-
平成22年7月朝参りお知らせ
2010年7月15日しだれ桜下の紫陽花。
卒塔婆は梵語ストゥーパの音訳で、もともと仏舎利塔を意味します。
お釈迦様は涅槃に入られた後、遺体は火葬され、遺骨は八つに分骨されました。
ゆかりのある人々が持ち帰りそれぞれに塔を建てて祀りました。
百数十年のち、古代インドを初めて統一したアショーカ王は、一つを除いた七つの塔の遺骨をすべて集め、それをさらに細分して八万四千の塔をインド全土に建てたと伝えられます。
卒塔婆は仏教徒の信仰の中心になりました。紀元前後の頃のインドでは仏教徒のことを「塔を祀る者たち」と呼びました。
今日、日本で卒塔婆というと、木の板の上部を五輪の形にきざんだものを指します。これは石造りの五輪の塔に由来します。
五輪塔の起源は、あるいはインドや中国にあるのかも知れませんが、残されているもので見る限り日本独自のものです。
平安時代の末から、死者に対する供養塔として盛んに建立されました。
とくに高野聖といわれる人たちによって広められました。
高野聖は死者の極楽往生のため遺骨を高野山に分骨して祀ることを勧めて回った僧侶たちです。高野山にお参りすると、奥の院の長い参道に何十万基ともつかない五輪塔があって彼らの活動がいかに活発であったかを示しています。
祥雲寺でも、法事の際には必ず卒塔婆を建立して供養の証(あかし)としています。これについて私は次のように説明しています。
「今日、お施主を中心に大勢の方が集まり、尊いお経が上げられるなかで、手を合わせ、御焼香して本尊様に個人の冥福を祈りました。その祈りの心は目に見えるものではありません。目に見えない心を仏教徒の信仰の象徴であった卒塔婆の形に書き付けて形に表わしてささげるのがこのお塔婆です。」
祈りの心が込められたとき卒塔婆は単なる板きれとは違ってきます。
卒塔婆をささげる習慣はこれからも大事にしてゆきたいものです。
平成22年7月15日 祥雲寺住職 安藤明之
18日の観音様の朝詣りは午前6時から行います。
-
宇都宮仏教会戦災法要(於 祥雲寺)
2010年7月12日第二次世界大戦末期の昭和20年7月、宇都宮は空襲を受け、600人以上の人が焼死したと言われています。
宇都宮仏教会では毎年死者の御供養をする戦災法要を例年行ってきました。
今年は祥雲寺を会場とし、7月12日10時より遺族の方に集まって頂き法要を行いました。
須弥壇(仏様の台座)に戦災殉難者の位牌を祀り、祭壇を用意します。
遺族の方たちが集まり、法要開始の前に式次第を説明しています。
宇都宮仏教会会長を導師として、市内各宗派のお坊さんが並んで法要を行います。
この写真では花びらの絵が描かれた紙を散らし、場を清めている所です。
社会福祉協議会代表と、遺族会代表による追悼の辞を述べています。
最後に遺族の方達全員で焼香を行います。
そばで見ていると一心にお祈りされている方が多く、
戦争の爪痕の傷の深さ重さがひしひしと感じられました。
最後に仏教会会員の記念撮影。
何時も思うことですが、
これだけ違う宗派のお坊さんが一丸となって事にあたれる場があるというのは
大変ありがたいことです。
-
平成22年べんてん祭り
2010年7月12日毎年7月7日はたなばた祭りです。
祥雲寺ではこの日に合わせてべんてん祭りを行っています。
七福神唯一の女性でもある弁才天(弁天様)は音楽文学技芸の神様として、古くから信仰されている神様です。
祥雲寺裏手の池に咲く蓮の花。
ここ数日天気が安定せず何時咲くのかと思っていましたが
丁度良い日に花を咲かせてくれました。
蓮の花はインドを原産とする、仏教を象徴する花としてどのお寺でも大変大切にされてきました。
まつりの席を設営中の祥雲寺羅漢の会。
天気が不安定だったので直前に設営を行っています。
11時前になり、いよいよ開催となります。
天気に若干の不安がありましたが、大勢の方にお集まりいただけてホッとしました。
祭りが始まり、最初にご詠歌講の方達による合唱で導師と式衆をお迎えします。
ご詠歌に合わせ、導師の入場となります。
まず最初に弁天様の真言をお唱えし、般若心経を太鼓を打ち鳴らしながら読経します。
続いて焼香になります。
導師から洒水器を預かった式衆が焼香されている参拝者の頭に水をふりまき
厄や障りを流して(厄難消除)今後の無事を願います。
外の法要が終わった後は庫裏に入って設斎になります。
婦人会の皆さんが作った精進料理と共に冷たい飲み物を頂きました。
台所は一斉に大勢の人数をもてなすので大忙しです。
この日は朝から何十人分の食材を切って揚げて調理をし、準備を行います。
食事と共に毎年恒例のすり鉢灸を韋駄天様の前で行います。
法要に使った線香を種火にして火をおこし、すりばちにもぐさを盛って頭にお灸をすえます。
梅雨の時期まっただ中で予報も降水確率50%の悪条件でしたが、日中は雨に降られることもなく、比較的涼しい天気の中で無事円成することができました。
このべんてん祭りを迎えると、夏が始まったことを実感します。
すり鉢灸で汗を流して健康をお祈りしたことですし
祥雲寺の夏の終わりでもある8月29日のお施餓鬼まで張り切って頑張りたいと思いました。
-
平成22年本山参拝
2010年6月30日さる6月7日~9日の日程で、曹洞宗大本山永平寺に参拝団を組み、お参りしてまいりました。
祥雲寺では例年曹洞宗の二大本山である永平寺と總持寺を交互にお参りしています。
関越自動車道走行中の写真。
福井永平寺までバスで移動する為、朝早くに出て夕方近くに到着の行程となります。
永平寺応供台での夕食。
他の参拝団の方と一緒に膳につき、作法に則って食事を頂きます。
夕食了っての座禅、法話の時間。
参拝者に永平寺での修行の一端、禅の教えを知ってもらうため、
夕食の後はこのような座禅の時間をとっています。
翌朝、不老閣での一枚。
不老閣というのは永平寺の管長、禅師様の御住いにあたります。
めったにお参りすることのできない場所ですが、今回ご縁を頂き
参拝団の皆さんと一緒に禅師様にお参りすることができました。
めったにないことなので、参加者一同大変緊張していたようです。
2日目永平寺を出て瑞泉寺にお参りしました。
山門の所では近所の小学生が写生に来ていたようです。
瑞泉寺総門前で一枚。
世界遺産白川郷の展望台で集合写真。
白川郷は合掌造りの民家を保存し、
昔ながらの農村風景を現代に残している大変素晴らしいところです。
散策中の一枚。
参加者に元々農家であった人もいるので
建物に入ると、これはこういう使い方をしたものだ、と懐かしそうに話す方もいました。
高山まつりの森、施設内での一枚。
まつりの森は高山の夜祭りの風情を味わえる大きな洞窟内の施設になります。
祭りばやしや太鼓が鳴らされ、またそれらを体験することができる非常に楽しい施設です。
山車の前での一枚。
高山の祭りと言えば春の山王祭りと、秋の八幡祭りの二つが日本3大美祭に数えられるほど有名です。
高山祭の魅力は、美しい祭屋台にあります。
その美しさは動く陽明門とも称えられるそうですが、このミュージアムにくると、いずれ本物の高山祭を見てみたくなります。
3日目、高山に宿泊して旧街道沿いをぐるり散策し、朝市を見てきました。
朝市に出店するおばちゃんたちは総じて商売上手で、
皆さんお土産を買いこみすぎてしまい苦笑していました。
今年も皆体調を崩すことなく、楽しい参拝旅行を行うことができました。
来年は總持寺御移東100周年に合わせてのお参りを企画しています。
また多くの方に良いお参りをしてもらえるよう計画していきたいと思います。
-
平成22年6月朝参りお知らせ
2010年6月16日永平寺 龍門
唐時代の禅僧、香厳(きょうげん)禅師は潙山霊祐禅師のもとで修行していました。
ある時、師が問います。
「おまえはたいへん博学聡明であるが、この世にまだ何も現れていない前のことを、経典や書物にある言葉ではなく、自分の言葉でわしに言うてみよ。」
香厳禅師は数度にわたって考え抜いたが、どうしても言うことができませんでした。
そしてこのことを悲しんで、持ってきた書物を焼き捨ててしまい、修行僧たちの食事の給仕をする役目に就いて年月を過ごしました。
さらには、むかし慧忠禅師という大禅匠が住んでいた山に入って庵を結び、世間とのかかわりを捨てた生活をおくりました。
ある日、道を掃き清めていると、箒(ほうき)の先にはじかれた小石が道ばたの竹にあたってカーンと鋭い音を立てました。
そのとたん、なが年こころのなかで問い続けていたことが氷解し、悟られたのです。
この話は有名な禅話です。
以前、私はこの話を軽く考えていました。それは香厳禅師の真剣さを真剣に考えていなかったからです。
弟子を問いつめる師霊祐の力量、それに必死で応えようとする香厳、ただものではない師弟関係です。
霊祐の問いには模範解答があります。
しかし、そんな知識で答えられることを問うているのではないのです。
頭で答えきることができないことを頭で徹底して考え抜き、その結果が書物を焼き、僧堂での下積みの役を勤め、独り山に入っての修行だったのです。
いずれも自分だったらどうかと思いめぐらすと、そのすさまじさが伝わってきます。
香厳禅師はその後も、山中の奇岩や清泉を修行の相手として、一生目立たない静かな生活を送りました。
道元禅師は修行こそ悟りの表われであるとされていますが、その修行はかくも徹底したものだったのです。
平成22年6月15日 祥雲寺住職 安藤明之
18日の観音様の朝詣りは午前6時から行います。