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平成29年1月 観音朝詣りのお知らせ
2017年1月25日暫く不在で更新できませんでしたが、遅ればせながら載せておきたいと思います。
正月の門松飾りの本堂。
この一日の身命はとうとぶべき身命なり、とうとぶべき形骸なり。
道元禅師 正法眼蔵行事の巻
お釈迦様は、生まれ落ちてすぐに七歩歩まれて天地を指さし「天上天下唯我独尊」と叫ばれたと伝えられています。
この言葉を、この世で私のみが尊いのだという意味にとってはなりません。
「人間は自分自身の尊さに目覚めよ」といわれたと受け取るべきで、それが仏教の根本精神なのです。
「尊い」とはどういうことか。
するべきことがあるのに、何もしないで時を過ごし、生きているだけで尊いという意味ではありません。
「いま」この時を精いっぱいに生き抜いてゆく。
その生き方が、天地の理法に適う時、そこに尊さが自然に現れるのです。
天地の理法に適うといっても、常人がなしえないような厳しい修行をすることをすべての人に求めているのではありません。
お釈迦様は対機説法といって、人それぞれの資質、境遇にかなった生き方をお説きになりました。
普通に生活する人々に対しては、いつくしみと感謝の心に基づいた行いをすることを説かれました。
その心を志として精いっぱいに生きる時、人は尊いのです。
道元禅師は、これらを踏まえて、われわれのいのち(身命)とからだ(形骸)を「とうとぶべき」と言い切っておられるのです。
「この一日」という言葉も、時間の長さを表しているのではありません。人間一人ひとりにとっての時間は、時計で計る時間ではありません。
病にかかり余命幾ばくもないと知った人が、残された時間を大切に生きようとすれば、一刻一刻は無限の長さであり価値でもあります。
時間はいのちなのです。
お正月には時を感じます。
その時を長さ短さで感じるのではなく、「いま」がかけがえのないものであると自覚して、志をもって精一杯生きたいものです。
平成29年1月15日 祥雲寺住職 安藤明之
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平成28年12月1日、無縁供養、水子地蔵尊例祭。
2016年12月18日毎年12月1日は祥雲寺無縁供養、水子地蔵尊供養の日です。
祥雲寺の無縁供養は天明年間(二百二十年前)に起源をもつ伝統行事です。
私たちは普段の行いとして親類縁者の為の供養(一周忌等の年回供養)を行いますが、無縁供養は直接のつながりがなくとも自分たちに恵みを与えている諸々に、そして天地万物に対して行われる報恩感謝の供養です。
この日に合わせて祥雲寺石彫り会「羅漢の会」の石仏の点眼式、水子地蔵尊の供養、また来山して頂いた皆さんに楽しんでもらえるよう演奏会を行っています。
石彫会の羅漢点眼
雨天の中巡行
今年彫りあがった羅漢様の点眼式。
無縁供養塔の前でテントを張って法要。
水子地蔵尊例祭。水子地蔵さまに線香をあげ手をあわせています。
午後は演奏会。市内のシルバーアンサンブルの演奏です。
75歳以上の面々での演奏会。曲目はこの年代の青春時代の歌を中心。
パンフは130以上用意しましたが全部はけてしまいました。
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平成28年12月 観音朝詣りのお知らせ
2016年12月18日12月8日は成道の日。写経会の納経会を行っています。
本尊さまの台座にお経を書き付けた石を投入します。
お釈迦様は、老病死の苦しみを見て、生きるとは何かという問いを抱えて出家されました。
6年の苦行のあと、中部インドのブッダガヤの地、ナイランジャ川のほとりの菩提樹のもとで禅定に入り、12月8日の暁に、明星が燦然と輝く中で悟られました。
しかし、お釈迦様は悟られた内容を、すぐには説法しようとはされず深い禅定に入ったままでおられました。
世界の創造神である梵天はその様子を見ていました。
そしてお釈迦様が真理を説いてくださらなければこの世は滅びてしまうと危惧し、おん前に現れて、衆生のために説法してくださるよう必死に勧めました。
梵天の請いを受け容れたお釈迦様は、私はあらゆるところに行ってすべての衆生に説法しようと決心され、菩提樹のもとから出立されました。
梵天勧請(ぼんてんかんじょう)と名付けられたこの話は、お悟りが説法されることによって衆生が救われたのであるから、これはお釈迦様の無限の大慈悲心のあらわれであるとして、語り伝えられました。
東京大学名誉教授の斉藤明先生は、この時のお釈迦様の大慈悲心が具現したものが観世音菩薩であり、それがよく表れているのが十一面観世音菩薩の姿であると言われます。
十一面観音は、頭上に十の顔と禅定にある仏さまを載(の)せています。
これは四方八方上下の十方世界に慈悲の眼を向けてあらゆる生きとし生けるものをみそなわしているのであり、中央のほとけさまは菩提樹下に禅定するお釈迦様に他ならないということです。
そうしてみれば、観音さまは仏さまの使いではなく、お釈迦様そのものということです。
肉親のお釈迦様は、紀元前383年、北インドのクシナガラで入滅されました。
しかしお釈迦様の大慈悲心は、観音さまとなって生きとし生けるものを救い続けています。
平成28年12月15日 祥雲寺住職 安藤明之
18日の朝詣りは午前6時半から行います。
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平成28年11月 観音朝詣りのお知らせ
2016年11月16日祥雲寺から見る宇都宮タワーと境内のイチョウ
この子らを世の光に
本年7月、神奈川県相模原市の障碍者施設で痛ましい事件が起こりました。
26歳の元職員の男によって入所者19人が殺害され、重傷者も20人に及びました。
大事件でしたのでご記憶のことと思います。
犯人が
「重度の障碍者は生きていても世の中の負担になるだけだから、世のために自分が殺してあげるのだ。」
と動機を述べました。
人格が破綻した自己中心の愚か者の妄言です。
しかし、障碍者や世の中の弱き人たちへの迫害を正当づけるこのような考え方は、ナチスドイツなど、世界の歴史の中で繰り返されてきました。
また、被害者の名前を警察が公表しなかったことについて、被害者家族の一人が
「日本では、すべての命はその存在だけで価値があるという考えは特異とされ、優生思想が根強いためである」
と説明したとのことです。
優生思想とは、人間の中ですぐれた資質を持つ者の環境を良くし、劣った資質を持つ者を排除するという考え方です。
「すぐれた」「劣った」を決めるのは人間の主観です。
お釈迦さまは生きとし生けるものの平等を説かれました。
仏教が広まった日本には、障碍者や弱き者への深いあわれみの心を持つ人はたくさんいたし、今もいます。
しかし、それでも上に記した今回の被害者家族の方が感じている現実がないとは言い切れません。
障碍者が生まれると、家の恥として人に知られないように家族内に隠してしまうことが一昔前まで行われていました。
現在は家庭からも切り離されて施設に隔離されているようです。
隔離からは、人としての心の交流は何一つ生まれません。
差別が生まれるだけです。
日本人の障碍者に対する見方、対応に、このようなことが続いているならば、改めなければなりません。
冒頭の言葉は、日本の社会福祉を切り開いた糸賀一雄氏のものです。
氏はキリスト教徒でした。
言葉が「この子らに世の光を」ではないところに、障害を持って生まれた人たちへの敬愛が込められています。
平成28年11月15日 祥雲寺住職 安藤明之
18日の朝詣りは午前6時半から行います。
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平成28年10月 観音朝詣りのお知らせ
2016年10月16日栃木県梅花大会。今年の御詠歌講の発表会は18日に栃木市で行われます。
宗教とは何かと問われて、もし一言で云うとしたら「感謝」であると思います。
人から何かの恩を受けたとき、それに対して感謝の気持ちを持つことは、人間としてあたりまえのことです。
しかし自分が生きていること、日常の生活を送っていることに対して、それを有りがたいことと感じ、感謝の思いを持つことはなかなかに出来ません。
とくに、健康でいるとき、生活が順風満帆であるときには「日常」の有りがたさはなかなか見えてきません。
自分自身の、あるいは身近なものの病気や不幸に会ったとき、人は当然ながら悩み苦しみます。
そのときに、不幸の原因を他人や他のものに求めてそれで納得する人もいるでしょう。
自分の生きる意味を考えてそれに納得のいく答えを出そうとする人もいるでしょう。
しかし、生きる意味についての納得のいく回答など、なまなかに出せるものでもありません。
その多くは錯覚による自己満足でしかないと思います。
メッキはすぐにはがれてしまい、また悩み苦しみに戻ります。
そうした中で、自分自身がこの世の中に生きているという事実だけは否定しようもありません。
その時、自分が生きていることをすばらしいと感じ、さらに進んで、人により、ものにより、生かされていることをありがたいと感じることが出来るかどうかが分かれ目です。
たとえ神仏を信じなくとも「感謝」の思いを持つことの出来る人は宗教の門のうちに在ります。
平成28年10月15日 祥雲寺住職 安藤明之
18日の朝詣りは午前6時から行います。
〈お知らせ〉
平成26年1月に、仏教の教えを根底に据えたような物語としてNHK朝ドラ「ごちそうさん」が、いまBS3チャンネルで朝7時15分から再放送されています。
どこが仏教的かなどと考える必要もなく、たいへんすぐれた面白いドラマですので、ご覧になることをおすすめします。
