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令和8年6月 朝坐禅会「指月の会」案内(6月22日朝6時半より)
2026年6月21日迷うが故に三界は城 悟るが故に十方は空 洋に東西は無く 何処んぞ南北か有らん
(迷い悩む心には世界は重く堅く閉じ込める城壁の様にも映るが
放たれてみれば世界には遮り縛るものなど元から無い
本来、世界には方角も境界も定められたるものなどは無い
一体何処に、縛られ囚われるべきものがあるというのだ) 「四句の祈り」
先月は警句を紹介するお話をしましたが、簡潔な言葉に仏教の教えを表したもの、己の見解、境地を説き示したものには様々有ります。
本当に沢山有って紹介しきれない程有りますが、わけても有名なもの、記憶に残っているものを挙げるならば、私にとってはこの四句の祈り、と呼ばれる言葉が出てきます。
昔四国でお遍路を行ったとき、お遍路さんの白装束の笠に書かれていたのが最初に見た物です。
お遍路は四国を一周する88の霊場で、弘法大師空海にゆかりのある場所を巡る巡礼の道です。
所説有りますが弘法大師は四国出身とも言われ、山岳に親しんだお人柄から山がちな四国の随所に由縁の霊場が有り、お大師様に近づけるようにと昔から多くの人がこの霊場詣りをしてきました。
私は他宗の人間ですが、昔二番目の修行寺に居て足を骨折して中途半端な形で修行を終えた悔いがあったので、リハビリがてら僧侶らしいことに打ち込みたいと歩き遍路に挑戦してみたのです。
気合いを入れるため行脚姿、昔ながらの旅のお坊さんスタイルで歩き始めたのですが、徳島の一番札所から十番までの30㎞ほど歩いただけで足にマメが出来、翌日は宿で休んでしまいました。
普段から趣味で歩いていた山歩きとは事情が違い、遍路道は7割以上舗装道路を歩くもので、コンクリートの道は足への負荷が大きいのです。
針と糸と消毒液でマメの処置をして山を越えたら、今度は股ずれでももが傷んできました。
さすがにふんどしでは無かったですが時代劇の飛脚のように着物の裾を上げて歩いていたので、内ももがすれて傷んだところをテーピングテープでぐるぐる巻きにして徳島市街地に下りました。
徳島市を出て南下する辺りから車道を歩くことが多く、今度はトラックとすれ違う度強風で笠が持って行かれ、遂には笠の骨が折れてやはりテープで補強し、車の影が見える度手で押さえて耐える羽目になりました。
難儀も多かったですが有り難いこともあり、地元の人のお接待には本当に世話になりました。
田んぼの向こうを走っていた軽トラのおばちゃんが取って返してきてお布施して下さったりもして、大いに励まされたものです。
そして何処を歩いていてもうどんが美味しいのも四国ならではでした。
徳島を南下して高知に向かうと室戸岬が有ります。
右に山岳左に海しかない道を二日から三日程歩いて漸くつきます。
この岬にはみくろ洞という洞窟があり、弘法大師成道の地です。
著書の『三教指帰』に曰く
或る時一人の沙門あり、私に虚空蔵求問持法を示した。
私はこれを仏の真実の言葉と信じ、火花が散るような激しい修行に臨んだ。
山に分け入り、洞窟で一心不乱に修行に臨んだ。谷ひびきをおしまず、明星来影す。
修行を終えて洞窟を出てみれば、果ても無く空と海が広がっていて、そこから空海を名乗るようになったそうです。
四句の祈りは誰が書いたものかは伝わっていません。
ですが端的に仏教の道筋を示し表して、教えてくれています。
足摺岬の雄大な光景、澄み渡った大自然の景色は、あるがままにあることの素晴らしさを百万の言葉よりも雄弁に示してくれているようでした。
祥雲寺 安藤淳之
偏りのない、こだわりのない、囚われのない時間。
欲から離れた、我を起点としない時間。これがそのまま非思量、ほとけ心に生きられる修行です。
我を離れることの出来る閑かな時間、坐禅の時間を御一緒にいかがですか?
当分の間は6時半開始、一炷(坐禅一座)のみとなります。初めての方は15分前に来てください。来月の開催は7月27日となります。また、雀宮善応院坐禅会は第四水曜日以外毎週行っています -
2月 観音朝詣りのお知らせ
2026年2月13日2月15日はお釈迦様が涅槃に入られた日、涅槃会です。
お寺では2月になると涅槃図を掛け、毎日お釈迦様の最後の説法である遺教経を読誦して15日の涅槃会を迎えます。
涅槃とはパーリ語で、迷い、すなわち煩悩の火を吹き消したことを表わす言葉を漢字に音写したものです。
煩悩は自己中心の考え、それに基づくものごとへの執着から生まれます。
お釈迦様は最後の説法で修行者達に、これまでお説きになった戒めを一人一人が守って精進することこそが迷いから脱する道であるとされました。
そのために、修行者が自らを灯火とし、法を灯火としなさいとも説かれました。
お釈迦様が説かれた日々の行ない、心の持ちようについての教えは決して難しいものではありません。
法句経などには人間が幸せに生きる道が誰にでも分かるように説かれています。
また、教えの根底にある理論から構築される世界観は、科学的な世界観と矛盾するものではありません。
今日世界をリードする多くの思想家が、仏教が最も納得のいく教えだと評してもいます。
少なくとも倫理道徳としては、仏教徒でなくても誰にでも納得のいく教えであり、人類の叡智として尊重されるべきものと思います。
ただ、宗教としての仏教の尊さはその先にあります。
涅槃は釈迦という一人の人が煩悩の火を消して永遠の安らぎに入ったとの事実だけを指しているのではないのです。
煩悩の火を消し去り、世界を貫く真理を明らめて仏陀(覚者・悟った人)となった方が、肉体の制約も離れられて、時間、空間を超えた無限の世界にその慈悲を及ぼすことになられたことを涅槃というのです。
いかに行ないを正し勤めても迷いの渕にあり、あるいは勤めきれずに苦しむのが人間の姿です。
そんな人間にも仏の大慈悲は及び、導いてくださる
。これを無住処涅槃といいます。
これは理屈を超えた信仰です。
令和8年2月15日
宇都宮市東戸祭1-1 祥雲寺東堂 安藤明之
十八日の朝詣りは午前9時から行います。
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11月の諸行事
2025年11月7日11月の諸行事 ご興味のある方はお問い合わせ下さい。
■五百羅漢完成記念式典・稚児行列募集(無縁供養併修)12月1日10時半より
長らく祥雲寺羅漢の会で製作してきた500羅漢が本年完成となる為
12月1日無縁供養のお勤めに併せて完成記念式典を行い、稚児行列の募集を行います。
煌びやかな衣装を纏い、児孫の健やかな成長を祈願して清めの水を受ける賑々しい行列です。
申込費:6,000円 前日衣装を祥雲寺で受け取り当日朝集合、10時半境内を行列。
■西国三十三番観音霊場巡礼第三回(11月25日~27日)
西国巡礼第三回。今回は清水寺をはじめ京都洛内のお寺を巡り、兵庫の方に向けてお参りします。
■雀宮善應院坐禅会(第四水曜日のみお休み)
宇都宮南町1番36号「善應院」にて毎週水曜日(第四以外)夜6時から行っている坐禅会です。
11月5日、12日、19日
■月例坐禅会「指月の会」(11月24日)
祥雲寺本堂にて毎月第四月曜朝6時半から行っている坐禅会です。
■テラヨガ(ヨガ教室)
阿久津先生指導の下第一第三金曜日10時半から。初心者クラスは第二第四金曜日10時半から
■陶芸教室「祥陶会」
駐車場下の作陶場にて毎週火、木午後1時から行っています。
■石彫会「羅漢の会」
毎週土曜午後、駐車場作事場にて石仏の彫刻を行っています。指導は松原「金野石材店」
■茶道教室
月二回火曜日午後1時半から、裏千家平山尚子先生のご指導の下行っています。
11日、18日
■写経会
写経会は5月から11月、第二日曜日午後2時から行っています。
11月9日
■御詠歌
11月4日 御詠歌講習 東堂指導 10時~12時
11月20日 長岡公民館御詠歌講習 13時半~15時半
■フラワーアレンジメント教室
南宇都宮駅前「フラワー花亀」亀井先生指導の下第四水曜日午後1時半より行っています。
11月19日 花材代2,500円
■折り紙教室
カルチャースクール講師長谷川京子先生指導のもと第3水曜日午前10時よりより行っています。
19日
■クラフトペーパー教室
同じくカルチャースクール講師長谷川先生指導のもと第2月曜日午前10時より行っています。
10日
■観音朝詣り
境内33観音霊場を18日朝にお参りするミニ巡礼会です。開始時間は季節により前後します。
今月は午前 6 時 から 祥雲寺℡(028)622-5719
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令和七年十月 朝坐禅会「指月の会」案内(10月27日朝6時半より)
2025年10月26日独存無倚(どくそんむい)、脱落(だつらく)全(ぜん)真(しん)。
混然として万象の中に明歴歴たり、卓爾として不疑の地に活鱍鱍たり。
『永平広録』道元禅師
先日、修行仲間と勉強会仲間の晋山結制無事円成を聞き、嬉しく思っています。
晋山結制はお寺の一世一代の大行事、全身全霊で勤めるものですから、さぞ疲れたことと思います。
しっかり休んで体を労ってほしいものです。
思い返せば私も二年前の11月、祥雲寺二十九代目住職として代替わりのお披露目式、晋山結制を修行しました。
寺院の住職は就任に当たっての着任お披露目として晋山式を行うもので、これは殆どの宗派で共通しています。
曹洞宗の場合、この晋山式に結制という修行会を併せて行うのが一般的です。
結制は一山の住職として十分な力量を備えているかを証明する為本尊様を祀る須弥壇に登り、参集した僧侶の問答に答えて見せ法を説き示す、衆目に試される上堂という式を行います。
上記の文章は、我が宗祖道元禅師が上堂の際に説いた記録集から引いた一文です。
私の上堂の問答終わっての法の説示、堤綱の際に冒頭に引用しました。
仏法を会得したものは何ものにも依存せず、一切の執われを脱して完全に真実である
かれは、あらゆるものと渾然と一つでありながら、ものとははっきり別であり、しっかりと揺るぎない境地に立ちながら、生き生きと動いている
その後はこんな内容を続けました。
私、淳之は出家する覚悟も覚束ない乍ら、家業を継がねばならないというおもいのままに大本山永平寺に修行に飛び込み、12月の大修行、蝋八大摂心の大業の中で「ほとけごころ」に見えることが出来た。
仏の道を歩み修行する仏道というものは「ほとけごころ」に生きることであると納得出来た。
「ほとけごころ」とは坐禅を中心とした日常底の精進、雑念の無い生き方にあるものだと悟ることが出来た。
「ほとけごころ」とは如何なるものであるのか。
私の坐禅の師匠、福井の板橋禅師はこのように説かれた。
「偏らない心、拘りない心、囚われない心、広く広くもっとひろく、これがお釈迦様の心なり」
ほとけごころに見える、というのは私なりの表現です。
弘法大師空海も唯一度、「明星来影す」と神秘的な表現で大悟を示した事になぞらえてみました。
蝋八大摂心、1週間の坐禅修行の中で、どんな人であっても仏様の様にありがたい姿で、仏様の様な心に生きる事が出来るのだと目の当たりに知ることが出来ました。
自分というものにあまり拘らない、「私」の都合に繋縛されない禅の生き方は、ほとけごころに生きるという安心をもたらしてくれるものなのだとはっきりと理解できました。
これが、私のお坊さんとして生きる根っこです。
この法を社会に生きる人々の苦難に活かしてもらいたい、それが私のライフワークです。
祥雲寺 安藤淳之
偏りのない、こだわりのない、囚われのない時間。
欲から離れた、我を起点としない時間。これがそのまま非思量、ほとけ心に生きられる修行です。
我を離れることの出来る閑かな時間、坐禅の時間を御一緒にいかがですか?
この指月坐禅会は第四月曜日朝に毎月行っています。当分の間は6時半開始、一炷(坐禅一座)のみとなります。初めての方は15分前に来てください。来月の開催は11月24日となります。また、雀宮善応院坐禅会は第四水曜日以外毎週行っています -
令和7年7月 朝坐禅会「指月の会」案内(7月28日朝6時半より)
2025年7月27日慕古真心 不離叢林 『宮崎禅師遺偈』
今月上旬、群馬の高崎で行われた青山俊董老師講演会に行ってきました。
青山老師は尼僧として愛知尼僧堂堂長を務め、また大本山永平寺西堂という重責も担っている生粋の禅僧です。
師家として、世俗に混じることなく仏道を行じてこられた老師の透徹した説法は、日々の檀務や雑務に忙殺されている私を叱り励ましてくれるような、正に叱咤激励をいただいた様な機会でした。
老師曰く、自分には二人、師と仰いできた人が居るとのことです。
昭和の禅僧、澤木興道老師と内山興正老師のお二人で、どちらもご縁と心当たりのある方です。
今回はこのお二人を紹介したいと思います。
澤木老師は明治生まれの禅僧で、清住通りの桂林寺で坐禅会を開き、
祥雲寺の先々代である私の祖父安藤裕之も参学していた方です。
お寺の住職として定住すること無く、本来無一物を実践され、宿無し興道とも呼ばれたそうです。
配布された冊子の方で澤木老師の言葉を紹介されていました。
「仏法がこの頃は傍観者の観念の遊戯となってしまった。
立ち見席で『何年にお釈迦さんが出てこういった』と、ことづけ仏法になってしまった。
先祖がいくら偉くたって、友人がいくら偉くたって、皆よそごと。
自分はどうじゃ。先祖の講釈。仏教の効能書きをいっているのを分別という。
効能書きをいくら読んでも、病気はなおらん」
とても耳に痛い言葉です。
私自身法話を考える時、お釈迦様はこう言った道元禅師はこうされた、等と言葉を引くと同時に、お偉い存在の権威を借りて後ろ盾を得たような気持ちになるからです。
しかし仏教は哲学ではありません。
観念を深掘りするばかりでなく、無常の道理、縁起という真理に即して生きる実践を重んじます。
答えを考えるのでは無く答えに生きるのが仏道を歩む禅僧である。
怠らず励みなさいと響いてくるような、古くとも色あせることの無い箴言です。
もうお一人、内山興正老師は大正生まれの澤木老師のお弟子で、以前お話ししたドイツ人の禅僧ネルケ無方師の修行した兵庫安泰寺の住職です。
内山老師については、以前戒名を考えるにあたり証道歌の「仏性の戒珠心地に印す」というお経の言葉を調べているときに老師のお言葉に出会いました。
「『正法眼蔵随聞記』にも「坐禅は自己の正体なり」という言葉がある。自己の正体とは正気の沙汰ということです。坐禅することがそのまま仏さまになることだというのは,坐禅することでのぼせが下がって正気の沙汰になるからです。だから何度も言うように坐禅しながら考えごとをするのは駄目です。これが一番いけない。この癖をつけたらもう救われようがない。むしろ坐禅して眠るほうがまだ罪が薄いのです。坐禅というのは,うっかりすると居眠りができるほど解放されて,しかもはっきり覚めているということが大切です。この覚めて生き生きしているのが仏性で,そういうのぼせの下がった生命になることを「受戒」という。」
常日頃、坐禅に感じているところをハッキリと言葉にして頂いた様な表現です。
学びと実践、それらが深いからこそ、自らの掘り下げと経典の説く真理が違える事なく言葉となるのでしょう。
素晴らしい先達が沢山の宝の様な輝く言葉の道しるべを残してくれている。
祖父が遺したお二人の本を、今年の課題図書にしたいと思っています。
祥雲寺 安藤淳之
偏りのない、こだわりのない、囚われのない時間。
欲から離れた、我を起点としない時間。これがそのまま非思量、ほとけ心に生きられる修行です。
我を離れることの出来る閑かな時間、坐禅の時間を御一緒にいかがですか?
この指月坐禅会は第四月曜日朝に毎月行っています。当分の間は6時半開始、一炷(坐禅一座)のみとなります。初めての方は15分前に来てください。来月の開催は8月25日となります。また、雀宮善応院坐禅会は第四水曜日以外毎週行っています




