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東日本大震災7回忌慰霊法要のご案内(3月11日午後2時半より)
2017年3月9日東日本震災3回忌慰霊法要時
栃木県は被災地に隣接しており、県北は被害を受けたところも多く、震災の災禍を我がことのように感じている人も多くいらっしゃいます。
そうしたことから震災二年後の折に境内の無縁供養塔に震災慰霊碑を建て、皆で震災当日を祈り偲ぼうと呼びかけました処、大変多くの反響をいただきました。
今年は震災より6年、七回忌の節目の年になります。
この節目の時、震災で災禍に合われた方たちの為に、皆で祈りの時間を再び過ごしたいと思います。
3月11日午後2時半より始めます。
お檀家であるなしの別はありません。
御心を寄せられる方々の参集をお待ちしています。
東日本大震災七回忌慰霊供養法要日時:3月11日午後2時半より(1時間未満)
場所:祥雲寺境内しだれ桜裏、無縁供養塔前
次第:慰霊塔前にてお檀家に書写いただいたお経を読み黙祷、焼香。
その後本堂前広場にて写経のお焚き上げ。
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29年2月 月例早朝坐禅会「指月の会」案内
2017年2月26日クシナガラ涅槃堂(釈尊臨終の地)
涅槃仏前で読経
祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり、沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理を表す。
『平家物語』
冒頭の文はおそらく日本人なら誰しもが聞いたことのあるものでしょう。
平家物語の書き出しの部分です。
失われるものへの哀悼、もののあわれをうたった古今に渡る名文ですが、
この文章の後半は、お釈迦様が亡くなられるシーンを描写してもいるのです。
お釈迦様は2月の15日、満月の夜、二本の沙羅の木(沙羅双樹)の間に横になられて、大勢のお弟子方に見守られながら最後の時を迎えました。
臨終の床の中、自らの教えが正しくお弟子方に伝わっているか、法を説き確認をされてから涅槃に入られました。
この時に説かれた教えの中で最も有名なものが「自灯明、法灯明」です。
教え導くもの(釈尊)がいない、迷いの暗がりの中に生きねばならなくても、
精進して良く整えられ理性に目覚めた真実の自己を灯火(頼り)として、
お釈迦様がこれまで説いてこられた真理、法を灯火(頼り)として、
迷いの暗がりを照らし歩みなさい。
2月はお釈迦様が亡くなられた月です。
この月は1日から15日まで、お寺では釈尊の遺言の教えである『遺経』を毎晩読み、この教えを確認して精進しています。
頼ることの出来る自己で有る様に「良く整える」ことこそ、坐禅をはじめとする修行の大切な役割なのです。
余談ながら、昨年インドの祇園精舎にお参りした時に、祇園精舎の近くに日本から寄贈された建物があるのを見つけました。
見てみると中には大きな鐘がありました。
聞いてみると、「祇園精舎に鐘がないのはおかしい」と言った日本人が寄贈した、だそうです。
昔は想像の中だけでしかなかった祇園精舎の鐘も、今は実際に聞くことが出来るようになっていて、平家物語の作者もまさか自
分の筆がこのような結果につながるとは思わなかったことでしょう。
祥雲寺副住職 安藤淳之
一人で修行を行おうとすると、怠けてしまったり後回しにしてしまい続かない場合もあります。
ですがみんなで行えば、難しいことでも楽しく行えるはずです。
この朝坐禅会はそのような場となるよう始めました。
一日の始まりを迎えるこのひと時、ご一緒に「かろやかに」生きてみませんか?
日時:2月27日(月)朝6時半~8時(途中参加、途中退出可) 既に終了
6時30分~7時10分(一回目の坐禅)
7時20分~8時(二回目の坐禅)
場所:祥雲寺本堂一階
用意:身一つで大丈夫です。
足の組めない方は椅子での坐禅もできます。
また、祥雲寺では毎週水曜夜6時(第四水曜のみ休み)、雀宮布教所「善応院」にて坐禅会を行っています。
次々回の指月坐禅会は3月27日となります。
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平成29年2月 観音朝詣りのお知らせ
2017年2月15日涅槃会(釈尊の命日)に折り紙教室の人たちがお参りしています。
電車の優先席を譲らない若者が多くなっているそうです。
これについてのテレビ番組を2つ見ました。
一つは、老人が優先席に座っている若者に席を譲ってくれと何度も促したのに対して、若者は拒否して座り続け、老人をののしりました。
その様子が動画に撮られ、ネットで広がったのですが、それを見た人たちの反応は老人を批判するものが多かったそうです。
老人の態度が上から目線で感じが悪いというのです。
この報道が契機になったのでしょう、若者達に電車で年寄り、妊婦、障碍者に席を譲るかを聞いた別の番組がありました。
問われた若者達も、譲らない、譲りたくないと答えた人たちが多かったのです。
理由として、席を立って譲ったが断られたことがあるからというものが多くありました。
特に年寄りについては、自分はまだ若いと思っているかもしれずかえって失礼なことをしたと思ったという人もいました。
しかし全体的には、断られること自体が不愉快と感じた人が多いようです。
疲れていて座っていたいという時もあるかもしれません。
事情はいろいろで一概に批判することは出来ませんが、わざわざ優先席と表示してある場所ですから、席を立つのが本来であるべきです。
断られるのがいやという気持ちの中には、何事についても自分を否定されたくないという感情が含まれています。
人間として自然なことでありますが、それを抑えてでもするべきことがあり、それによって人間の社会が成り立っています。
優先席は、人々の善意に期待して設けられているので、規則ではなく、まして法律ではなく、境石力はありません。
しかし、弱きものに思いやりを持ち、助けていこうとすることは、法律よりももっともっと大切なことです。
断られても、断られても譲っていっていただきたいのです。
平成29年2月15日 祥雲寺住職 安藤明之
寒さきわめてきびしい時ですので
18日の朝詣りは午前9時から行います。
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29年1月 月例早朝坐禅会「指月の会」案内
2017年1月28日暫く不在で当日前に更新できませんでしたが、遅ればせながら載せておきたいと思います
「お前は月が二つあることを知っているか?」(「汝、月に両箇有ることを知るや」)
両箇の月『峨山禅師行状』
新年おめでとうございます。
今年も指月坐禅会を参加者の方達と続けていけるよう頑張りたいと思います。
さて、当坐禅会は「月」の字を題にのせています。
禅宗では昔から、悟りの境地、真理を夜空に皓皓と輝く月に喩え、様々な語句に用いてきました。
普遍的なもの、唯一的なもの、円満なる境地の象徴として月よりふさわしいものは無いからです。
そんな中、その月の唯一性に疑問を投げかけた禅問答が上記の『両箇の月』です。
曹洞宗の大本山總持寺の初代瑩山禅師のもとで二代目となる峨山禅師が修行されていた時にこんな問答があったそうです。
瑩山「お前は月が二つあることを知っているか?」
峨山「わかりません」
瑩山「月が二つあるということがわからなければ、私の禅の後を継ぐことは出来ない」
峨山様は自らの修行が至らないことを知ってより一層励まれ、この「両箇の月」に取り組まれました。
二年が過ぎたある日、深く禅定に入った峨山様に瑩山禅師が歩み寄られ、耳元でパシッと一度指を鳴らす音を聞いて、峨山さまは悟りを開かれたそうです。
峨山禅師がどのように悟られたのか、正確には伝わってはいません。
ですがある老師は
「月とは唯一絶対の真理を指したものであろうが、この絶対の真理を〔二つある〕というのは、禅師が真理を唯一とみ、絶対と見る偏執に陥ることを打破されたもので、つまり〔出身の活路〕に欠けていることをいましめられたことばである」
と説かれました。
私たちは皆大なり小なり、自分の中にある正しさを軸に生きています。
しかしこの正しさを大きく主張すると、殆どの場面で他者の主張する正しさと角突き合わせることになります。
「僕らはみんな悪くないと思っている。だから戦争は無くならない。」
昔読んだ本の言葉はいつまでも私の耳に響いています。
絶対の真理をしりながらも、その真理を絶対とは捉えない、その自由豁達の境涯こそ、瑩山禅師の示されたものなのだろうと思います。
祥雲寺副住職 安藤淳之
一人で修行を行おうとすると、怠けてしまったり後回しにしてしまい続かない場合もあります。
ですがみんなで行えば、難しいことでも楽しく行えるはずです。
この朝坐禅会はそのような場となるよう始めました。
一日の始まりを迎えるこのひと時、ご一緒に「かろやかに」生きてみませんか?
日時:1月23日(月)朝6時半~8時(途中参加、途中退出可) 既に終了
6時30分~7時10分(一回目の坐禅)
7時20分~8時(二回目の坐禅)
場所:祥雲寺本堂一階
用意:身一つで大丈夫です。
足の組めない方は椅子での坐禅もできます。
また、祥雲寺では毎週水曜夜6時(第四水曜のみ休み)、雀宮布教所「善応院」にて坐禅会を行っています。
次回の指月坐禅会は2月27日となります。
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平成29年1月 観音朝詣りのお知らせ
2017年1月25日暫く不在で更新できませんでしたが、遅ればせながら載せておきたいと思います。
正月の門松飾りの本堂。
この一日の身命はとうとぶべき身命なり、とうとぶべき形骸なり。
道元禅師 正法眼蔵行事の巻
お釈迦様は、生まれ落ちてすぐに七歩歩まれて天地を指さし「天上天下唯我独尊」と叫ばれたと伝えられています。
この言葉を、この世で私のみが尊いのだという意味にとってはなりません。
「人間は自分自身の尊さに目覚めよ」といわれたと受け取るべきで、それが仏教の根本精神なのです。
「尊い」とはどういうことか。
するべきことがあるのに、何もしないで時を過ごし、生きているだけで尊いという意味ではありません。
「いま」この時を精いっぱいに生き抜いてゆく。
その生き方が、天地の理法に適う時、そこに尊さが自然に現れるのです。
天地の理法に適うといっても、常人がなしえないような厳しい修行をすることをすべての人に求めているのではありません。
お釈迦様は対機説法といって、人それぞれの資質、境遇にかなった生き方をお説きになりました。
普通に生活する人々に対しては、いつくしみと感謝の心に基づいた行いをすることを説かれました。
その心を志として精いっぱいに生きる時、人は尊いのです。
道元禅師は、これらを踏まえて、われわれのいのち(身命)とからだ(形骸)を「とうとぶべき」と言い切っておられるのです。
「この一日」という言葉も、時間の長さを表しているのではありません。人間一人ひとりにとっての時間は、時計で計る時間ではありません。
病にかかり余命幾ばくもないと知った人が、残された時間を大切に生きようとすれば、一刻一刻は無限の長さであり価値でもあります。
時間はいのちなのです。
お正月には時を感じます。
その時を長さ短さで感じるのではなく、「いま」がかけがえのないものであると自覚して、志をもって精一杯生きたいものです。
平成29年1月15日 祥雲寺住職 安藤明之