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平成26年10月観音朝詣り
2014年10月16日白の曼珠沙華と参道の羅漢さま
曹洞宗には二つの大本山があります。
道元禅師の開かれた永平寺と、瑩山禅師の開かれた總持寺です。
道元禅師は日本曹洞宗の初祖であり、瑩山禅師は四祖ですから、普通では本山は永平寺となり、少なくとも總持寺より格上の寺ということになります。
しかしそうではない。
永平寺と總持寺の格式は全く同じです。
また永平寺派、總持寺派というように組織が分かれていることもありません。
それが曹洞宗の大きな特色です。
永平寺では道元禅師が説かれ実行された修行が堅く守り続けられ現在に到っています。
道元禅師の教えを端的に示す根本道場です。
修行は自己の何たるかを究(きわ)めていくことでもあります。
修行に徹した時、世間の人との接点を失うこともあります。
總持寺開山瑩山禅師は、お師匠様から「永平の宗風を興すべし」と委(ゆだ)ねられました。
お釈迦様の教え、道元禅師の教えが真に意味あるものになるのは、悩み苦しみ悲しみ憂いを抱えて生きているたくさんの人々の心に教えが届いた時です。
瑩山禅師は曹洞教団を確立し、民衆教化の基(もとい)を築きました。瑩山禅師の教化への志を継承し、曹洞宗を大発展させたのが總持寺第二祖の峨山禅師です。
峨山禅師のもとで修行し、そこから旅立った僧達は、日本全国の武士や農民の帰依を受け、村々、町々に寺が建てられました。
僧達が帰依を受けたのは、厳しい修行を積み真理を究めた傑僧達だったからです。
この人達は後世に二十五哲と讃えられました。
僧侶には、真理を究めて修行する求道者のあり方と、体得した真理を世に伝えて人々の安心をはかる救済者としてのあり方の両面がなければなりません。
来年は峨山禅師の650回忌に当たります。
道元禅師から峨山禅師にいたる祖師方の偉大な行跡を偲び、常に人々と共にあり続けようとする曹洞宗の願いを新たにする大遠忌がつとめられます。
大遠忌行事にどうぞご参加ください。
平成26年10月15日 祥雲寺住職 安藤明之
18日の朝詣りは午前6時から行います。
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平成26年9月朝詣り
2014年10月5日9月 境内に咲く彼岸花と本堂
8月29日お施餓鬼の当日に、急に曹洞宗からの募金の依頼を受けました。
震災で被災した寺院の救援のための募金です。
東北地方は曹洞宗の寺院の多いところです。
津波が押し寄せた海岸部にもたくさんの寺があります。
伽藍が流されてしまった寺、住職が死亡した寺もあります。
津波を免れた寺も、激震で大きな被害を受けました。
ところが、震災後のさまざまな支援の対象から、宗教施設は外されているのです。
高台にあって無事だった寺の多くが避難所になりました。
本堂や庫裡を被災者のために開放しました。
住職家族の居住部分も削って被災者の役に立てました。
震災直後の3月に、祥雲寺に救援を依頼してきた住職は、亡くなった人たちの葬儀を4月に延ばしてもらって、先ず生きている人たちの救援に奔走していました。
檀家の人はいわば身内ですし、危急の際には檀家に限らず地域のよりどころとなるという自覚が、寺の住職にはあります。
震災当時、宗教団体は救援活動に取り組みました。
仏教の宗派やその支部に当たる宗務所、教区、宗派を横断する仏教会、そして一つ一つの寺院など、あらゆる単位で募金や托鉢を行って、その多くは中央共同募金会など公的機関に寄せました。
しかし寺院などは、これらの機関による復興支援の対象になっていません。
まして援助特例法をはじめとする国、地方の法律・条令による支援も受けられません。
檀家の方々も被災した今回のような場合、寺院の復旧はたいへん困難です。
曹洞宗として被災した宗門寺院への救援事業は行ってきましたが、その困難さに比べればほんの僅かな足しにしかなりません。
冒頭にあげたお施餓鬼の募金は、それでも頑張ってくださいという励ましです。
急なお願いに55,675円もの募金をいただいたことに感謝申し上げます。
平成26年9月15日 祥雲寺住職 安藤明之
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平成26年8月観音朝詣り
2014年8月12日観音札所道中
天皇皇后両陛下は、本年6月、即位以来5度目となる沖縄行幸啓をされました。
6月が沖縄戦終結の月です。
終戦60年目の平成17年にサイパン島に行かれ、70年目の来年には、パラオ諸島など南太平洋の島々を訪ねたいとのご希望だそうです。
いずれの行幸も、戦死した兵士達、犠牲になった民間人、さらには現地の人たちもふくめた多くの御霊への追悼のためでありましょう。
成算なき戦場に追いやられ、米軍の銃火にさらされ、玉砕し、自決し、果ては餓死に至った人々、原爆や無差別爆撃の犠牲になった人々。
これら何百万の人々の無念さを思い遣る時、だれしも反戦の思いを強くします。昭和の戦争は、日本国民共有の悲しみであり悼(いた)みです。
両陛下の行幸啓には、追悼だけでなく、皇室として責任を取る御心が働いていると、私は感じます。
戦争に到るまでには、さまざまな政治的、外交的、歴史的要因があり、あるいは不可避であったかもしれない。
一部の人たちに責任のすべてを押し付けることはできません。
しかし、あの無謀な戦争を引き起こし遂行した責任を、歴史的必然から来たこととし、指導者が責任逃れをして良いはずもありません。戦争は天皇制のもとで起きました。
私の父が、天皇の馬鹿野郎と言ったのを、何度か聞いたことがあります。
シベリヤ抑留まで含めると足かけ10年、兵卒として下士官として軍隊にいた者の偽らざる気持ちです。
昭和天皇は、いのちを賭して終戦を決意し、8月15日の詔勅を読まれました。
日本史上最も英邁な君主であった昭和天皇でも取り切れなかったその責任を、今上陛下は受け継いで取られていると思うものです。
震災の避難所で正座をされて被災者に言葉をかけられている両陛下には、国民とともにおわすという御心がにじみ出ています。
このような方の追悼はまことにありがたいと思います。
平成26年8月15日 祥雲寺住職 安藤明之
18日の観音様の朝詣りは午前6時から行います。
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平成26年5月朝詣り
2014年6月18日横浜鶴見総持寺
月が皓々(こうこう)と照る夜半、求道のこころざし篤い修行僧が坐禅をしていると師匠が近づいて月を指さし、
「そなたは月が二つあることを存じておるか」
と問いかけました。
修行僧がいぶかしく思っている様子を見て、師匠は立ち去ります。
修行僧はおのれの未熟を恥じ、修行に精進しました。
月日経ち、身も凍る寒い月の夜に坐禅に努めているとき、師匠が近づいて指をパチンと鳴らしました。
その瞬間、修行僧は悟りを得たのです。
修行僧は大本山總持寺の第二世峨山(がさん)禅師、師匠は太祖瑩山(けいざん)禅師です。
「両箇の月」と呼ばれるこの公案について、いろいろな解釈がされています。
ただ解釈は解釈であって、それで峨山禅師の悟りを示すことはできません。
悟りは師家(師匠)と学人(弟子)の全人格の感応道交の中にあるものなのですから。
それをことわったうえで、解説をしてみます。
仏教では月は真理の象徴です。
真理は真如とも仏性ともいい宇宙から自己までを貫く絶対の真実です。
修行僧の坐禅は一点の曇りもない満月のごとき唯一絶対なる真実、真理を求めてのものでした。
それに対し、師匠は一つではないと言い放ったのです。
月には満月もあれば、三日月、新月もあります。
群雲に隠れることも、雲間より光のみが漏れいずることもあります。
現象の奥にある普遍の天体のみを真実の月とするのではなく、千変万化する現象のあり方に心を通わす融通無碍の境地を般若といい実知恵ともいい、その境地に到ることを悟るというのです。
仏教はものごとを固定的にとらえません。
大切なことは、全身全霊を傾け修行する僧と、闊達の境地にいる師匠の間だからこそ成り立つ話であるということです。
命がけの真剣勝負でなければ、何事も適当でいいよという俗話になってしまいます。
平成26年5月15日 祥雲寺住職 安藤明之
過去の未掲載のものをあげました。