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30年10月 朝坐禅会「指月の会」案内
2018年10月21日四大分離して甚れの処に向かってか去る。 『無門関』現在祥雲寺では新規の墓地区画を整備しています。私が普段で、新しく墓地を建てられた人に話している文章を載せてみます。しばらく前に「千の風になって」という歌が大変流行しました。私のお墓の前で泣かないで下さい、私はそこに居ません。千の風になって、あの大きな空を吹き渡っています。この曲の特別なところは、死者からのメッセージであるという所です。死という断絶。それを超えて語りかけてくれる「向こうからの言葉」うちひしがれている人にとって何よりの慰めとなる、この歌にはそうした力があるのだと思います。この歌詞は一説にはネイティブアメリカンの言葉が元になってアメリカで広まり、それを新井満氏が翻訳して歌にしたそうです。私たちは縁あってこの世に生を受け、様々な結びつきの仲で育ちやがて枯れていきます。縁によって生まれいでた私たちは、死ねば何処に行くのでしょうか。何処に行くのでもありません。世界から結びつきによって生まれた私たちは、ほどければまた世界に帰っていくのです。私たちの命は、すがたかたちを変えてまたこの世界を巡る大きなはたらきへと立ち返っていく。だからこそ、悲しみに萎れた顔を上げて耳を澄まして見たならば、木漏れ日の煌めきや風のそよめき、土の臭いや水の流れにあの人の命のはたらき、面影を見ることも出来るのでしょう。ですが、お墓こそが故人を思い返す、偲ぶのにこの世で最も適した所であることも間違いないはずです。故人を弔い、文字通りその名残を石の永遠性に託して刻み、この世にあったのだという証拠を立たせているのですから。どうかお墓参りの時にはたくさん声をかけてあげて下さい。故人には出来なくなった掃除をして届けたい物や思いをお供えしてあげて下さい。そうして合わせた手の向こう側に、きっと喜ぶ顔を感じることが出来るはずです。祥雲寺副住職 安藤淳之一人で修行を行おうとすると、怠けてしまったり後回しにしてしまい続かない場合もあります。ですがみんなで行えば、難しいことでも楽しく行えるはずです。この朝坐禅会はそのような場となるよう始めました。一日の始まりを迎えるこのひと時、ご一緒に「かろやかに」生きてみませんか?日時:10月22日(月)朝6時半~8時(途中参加、途中退出可)
6時30分~7時10分(一回目の坐禅)
7時20分~8時 (二回目の坐禅)
場所:祥雲寺本堂一階
用意:身一つで大丈夫です。
足の組めない方は椅子での坐禅もできます。
注意:初めての方は最初に指導を行います。
その為可能ならば一回目の坐禅から参加されてください。
また、祥雲寺では毎週水曜夜6時(第四水曜のみ休み)、雀宮布教所「善応院」にて坐禅会を行っています
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30年9月 朝坐禅会「指月の会」案内
2018年9月22日生をあきらめ死をあきらむるは仏家一大事の因縁なり
『正法眼蔵』永平道元
先月の続きを書きます。
以前曹洞宗の布教第一人者とも言われる盛田老師の講義で
「宗教者は自らの生き死にの問題を明確にすべき」
といった大意の言葉をいただきました。
どう生きてどう死ぬのか、宗教はこの大命題に答えるためにあるのです。
私の思う死生観を書きたいと思います。
昔読んだ本の中に「六尺の病床これ道場なり」というエピソードがあります。
あるところに病床に横たわる若い僧侶がいました。
それを見舞った師匠が一枚の書付を枕元に置いていきました。
それが「六尺の病床是道場なり」です。
私にとって人生の範ともなっている言葉です。
お釈迦様は布教の旅の中で、貴方も旅などせず畑を耕し作物を育てては?、との問いかけに、
私は心の畑を耕すものなのだ、と答えられたそうです。
仏教徒は、自らの、そして他者の心の畑を生涯耕すべく道を弁精進する人たちを言うのです。
そしてそれは、いかなるところであっても取り組むことの出来るもので、たとえ病床に臥せっていてもなお務め励み精進することは出来るのです。
私には上記のエピソードは、正に弟子を導く師匠の叱咤激励であるのだと聞こえます。
近い言葉としてはがん哲学外来を開かれている樋野興夫先生の書かれた
「明日この世を去るとしても、今日の花に水をあげましょう」
という言葉が挙げられるでしょうか。
曰く、がんとなり自分の未来を思うことが出来なくなると心が内向きになり萎れてしまう。
そうした時には自分のこと以外に目を向けるべきだ。
自分以外の大切なもの、気に掛けることが出来るものを見つけそのために時間を費やしてあげるべきだ。
人間自分を大切にしすぎると色々なところで行き詰ってしまう。
だから、自分以外に目を向けることで内向きとなった心の行き所を探すことが出来る、とのことです。
お釈迦様は80歳で死の床に就き、最後まで集われた弟子方の為に教えを説いて、遂には自らの死に様をもって「これこそ私の最後の教え」とされました。
最後まで「心の畑を耕すもの」であり続けたのです。
私も及ばずながらお釈迦様の教えの上での孫子であります。
法の孫として恥ずかしくないよう、受け継ぎ育み伝えていくべく努めることが私の「生死」です。
祥雲寺副住職 安藤淳之
一人で修行を行おうとすると、怠けてしまったり後回しにしてしまい続かない場合もあります。
ですがみんなで行えば、難しいことでも楽しく行えるはずです。
この朝坐禅会はそのような場となるよう始めました。
一日の始まりを迎えるこのひと時、ご一緒に「かろやかに」生きてみませんか?
日時:9月24日(月)朝6時半~8時(途中参加、途中退出可)
6時30分~7時10分(一回目の坐禅)
7時20分~8時 (二回目の坐禅)
場所:祥雲寺本堂一階
用意:身一つで大丈夫です。
足の組めない方は椅子での坐禅もできます。
注意:初めての方は最初に指導を行います。
その為可能ならば一回目の坐禅から参加されてください。
また、祥雲寺では毎週水曜夜6時(第四水曜のみ休み)、雀宮布教所「善応院」にて坐禅会を行っています。
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30年8月 朝坐禅会「指月の会」案内
2018年8月26日生をあきらめ死をあきらむるは仏家一大事の因縁なり
『正法眼蔵』永平道元
先日座禅会にて、葬儀の現代化について参加者から話が出ていました。
聞くところでは、ロボットに僧侶の装束をさせてお経や法話を再生させ、木魚や鐘をならして法事を代行するサービスの展示なるものが行われていたそうです。
そうした代行業者に葬儀法要の仕事をもって行かれたら収入がなくなってしまうのでは無いのか、と聞かれることもありますが、私はあまり心配していません。
駒沢の安藤嘉則教授の講義によれば、全国の数多の寺院は、集落として力を持ってきた全国の村々で弔いをしてほしいという要望を受けて僧侶が求められたからこそあるのだそうです。
そして、僧侶にお弔いが依頼されたのは、「如何に生きるか(如何に死ぬか)」という人生の命題に同じ人間として取り組んだ人なればこそだと思っています。
ロボットのマニュアル再生のお話、あるいは発展すればAIによって臨機応変な法話といったものも将来あり得るのかもしれませんが、そこには同じ人間だからこそ相通じる「共感」があり得る物ではありません。
そんなことを心配するならば、自らの精進を如何に人に聞きやすく説けるかを悩むべき、というのが私の思うところです。
祥雲寺副住職 安藤淳之
一人で修行を行おうとすると、怠けてしまったり後回しにしてしまい続かない場合もあります。
ですがみんなで行えば、難しいことでも楽しく行えるはずです。
この朝坐禅会はそのような場となるよう始めました。
一日の始まりを迎えるこのひと時、ご一緒に「かろやかに」生きてみませんか?日時:8月27日(月)朝6時半~8時(途中参加、途中退出可)
6時30分~7時10分(一回目の坐禅)
7時20分~8時 (二回目の坐禅)場所:祥雲寺本堂一階
用意:身一つで大丈夫です。
足の組めない方は椅子での坐禅もできます。注意:初めての方は最初に指導を行います。
その為可能ならば一回目の坐禅から参加されてください。
また、祥雲寺では毎週水曜夜6時(第四水曜のみ休み)、雀宮布教所「善応院」にて坐禅会を行っています。 -
30年7月 朝坐禅会「指月の会」案内
2018年7月19日いかなるところにも塔を建てて供養すべし、故は如何、正に知るべし、このところは即ちこれ道場なり。
「神力品」
来年二月にミャンマー参拝団体旅行の企画をしています。
二年前にインドにお参りして、仏跡にたくさんの国の方がお参りしているのを見ました。
洋の東西、文化人種を問わず、同じようにお釈迦様の教えを尊ばれていて、今日同じように仏跡に手を合わせている、歴史の大きな流れや仏教の懐の深さというものを感じるように思います。
そしてやはり、東南アジアの国々から来られている方はとりわけ多く、熱心に礼拝をされていらっしゃいます。
この方達の信仰、仏教文化を見聞きしてみたい。それは多くの気づきを私たちに教えてくれるものとなるはずだろう、そうした思いを強く持ちました。
ミャンマーの仏教文化というと「パゴダ」と呼ばれる仏塔の林立する姿が観光パンフレットなどでも多く取り上げられます。
塔は仏教のシンボルです。お釈迦様は遺骨を塔に祀られ、上記の経典でも仏教徒はどんなところでも塔を祀り精進に励みなさい、と書かれています。
先日映画の「ビルマの竪琴」を見て、作中で水島上等兵を看病した老僧が
「ここは仏の国じゃ、旗の色が変わろうとも何も変わらない。勝つも負けるも意味がないとなぜわからない」といったことを教え諭していました。
仏教は「無常」を大前提としています。
この世の全ては移り変わり、留まることはなくそのままであってほしいと願ってもかなうことはない。
そしてその中で、人はどう生きたら安心をすることができるのかを説くのが仏教です。
変わっていく世界の中で、変わることのない尊さ。
ミャンマーの人たちはそれを目に見える形にしようとして、仏教のシンボルである塔「パゴダ」を作ったのではないか。
その心根が表れているからこそ、パゴダは白く壮麗な姿で分け隔てなく参拝者を迎えているのではないだろうか。
そんな感想を持ちました。
参拝の為、またかの地で戦没した方たちの慰霊の為、そして楽しい思い出となる様観光の為旅行の企画を練っています。
大勢の方の参加をお待ちしています。
祥雲寺副住職 安藤淳之
一人で修行を行おうとすると、怠けてしまったり後回しにしてしまい続かない場合もあります。
ですがみんなで行えば、難しいことでも楽しく行えるはずです。
この朝坐禅会はそのような場となるよう始めました。
一日の始まりを迎えるこのひと時、ご一緒に「かろやかに」生きてみませんか?日時:7月23日(月)朝6時半~8時(途中参加、途中退出可)
6時30分~7時10分(一回目の坐禅)
7時20分~8時 (二回目の坐禅)場所:祥雲寺本堂一階
用意:身一つで大丈夫です。
足の組めない方は椅子での坐禅もできます。注意:初めての方は最初に指導を行います。
その為可能ならば一回目の坐禅から参加されてください。
また、祥雲寺では毎週水曜夜6時(第四水曜のみ休み)、雀宮布教所「善応院」にて坐禅会を行っています。 -
30年6月 月例早朝坐禅会「指月の会」案内
2018年6月24日戒は第一安穏功徳の所住所たることを
「遺経」
先日永平寺にお檀家さんとお参りしてきました。
私が修行していたのは平成14年ですからもう15年も昔のことになってしまいましたが、時を経ても変わらず有り難いところだなぁ、との思いを強くしました。
それは、志乏しく修行に入った私のようなものであっても、この道をゆく素晴らしさを教えてくれた、仏道を学ぶ(真似る)場として最上の所であるからです。
仏教は業を教えの根幹に据えています。
業とはすなわち習慣です。
悪いことによらず良いことを行い、心を浄めていく、これが仏教ですと古人は言いました。
日々の行いが人間を形成していくのだから、意識的に善業を行っていればその習慣が身について良い方向へ導いてくれる。
悪いことをしないように心掛けて行えば、その習慣が身について悪い方向から離れてくれる。
そうすることで自らの内面をよりよく整えていくことができる。
歴代の祖師方は様々な難しい言葉を用いつつも、その根底には必ずこの考えが仏教にはあります。
良いことを意識せずとも行えるように、仏教には戒という決まりごとがあります。
曹洞宗では道元禅師がまとめた十六浄戒をたてていますが、禅宗寺院ではこの戒を根底に据えた清規という生活規範を基に修行を行っています。
永平寺では一挙手一投足、食事の作法風呂の作法寝る作法までが決まっています。
慣れるまでは大変息苦しく辛いものですが、これが慣れてしまうと不思議と落ち着く、安定した心持ちに導いてくれると感じられるのです。
砕けた言葉で言うならば、お坊さんらしさを身に着けることで、内面もお坊さんらしく落ち着き整っていったのです。
15年前、私の僧侶としての土台、根っこはこの場所で築かれました。
時を経ても教えは色褪せず、同じ道を今なお歩んでいます。
祥雲寺副住職 安藤淳之
一人で修行を行おうとすると、怠けてしまったり後回しにしてしまい続かない場合もあります。
ですがみんなで行えば、難しいことでも楽しく行えるはずです。
この朝坐禅会はそのような場となるよう始めました。
一日の始まりを迎えるこのひと時、ご一緒に「かろやかに」生きてみませんか?日時:6月25日(月)朝6時半~8時(途中参加、途中退出可)
6時30分~7時10分(一回目の坐禅)
7時20分~8時 (二回目の坐禅)場所:祥雲寺本堂一階
用意:身一つで大丈夫です。
足の組めない方は椅子での坐禅もできます。注意:初めての方は最初に指導を行います。
その為可能ならば一回目の坐禅から参加されてください。
また、祥雲寺では毎週水曜夜6時(第四水曜のみ休み)、雀宮布教所「善応院」にて坐禅会を行っています。