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令和元年10月 朝坐禅会「指月の会」案内
2019年10月27日花はただ咲く 只ひたすらに只になれない 人間の私相田みつを禅宗の有名な言葉に「放下着」があります。着ているものを放下せよ、つまり執着を捨てろ、という趣旨の言葉と読み取れます。是に限らず、執着、欲得の類いを離れ捨てよとの言葉は多々あります。我が宗祖道元禅師も「我が身をも、心をも放ち忘れて、ほとけの家に投げ入れて ほとけのかたよりおこなわれてこれにしたがいもていくとき、力をも入れず、心をもついやさずして生死を離れ、ほとけとなる」と説かれ、私自身坐禅会に初めて来た方への説明は「捨てれば必ず軽くなる、捨てて、かろやかに生きなさい」というスッタニパータ(南方仏教に伝わる釈尊の語録)からの引用を必ず用いています。それは、坐禅が執着を、人が知らず抱えてしまっているあれそれを手放すことが出来る淨行であると信じていればこそです。その故に、坐禅をして何になるのか?との問には何にもならない(何かの為では捨行と成らない)と答えるのが正道となるのです。しかし、何事も言うは易く行うは難し、社会の仕組みの中に生きる身には中々捨てきることは難しいです。そもそも人間を知れば知るほどに、ロジカルに割り切れるものではないのだと思い知らされます。そうした見地に立った時、心に芽生える視点、想いにこそ「慈悲」があるのだと思います。慈悲は「慈しみ」「悲しみ」の二字で表現されます。有機体で構成される私たち人間は、無常の道理の中で必ず生老病死の苦にさらされ、徹底しようとしてもしきれない悲しさを元来持った生き物です。この弱さ、もろさ、あやうさを知るからこそ、同じ悲しみをもつ同類への哀れみ慈しみの心が、人には自ずと芽生えうるのです。悲しみに裏打ちされた慈しみの心、故に慈悲というのです。冒頭に引用した相田みつをさんは、足利で長らく坐禅会に通われて、このことをよく学んでいるからこそ、その作品には慈悲の眼差しがはっきりとあらわれています。「だめだっていいじゃないか、人間だもの」などはその代表と言えるでしょう。これらは、元々だめなのだから刹那的に生きるべきだ、とか怠惰に自堕落に耽っても良いとかをいっているのでは決してありません。ポジティブになれない上手くいかないという時に、そういうこともあるんだよという許しと労り、慈しみの視点が、木石ではない人には必要とされるのです。だからこそ、慈悲の心の表れである観音様は、今日まで広く信仰されてきたのでしょう。冒頭の一句は、このことをきちんと心しているかと自分に問いかける警句として、いつも自室に掲げているものです。祥雲寺副住職 安藤淳之一人で修行を行おうとすると、怠けてしまったり後回しにしてしまい続かない場合もあります。ですがみんなで行えば、難しいことでも楽しく行えるはずです。この朝坐禅会はそのような場となるよう始めました。一日の始まりを迎えるこのひと時、ご一緒に「かろやかに」生きてみませんか?日時:10月28日(月)朝6時半~8時(途中参加、途中退出可)
6時30分~7時10分(一回目の坐禅)
7時20分~8時 (二回目の坐禅)
場所:祥雲寺本堂一階
用意:身一つで大丈夫です。
足の組めない方は椅子での坐禅もできます。
注意:初めての方は最初に指導を行います。
その為可能ならば一回目の坐禅から参加されてください。
また、祥雲寺では毎週水曜夜6時(第四水曜のみ休み)、雀宮布教所「善応院」にて坐禅会を行っています