ごあいさつ

宇都宮市の祥雲寺は歴史のある曹洞宗のお寺です。
栃木県庁のすぐ北にあり、自然林の中には西国三十三番の観音像が祀られています。
また、樹齢350年を超える枝垂れ桜の老樹は県天然記念物として有名です。
たくさんの方々に仏教を親しんでいただくことを願いとし、様々な信仰行事を催しています。

ようこそおまいり

朝まいり 栃木県宇都宮市の祥雲寺(曹洞宗) | 桜や祭りが名物の寺

朝まいりの記事

  • 12月 観音朝詣りのお知らせ

    2024年12月21日

     

    次には深く仏法僧の三宝を敬い奉るべし。(中略)

    仏祖正伝する所は恭敬仏法僧なり。   修証義第三章

     修証義は道元禅師の正法眼蔵から言葉を抜粋し、修行の道しるべとした曹洞宗の基本聖典です。

     三宝は仏法僧を三つの宝とした仏教の根本教理です。

    三宝はさらに三つのとらえかたで説かれます。

     第一が現実に目の前に形として現れているものとしてのとらえかたで、仏が仏像や仏画、法が経巻、僧がお寺の住職や僧侶です。

     第二が歴史的に現れて衆生を導いたものとしてのとらえかたで、仏は二千数百年前にインドに現れた釈尊、法は釈尊が説かれた苦悩にある人間を導き続ける深遠な仏の教え、僧は仏の教えを信じて修行し仏法を伝えてきた聖者達です。

    修行は一人でなしうるものではなく、僧団を組み、お互いが良き友、すぐれた友となって和合のもとに成し遂げられるものですから、僧は僧団を表わす言葉でもあります。

     第三は、時間空間を超えた宇宙の根本的なあり方から説かれるものです。

    仏は釈尊を釈尊たらしめた大いなる悟りそのもの、法は調和して上下、優劣、清濁を離れたこの世界を貫く真理そのもの、僧は煩悩に満ちた人間が僧団を組み和合衆となって現実の壁を乗り越えてゆく和合の精神の根源を表わします。

     僧侶の身にある私にとっては、第一で説かれる僧として、敬われる者とは到底なり得ていないことを恥としますが、日々の戒めでもあります。

      道元禅師は、釈尊以来受け継がれた仏法は、この三宝に身も心も投げ入れていくことだとお示しになっています。

     冒頭の「次には」の言葉は、自らが深いあやまちを持つものであることを自覚し悔い改めること、すなわち懺悔の後にの意味です。

     三宝を敬うとは、煩悩の身を仏の家に投げ入れて、生まれ変わって生きること、その誓いを持って生きることです。

     令和6年12月15日

    宇都宮市東戸祭1-1  祥雲寺東堂  安藤明之

    十八日の朝詣りは午前6時半から行います。

  • 11月 観音朝詣りのお知らせ

    2024年11月17日

    總持寺焼香師団体参拝旅行、伊豆にて

    大学生の時読んだ「肉食の思想」という本に、ヨーロッパに留学した青年が経験した食の文化のすれ違いの話がありました。

     青年がパーティーに出たときに、豚の頭をそのままに料理したメインディッシュがテーブルの上に置かれていました。

    彼は手を付けることはできなかったのですが、パーティーに参加していた娘さん達は、それぞれに切り分けて美味しそうに食べていました。

    青年と娘達のやり取りです。

     こんなに美味しいものをどうして召し上がらないの?

     生きていた豚を思って可哀想で食べられません。

     豚は神様が人間に食べ物として与えてくれたものなのだから美味しく食べればいいのよ。日本人は生きた姿の動物は食べられないの?

     小鳥ぐらいは食べますよ。

     まあ、かわいい小鳥を食べるなんて、なんて野蛮なの!

    この本が出版された時代、日本ではツグミなどの小鳥はよく食べられていました。

    今では娘さん達のいうことの方に共感できるという人も多いかも知れません。

     動物は、他のいのちを食物としなければ生きられません。

    人間にとっても殺生は生存の宿命です。

    そうであれば、これは食べてよい、あれは食べてはいけないという区別がどうして生まれるのか。

     区別を生む大きなもととなるのは、食べ物となる生き物に対して人間がどれだけ同じ生き物としての共感を持っているかの度合いです。

    殺さなければ生きられないけれど、おのれに引く比べて、殺されるものの傷みと悲しみを思いやることができるのが人間です。

     食事の度に、可哀想と思ったり、罪の意識を持ったりすることは現実的ではありませんが、いのちをいただいているというありがたさだけは忘れないようにしたいものです。

      手を合わせて「いただきます」を心から言えるようにしたいものです。

     令和6年11月15日

    宇都宮市東戸祭1-1  祥雲寺東堂  安藤明之

    十八日の朝詣りは午前6時半から行います。

  • 10月 観音朝詣りのお知らせ

    2024年10月12日

    先日のニュースで、雀が絶滅危惧種に指定されそうだということが報じられていました。

    そういえば、雀を見かけなくなってからずいぶん経つなあと思いました。

    雀だけでなく里山の鳥や蝶が急速に減っていて、雀で年3.6%、オオムラサキ蝶に至っては年10%以上の割合で減っているということです。

     

    原因は、これらの生き物を育んできた里山の荒廃です。

    弥生時代、もしかすると縄文時代に由来するかも知れませんが、日本で稲作が始まって以来、水の豊かな平野、谷地に水田を作り、それを囲む森林の恵みを受けながら国土を造ってきました。

    森林、すなわち山は薪の産地であり、田畑に施す肥料のもととなる落ち葉の供給地でもあります。

    そこから流れ出でる無数の小川が栄養豊富な水を田に運びました。

    こんな農村の光景は、昭和30年代までありふれたものでした。

    祥雲寺の周りも田んぼが拡がり、子供達は小川でフナやドジョウを捕まえて遊び、田川の渕まで行って川泳ぎをしました。

    寺では境内に少々の畑を作っていましたので、家族総出で山の落ち葉をさらい、背負いカゴにぎゅうぎゅう詰めて下ろして肥をかけてたい肥を作りました。

    高校生の時には肥汲みもやりましたが、肥桶二つを付けた天秤棒の肩に食い込む痛さは、今も覚えています。

     

    里山は、日本の農業の歩みと共に生まれ造られてきたものです。

    田に農薬がまかれて、川泳ぎが出来なくなり、田川にいっぱいいた鰍(カジカ)は姿を消しました。

    圃場整備が進んで小川がコンクリートの用水路に変わり、メダカやアメンボ、ゲンゴロウもいなくなりました。

     

    こうした変化は、世界に比べて生産性の面で遅れてしまっている日本農業が生き残るためにやむを得ないことなのでしょう。

    しかしそれにしても、そこに生きるものまで犠牲にしてしまうのはなんとも悲しいことです。

    共生の道を造るのも人類の義務です。

     

    令和6年10月15日

    宇都宮市東戸祭1-1  祥雲寺東堂  安藤明之

    十八日の朝詣りは午前6時から行います。

  • 9月 観音朝詣りのお知らせ

    2024年9月21日

     来月10月13日、大本山總持寺開山瑩山禅師の七百回大遠忌の焼香師という役目を勤めさせていただくことになりました。道元禅師を高祖大師、瑩山禅師を太祖大師と仰ぐ曹洞宗では、50年毎に大遠忌という報恩感謝の法要が行なわれます。

    一年間に数十回の法要が大本山で繰り返されるのですが、その法要の導師を勤める僧侶の一人に選ばれたので、たいへん忝くありがたく思っています。

     

     私は五十年前の春、六百五十回大遠忌の年に修行僧として總持寺に上山しました

    いただいた大遠忌配役は、全国から大遠忌法要の随喜に参じた数百人の僧侶の世話係でした。

    二十数人の修行僧が役に当ったのですが、21日間続いた本法要の後半には、疲れが溜まってヘトヘトになり病人続出で、お互いに助け合って務めました。

    い体験ですが、乗り切ってみればかけがえのない思い出です。

    そして何よりも、連日参詣者が大祖堂を埋め尽くした光景と、最終日の法要に全国から参集した数千人の僧侶がお経を読みながら大本堂を巡った荘厳さが忘れられません。

     

     瑩山禅師は、お経の中にも救いがたいと記されている人々をも救っていこうという誓いをなされました。

    それは、常にこの世に在ってあらゆる人を救おうとする観世音菩薩の誓いと同じです。

    能登の地に道場を築き、多くの修行者を育て、その僧達が全国に散らばって、日本最大の宗派が生まれました。

    曹洞宗は民衆に向かって教えが説かれた宗派です。

     

     道元禅師を淵源とし、瑩山禅師の誓いによって民衆宗教となった曹洞宗の歴史のなかで、画期的な出来事が、總持寺の横浜鶴見への移転です。

    鎖国が解かれ、日本が世界に開かれた明治時代に、曹洞宗もその教えを新時代に適応して弘め、さらには世界にも広めようとしました。

     

     そこには、廃仏毀釈の荒波を乗り越えた僧侶達の、自ら信ずる教えの正しさへの確信と、世界に向かい、また未来に向かって人々が幸せであれという祈りがあったと思います。

      私もその祈りを受け継ぎたいと思います。

     

     令和6年9月15日

    宇都宮市東戸祭1-1  祥雲寺東堂  安藤明之

    十八日の朝詣りは午前6時から行います。

  • 8月 朝詣りのお知らせ

    2024年8月17日

    お盆の迎え火と古いお位牌のご供養。

     

     パリオリンピックの男子重量挙げの中継を見ました。

     

     私はオリンピックを見るのが好きで、毎回テレビで熱心に見ています。

    出発点は1964年の東京オリンピックです。

     実は、開催に向けてのお祭りムードに反発していました。

    政府が主導し、新聞、テレビが追随して国民を浮かれ上げさせていると思ったのです。三波春夫のオリンピック音頭はその代表で、なんと軽薄な歌だろうと思っていました。

    中学三年生から高校一年生にかけてのことで、哲学書に興味を持ちだした小生意気な少年だったのです。

     

     それで、10月10日の開会式のテレビは見ませんでした。

    ところが誰もが話題にしていることへの関心は捨てきれず、最初に見たのが三宅選手出場の重量挙げだったのです。

     

    そこで見たのは、選手が、呼吸を調え、精神を集中して自分の限界に挑んでいる姿でした。

    鍛え抜かれた身体には凄まじい鍛錬が見てとれました。

    人間の限界に挑んでいる人たち、その姿は、崇高でさえありました。

     三宅選手を応援していたには違いないのですが、テレビ画面に映る姿を見ていると、この挑戦はぜひ成功してもらいたいと、どの選手に対しても感じました。

    スポーツ観戦の素晴らしさを感じたのはこの時です。

     

     それからは、テレビに釘漬けになりました。

    女子バレーボールの決勝戦、アベベ独走のマラソン、その時の円谷とヒートリーの二位争い。

    時代の感動を共にすることが出来ました。

     今回、重量挙げは久しぶりに見たのですが、最初に見たときと変わらない良さを感じました。

    日本選手だけでなく参加選手全てを応援する気持ちになりました。

     

     パリオリンピックでは、運営面や審判の判定についてなど、いろいろな面で批判が出ているようです。

    実際、大切にされていたアマチュアリズムが変質し、商業主義に陥った弊害が現れているように思えます。

     しかし、それでも人間の限界に挑む選手達の姿には感動を覚えます。生命の讃歌といってもよい。スポーツの純粋さを保ち続けてもらいたいものです。

      令和6年8月15日

    宇都宮市東戸祭1-1  祥雲寺東堂  安藤明之

    十八日の朝詣りは午前6時から行います。

祥雲寺行事案内

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