ごあいさつ

宇都宮市の祥雲寺は歴史のある曹洞宗のお寺です。
栃木県庁のすぐ北にあり、自然林の中には西国三十三番の観音像が祀られています。
また、樹齢350年を超える枝垂れ桜の老樹は県天然記念物として有名です。
たくさんの方々に仏教を親しんでいただくことを願いとし、様々な信仰行事を催しています。

ようこそおまいり

栃木県宇都宮市の祥雲寺(曹洞宗) | 桜や祭りが名物の寺

新着ブログ

  • 平成28年12月 観音朝詣りのお知らせ

    2016年12月18日

     

    12月8日は成道の日。写経会の納経会を行っています。

     

    本尊さまの台座にお経を書き付けた石を投入します。

     

    お釈迦様は、老病死の苦しみを見て、生きるとは何かという問いを抱えて出家されました。

    6年の苦行のあと、中部インドのブッダガヤの地、ナイランジャ川のほとりの菩提樹のもとで禅定に入り、12月8日の暁に、明星が燦然と輝く中で悟られました。

     

    しかし、お釈迦様は悟られた内容を、すぐには説法しようとはされず深い禅定に入ったままでおられました。

    世界の創造神である梵天はその様子を見ていました。

    そしてお釈迦様が真理を説いてくださらなければこの世は滅びてしまうと危惧し、おん前に現れて、衆生のために説法してくださるよう必死に勧めました。

     

    梵天の請いを受け容れたお釈迦様は、私はあらゆるところに行ってすべての衆生に説法しようと決心され、菩提樹のもとから出立されました。

     

    梵天勧請(ぼんてんかんじょう)と名付けられたこの話は、お悟りが説法されることによって衆生が救われたのであるから、これはお釈迦様の無限の大慈悲心のあらわれであるとして、語り伝えられました。

     

    東京大学名誉教授の斉藤明先生は、この時のお釈迦様の大慈悲心が具現したものが観世音菩薩であり、それがよく表れているのが十一面観世音菩薩の姿であると言われます。

     

    十一面観音は、頭上に十の顔と禅定にある仏さまを載(の)せています。

    これは四方八方上下の十方世界に慈悲の眼を向けてあらゆる生きとし生けるものをみそなわしているのであり、中央のほとけさまは菩提樹下に禅定するお釈迦様に他ならないということです。

     

    そうしてみれば、観音さまは仏さまの使いではなく、お釈迦様そのものということです。

     

    肉親のお釈迦様は、紀元前383年、北インドのクシナガラで入滅されました。

    しかしお釈迦様の大慈悲心は、観音さまとなって生きとし生けるものを救い続けています。

     

    平成28年12月15日  祥雲寺住職 安藤明之

     

    18日の朝詣りは午前6時半から行います。

     

  • 28年11月 月例早朝坐禅会「指月の会」案内

    2016年11月27日

     

    坐禅部屋の聖僧様

     

    聖僧様は坐禅をしている文殊菩薩様です。

     

    先日、観音経の講義に出席し、良いお話を聞くことが出来ました。

     

    世の中には色々な観音さまがおられますが、最も数が多いのは聖観世音菩薩、聖観音様になります。

    この「聖」という字は宗教的仏教的にも多くの所で使われ、また時には人名として使われたりもします。

    聖僧、聖観世音菩薩、高野聖、捨て聖、などなど。

    しかし、この聖、聖なるとは如何なる意味の言葉と受け取ればよいのでしょうか。

     

    「聖」という字は、分解すると「耳」を「呈」すると読み解けます。

    耳を呈する、つまり聞くことを差し出す、と解釈できます。

     

    よくお小言を言う人に対して「聞く耳を持たない」などと言った言い回しをしますが、

    私たちは相手を見て、

    「この人の話はよく耳を傾けねば」「この人の話は話半分に聞いておこう」

    というように相手を見てどの程度に聞くのか、という分類をしてしまっていることと思います。

    それで良い場合は多いのでしょうが、ある種人に対して壁を作る場合も生まれます。

    聖、耳を呈する、とはこのような区別を持たずに、誰であっても真摯に耳を傾ける、そうした分け隔てのない心映えを表する言葉なのです。

     

    日本の観音信仰の祖は聖徳太子と言われますが、聖徳太子は豊郷耳皇子とも呼ばれ

    十人の人の話を聞けたと伝承されています。

    この解釈からこの逸話を見てみたならば、数多の人の数だけ考え好み性質が異なる「十人」十色の人々の声を、その人に合わせて聞き届けられた、まさに観音様の如き徳を示された人であったからこそ、聖なる徳の太子と称されたのではないかと思います。

     

    聖性、聖なるものとは、分別を超えた、分け隔てのない心の尊さを表す言葉として

    用いられてきたものであり、観音様とはそのように人々に接し耳を傾けてくださる菩薩さまであると教わりました。

     

    祥雲寺副住職 安藤淳之

     

    一人で修行を行おうとすると、怠けてしまったり後回しにしてしまい続かない場合もあります。

    ですがみんなで行えば、難しいことでも楽しく行えるはずです。

    この朝坐禅会はそのような場となるよう始めました。

    一日の始まりを迎えるこのひと時、ご一緒に「かろやかに」生きてみませんか?

     

    日時:11月28日(月)朝6時半~8時(途中参加、途中退出可)

       6時30分~7時10分(一回目の坐禅)

       7時20分~8時(二回目の坐禅)

    場所:祥雲寺本堂一階

    用意:身一つで大丈夫です。

    足の組めない方は椅子での坐禅もできます。

     

    また、祥雲寺では毎週水曜夜6時(第四水曜のみ休み)、雀宮布教所「善応院」にて坐禅会を行っています

    なお、次回12月の指月の会坐禅会は歳末ということもあり、第三週月曜日の19日朝より行います。

     

  • 祥雲寺の本堂でヨガ教室を行いました。

    2016年11月19日

     

    去る11月17日の午後から、祥雲寺の本堂でヨガ教室が行われました。

     

    最初に住職からお話をして、本堂での教室の前に仏様にてを合わせ、

    先生を囲んで十数名の方たちとヨガを行いました。

     

    もともと仏教とヨガというのは歴史的にも大変つながりが深く、

    副住職も修行していた寺で何度かヨガのインストラクターの人から教わったことがあります。

     

    普段の風景とは全く毛色の違う、良い催しとなりました。

    来られた方も、お寺の静かな空気の中でのヨガはよいリフレッシュになったことと思います。

     

     

  • 平成28年11月 観音朝詣りのお知らせ

    2016年11月16日

     

    祥雲寺から見る宇都宮タワーと境内のイチョウ

     

    この子らを世の光に

     

    本年7月、神奈川県相模原市の障碍者施設で痛ましい事件が起こりました。

    26歳の元職員の男によって入所者19人が殺害され、重傷者も20人に及びました。

    大事件でしたのでご記憶のことと思います。

     

    犯人が

    「重度の障碍者は生きていても世の中の負担になるだけだから、世のために自分が殺してあげるのだ。」

    と動機を述べました。

     

    人格が破綻した自己中心の愚か者の妄言です。

    しかし、障碍者や世の中の弱き人たちへの迫害を正当づけるこのような考え方は、ナチスドイツなど、世界の歴史の中で繰り返されてきました。

     

    また、被害者の名前を警察が公表しなかったことについて、被害者家族の一人が

    「日本では、すべての命はその存在だけで価値があるという考えは特異とされ、優生思想が根強いためである」

    と説明したとのことです。

     

    優生思想とは、人間の中ですぐれた資質を持つ者の環境を良くし、劣った資質を持つ者を排除するという考え方です。

     

    「すぐれた」「劣った」を決めるのは人間の主観です。

     

    お釈迦さまは生きとし生けるものの平等を説かれました。

    仏教が広まった日本には、障碍者や弱き者への深いあわれみの心を持つ人はたくさんいたし、今もいます。

    しかし、それでも上に記した今回の被害者家族の方が感じている現実がないとは言い切れません。

     

    障碍者が生まれると、家の恥として人に知られないように家族内に隠してしまうことが一昔前まで行われていました。

    現在は家庭からも切り離されて施設に隔離されているようです。

    隔離からは、人としての心の交流は何一つ生まれません。

    差別が生まれるだけです。

     

    日本人の障碍者に対する見方、対応に、このようなことが続いているならば、改めなければなりません。

     

    冒頭の言葉は、日本の社会福祉を切り開いた糸賀一雄氏のものです。

    氏はキリスト教徒でした。

    言葉が「この子らに世の光を」ではないところに、障害を持って生まれた人たちへの敬愛が込められています。

     

    平成28年11月15日  祥雲寺住職 安藤明之

     

    18日の朝詣りは午前6時半から行います。

     

  • 28年10月 月例早朝坐禅会「指月の会」案内

    2016年10月23日

     

    第一土曜日の羅漢拝、石彫会の皆さんと十六羅漢(釈尊の高弟)にお参りします。

     

    和合の功徳は僧宝なり 『教授戒文』帰依三宝より

     

    ついこの間扇風機をしまったと思ったら、あっという間に暖房機を出したくなる気温になってしまいました。

    朝の坐禅で寒さを感じる季節になると、きまって思い出すのは冬の永平寺での坐禅です。

     

    毎年12月になると、蝋八大接心という一週間起床から就寝まで坐禅をし続けるという大行事が行われます。

    当時僧侶となって半年が過ぎたころの私は、古参僧侶や同輩との付き合いが上手くいかず、周囲との摩擦で僧侶としての自身の在り方に疑問を持っていました。

    そんな時期にこの大行事に臨むことになり、逆に悩んでるどころではなくなってしまいました。

     

    朝の3時頃に起床して坐禅が始まり、夜9時に就寝するまでわずかな間を挟みながら坐禅を続けます。

    一日目は体力で乗り切りました。

    二日目は身体にガタが来て気力で乗り切りました。

    三日目は体中が痛くなって息も絶え絶えで就寝の時間を待ち望みました。

    四日目は痛みが酷く気力も尽きかけてどうやって古参の目を盗んで楽をするかしか考えられませんでした。

     

    五日目、同輩同士で些細なことから言い合いになり、ギスギスした空気で坐禅に臨みました。

    自分は、なんでこんな苦役をやっているのかまるで分らなくなり、頭の中はぐちゃぐちゃになりながら坐っていました。

    そんな時、ふと「周囲が優しくないのは、自分が周囲に優しくしていないからだ」という思いと共に頭のぐちゃぐちゃがストンと腹に落ち、あんなに辛かった坐禅が憑き物が落ちたみたいに楽になりました。

    その後はぼんやりとしながらも落ち着いた心持ちで勤められるようになり、不思議な気持ちで一週間を終えました。

    周囲とも落ち着いて付き合えるようになり、摩擦も少なくなっていきました。

    私にとって、坐禅がただ退屈な形ばかりのものではないのだと思えるようになったのはこの時からです。

     

    後日、横浜の大本山總持寺で修行するようになってから、後堂(修行の責任者)の野田大燈老師にこの時のことを話しました。

    野田老師は

    「修行しているとそうした小悟大悟(様々な気付き)をする。自分もある。道を歩むということはこれを繰り返していくことだ。生涯繰り返しなさい。」

    というような意味のことを教えてくださいました。

     

    あの時から数えて13年が経ちました。

    私のこの道の、最初の一歩の思い出です。

     

    祥雲寺副住職 安藤淳之

     

    一人で修行を行おうとすると、怠けてしまったり後回しにしてしまい続かない場合もあります。

    ですがみんなで行えば、難しいことでも楽しく行えるはずです。

    この朝坐禅会はそのような場となるよう始めました。

    一日の始まりを迎えるこのひと時、ご一緒に「かろやかに」生きてみませんか?

     

    日時:10月24日(月)朝6時半~8時(途中参加、途中退出可)

       6時30分~7時10分(一回目の坐禅)

       7時20分~8時(二回目の坐禅)

    場所:祥雲寺本堂一階

    用意:身一つで大丈夫です。

    足の組めない方は椅子での坐禅もできます。

     

    また、祥雲寺では毎週水曜夜6時(第四水曜のみ休み)、雀宮布教所「善応院」にて坐禅会を行っています。

     

祥雲寺行事案内

祥雲寺で行ってる月例行事や年間行事、その他法要・祭りなどについてのご案内です。 行事カレンダーもご確認ください。