ごあいさつ

宇都宮市の祥雲寺は歴史のある曹洞宗のお寺です。
栃木県庁のすぐ北にあり、自然林の中には西国三十三番の観音像が祀られています。
また、樹齢350年を超える枝垂れ桜の老樹は県天然記念物として有名です。
たくさんの方々に仏教を親しんでいただくことを願いとし、様々な信仰行事を催しています。

ようこそおまいり

お知らせ 栃木県宇都宮市の祥雲寺(曹洞宗) | 桜や祭りが名物の寺

地域や歴史についての記事

  • 平成29年10月 観音朝詣りのお知らせ

    2017年10月18日

     

    秋彼岸の本堂前観音様と彼岸花

     

    アフガニスタンのバーミヤン石窟の大仏像がイスラム教原理主義者によって爆破されたのは16年前のことです。

    最近でも、中東の動乱の中で多くの遺跡、文化財が破壊されています。

    19世紀から20世紀前半には、ヨーロッパ各国の探検隊が、博物収集の目的で世界中から神像を持ち去り、あるいは壁画を剥ぎ取っていきました。

     

    自らの信仰、信条のみをよしとして、歴史、文化を異にした人たちの魂が込められた文化財を壊してしまうことが繰り返されているのは悲しいことです。

     

    東京芸術大学美術館で、「素心伝心 クローン文化財 失われた刻の再生」という展覧会がありました。
    バーミヤンなど、おもにシルクロードで失われたり、失われようとしている文化財の再生を試みたものです。
    瓦礫等に科学的な分析を行い、スケッチや写真などの記録を基に3Dプリンターなどの新技術を駆使して実物に限りなく近いものを造りあげています。

     

    失われたものではありませんが、法隆寺の釈迦三尊像も複製されています。

    像が造られた時の工法や、材料の銅の成分まで調べて造像し、さらに、細かいでこぼこや経年による変色まで写し取っていますので、実物と見まごうばかりです。

    それだけでなく、昭和24年の火災で損傷した壁画も再生して周りを囲んでいるので、まるで白鳳時代のお堂にお参りしているようです。

     

    この複製事業には、富山県高岡市と南砺波市の協力がありました。

    高岡は梵鐘をはじめとする銅鋳物の生産地であり、南砺波には井波の木彫があります。

    高度で伝統的な技法を伝えている人たちが参加し、芸術家、科学者、先端技術者と力を合わせました。

    言ってみれば最新技術と伝統技術の融合によって生まれたものです。

     

    文化財は、それが存在するところに生きた人々の魂の結晶です。

    存在することに真の価値がありますし、あるべき所にあることも大切です。

    しかし、現実に失われたり、失われようとするものがたくさんある現在、このような試みも大きな意義があると感じました。

     

    平成29年10月15日  祥雲寺住職 安藤明之

     

    18日の朝詣りは午前6時から行います。

     

  • 平成29年9月 観音朝詣りのお知らせ

    2017年9月20日

     

    29年8月29日 大施餓鬼会

     

    下町の屋根を 温める太陽は

    貧しくも 笑顔を消さぬ 母の顔

    悩みを夢を うちあけて

    路地にも幸のくるように

    ああ太陽と 今日もまた

    「下町の太陽」3番

     

    「下町の太陽」、私はこの歌が大好きです。

    倍賞千恵子の歌う声を聞くと、涙が出てくるくらいに。

     

    高度経済成長の始まり、所得倍増計画が打ち出された昭和30年代半ばの日本はまだまだ貧しさの残る時代でした。

    私はお盆の棚経でお檀家を巡(まわ)っていたのですが、小学校の私でも本当に貧乏だなあと感じる家がいくつもありました。

    大概は家族に病人を抱えた家だったのですが。

     

    でも、希望があった。

    廃墟から歯を食いしばって復興を成し遂げた親たち、その姿を見て育った子供たち。

    社会に勢いがあり、頑張れば未来は開けるという希望に満ちた、もしかすると一番幸せな時代だったかもしれません。

     

    最近、東京の映画館で倍賞千恵子出演の映画の特集があり、その頃の映画を続けて見ました。

    東京の下町。そこで繰り広げられるのは貧乏なればこその悲哀。

    それを乗り越えていく力の源は、家族の絆と、同じ境遇にある者たちの連帯です。

    だましあり、裏切りあり、挫折あり。

    そんな境遇を愛情と信頼と勇気で懸命に切り開いていくストーリーに胸打たれました。

    映画の中の虚構ではなく、私の周りにいた人たちのことと受け取れたのです。

     

    いま放映中のNHKの朝ドラマ「ひよっこ」も、集団就職の若者たちを主人公に昭和40年代前半の時代を描いています。

     

    現在70歳代から60歳代後半の世代の人たちの青春が、なつかしみをもって思い出される時代になったわけです。

    現在は、社会全体としてみればあの時代に比べればはるかに豊かです。

    しかし、貧困がしわ寄せされた多くの人たちが存在し、しかも若者たちが希望を持つことができないでいるように思えます。

    これをなんとかしなければなりません。

     

    平成29年9月15日  祥雲寺住職 安藤明之

     

    18日の朝詣りは午前6時から行います。

     

  • 平成29年8月 観音朝詣りのお知らせ

    2017年8月26日

     

    8月13日、お盆の迎え火祭壇前での読経

     

    NHKで「東京空襲が生んだ悲劇の傑作”噫(ああ)横川国民学校”」という番組を見ました。

     

    前衛書道家井上有一畢生の書です。

    小学校教師であった彼は東京本所の横川国民学校に勤務していて、ちょうど宿直の晩に東京大空襲に遭いました。

    避難してきた人たちが入った鉄筋造りの校舎に火が入り、千人余りの人たちが黒焦げになって焼け死んだ惨事に遭遇したのです。

    奇跡的に生き長らえた彼は、その時目の当たりにした光景を、30年後に400字ほどの仮名口語まじりの漢文に記し、書として発表し、世に大きな衝撃を与えました。

     

    文章に綴られている惨劇のすさまじさに戦慄を覚えます。

    それと同時に、背負い続けた思いを一文字一文字に託し、その総体として出来上がった作品に対して、もはや芸術とさえ言うこともできない、渾身をこめた魂の現れであると感じました。

     

    番組の出席者が、これは芸術ではない、供養だと言っていましたが、同感でした。

    作品全体が経文に見えました。

     

    仏教会主催の宇都宮空襲犠牲者追悼法要は7月12日に営まれていますが、毎年この日には必ず東京から来て参列しているという方に今年お会いしました。

    家が直撃を受け、隣の部屋にいた妹さんが亡くなられたということです。

    生死は紙一重、空襲を受けるその時まで、一家には団欒があり、幸せが詰まっていた。

    それが一瞬に打ち砕かれた。

    人生には起こることであり、あきらめざるをえないことであるが、生きている限り忘れない。

    その思いがあって、それが供養というものです。

     

    戦災法要の終了後、取材のNHK記者から、この法要は今後も続けていくつもりですがと聞かれました。

    私は、もちろん続けますと答えました。

    たとえ、直接の被災者が死に絶えても、その悲しみは永く受けとめていかなければならない。

    それをなし得るのは仏様であり、仏様に仕え、経を読んで供養するのが私のつとめなのですから。

     

    平成29年8月15日  祥雲寺住職 安藤明之

     

    18日の朝詣りは午前6時から行います。

     

  • 平成29年7月 観音朝詣りのお知らせ

    2017年7月15日

     

    しだれ桜下の紫陽花

     

    たまたま乗ったタクシーの運転手さんとのお話です。

     

    奥さんのお母さんの一周忌の法事に、お母さんの実家の当主を呼ばなかったことに憤慨していました。

    運転手さんは、身内、親族を大切にし、また義理を重んじる人のようです。

     

    最近、年回忌供養だけでなく、葬儀さえも家族葬という名前で、ごく限られた人だけで営む例が増えてきました。

    葬儀の中心は亡くなった人なのですから、故人と縁のあるひとに知らせるのは遺族の務めだと思うのですが。

     

    私がそんな考えを話したら、運転手さんはさらにこんな話をし出しました。

     

    一人暮らしで亡くなった親戚の女性を、その人の実家のお墓に埋葬させてもらおうとしたら断られたということです。

    お兄さんは承知したが、奥さんが反対したということです。

    このようなことは実はたくさん例があります。

    現在では、断る方が多いかもしれません。

     

    墓地の本来のあり方では、このような場合には受け入れるものとされます。

    墓地は「土」であり、土はあらゆる差別を融和してともに安らぐ所、公界(くがい)だからです。

    「母なる大地」とは、そこから作物がとれ、人類を養ってくれた所というだけの意味ではなく、人間の命の濫觴(らんしょう・始まり・源)という意味であり、死はその世界に帰るという人間の本源的な感覚がありました。

    「草葉の陰から見守る」という言葉は、死後の世界に対するこのような感覚に基づいています。

    これは、古の日本人が自然と一体となって生きてきたと云われる一つの表れです。

     

    現代では、生きている人を中心に考えることを当然とします。

    この考え方では、日本の風土の中で培われた古来からの感覚は薄れていくのは明らかです。

    葬儀・法事や埋葬についての考え方も大きく変わらざるをえません。

     

    60代とおぼしき鹿沼出身の運転手さんは、言ってみれば昔の感覚を持っている人です。

    こういう人は少なくなっていくのかもしれないが、貴重な人です。

    このような人は、きっと人の世話を親身にしてくれることでしょう。

     

    平成29年7月15日  祥雲寺住職 安藤明之

     

    18日の朝詣りは午前6時から行います。

     

  • 平成29年6月 観音朝詣りのお知らせ

    2017年6月17日

     

    石割の桜の木

     

    観音様の台座から十年かけて成長したので台座を調えなおしました。

     

    私は「忖度(そんたく)」という言葉が好きで、昔から使ってきました。

    人の心を推し量るという意味ですが、相手の立場を思いやって尊重するという語感があります。

    相手への敬意と、自分の志も保たねばならないという自戒を含んでいて、凛(りん)とした言葉だと思っています。

     

    ところが、現在かまびすしい学校開設認可をめぐる疑惑事件の報道で、一部の政治家や官僚の「忖度」は私のイメージとは違った使い方であることを知りました。

     

    テレビ番組で、政策決定のゆがみを告発した前文部科学省事務次官のインタビューを見ました。

    印象としてこの人の言うことに嘘はないと思いました。

     

    そこで気になったことがあります。

    それは、内閣府の高官が、文科省の担当者に対し

    「これは官邸最高レベルの考えである」

    というような言葉で許認可の変更を迫っていることです。

    これは、権力を持つ者が、命令ではなく、より大きな権力を持つ人の意向を伝えて、下の者に推し量らせて目的を達成しようとしているのです。

    上にいる人間の都合のよいように推し量ることができない、すなわち忖度することができなければ、不利益になるぞと脅しているのです。

     

    命令は責任が伴います。

    しかし、下の者が上の意向を忖度してそれに従った決定をするならば、言質を取られることもなく、責任を取らされる証拠も残さないで事が運べるのです。

    これがどんなに危険なことか。

    決して忘れてはならない前例があります。

     

    かつて日本が戦争へと突き進んだ時に、政界や軍や官僚機構で同じようなことが行われました。

    責任の所在が曖昧になり、結局「一億総懺悔」という言葉で、一番悲惨な目に遭った国民全体の責任にしてしまいました。

     

    そんな結果を生み出しかねない政治の手法として「忖度」が使われるのならまっぴらです。

    どんなよい言葉でも、使う人間の心根によって薄汚れていってしまう、そんなやりきれなさを感じています。

     

    平成29年6月15日  祥雲寺住職 安藤明之

     

    18日の朝詣りは午前6時から行います。

     

祥雲寺行事案内

祥雲寺で行ってる月例行事や年間行事、その他法要・祭りなどについてのご案内です。 行事カレンダーもご確認ください。