
欲に振り回されることで執着が生まれ、迷い惑い苦しむことになります。
だから欲に振り回されない人間になるように、生活を正し、正しい習慣を身に着けていく。習慣づけていく中で心が正され、それが心の平安「平常心」へとつながるのです。
仏道修行とは日常生活でいかに己を律し、正しい習慣を身に着けて生活できるようにするか、なのです。
それを説き、実践する道場としてお寺が有れる様、今日も精進を心掛けたいです。
祥雲寺副住職 安藤淳之
一人で修行を行おうとすると、怠けてしまったり後回しにしてしまい続かない場合もあります。
ですがみんなで行えば、難しいことでも楽しく行えるはずです。
この朝坐禅会はそのような場となるよう始めました。
一日の始まりを迎えるこのひと時、ご一緒に「かろやかに」生きてみませんか?
日時:4月23日(月)朝6時半~8時(途中参加、途中退出可)
6時30分~7時10分(一回目の坐禅)
7時20分~8時(二回目の坐禅)
場所:祥雲寺本堂一階
用意:身一つで大丈夫です。
足の組めない方は椅子での坐禅もできます。
注意:初めての方は最初に指導を行います。
その為可能ならば一回目の坐禅から参加されてください。
また、祥雲寺では毎週水曜夜6時(第四水曜のみ休み)、雀宮布教所「善応院」にて坐禅会を行っています。