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令和6年4月 朝坐禅会「指月の会」案内(4月22日月曜朝6時半より)
2024年4月20日入鄽(にってん)垂手(すいしゅ) 「十牛図」
遂に私も骨董趣味に手を出しそうになりました。
なんでも鑑定団に出てる趣味人の「ついついと~」をもう笑えませんね。
デパートの催事に出ていた骨董屋が十牛図の茶碗を出していました。
私は
「買ったとしても何に使うのか?」
「祖父の遺品で興味の薄い掛け軸や茶碗が押し入れ一杯に山になってるのに」
「文人趣味に耽溺するのはほどほどにするべき」
と煩悶して二時間行ったり来たりしてましたが、
「話の種にすればいいじゃないか」
と自分を納得させ売り場に行ってみれば買われて無くなっていました。
良かったのやら悪かったのやら。
十牛図というのは中国の禅僧が描いた、悟りに到ろうとする10の段階を示したものです。
曹洞宗ではあまり用いられるものではなく、私は京極夏彦の『鉄鼠の檻』を読んで初めて知りました。
悟りを牛に見立て、それを男が追い求める処から始まります。
1枚目から6枚目で牛を求め、辿り、見つけ、捕まえ、ならし、連れ帰る。
ここからが中々説明の付かないものですが、
7枚目では牛を捕まえてきたことを忘れて、牛も忘れ去られる。
8枚目では円相が描かれるのみとなり、ただ円かなるばかり。
9枚目では無何有の山河が描かれ、全てはあるがままに美しい。
10枚目では布袋様の様に福々しくなった男がまろやかな笑顔で人と接している。
駒澤大学の先生は悟りによって問題が解決され問題意識そのものが無くなってしまったから牛は消え失せていると説明されていました。
相対分別から脱け落ちてみれば全てはあるがままにまどかにある。
作為も無く、有るべくして有るものは、ただそのままに素晴らしい。
私は十枚目、入鄽垂手の絵を見る度に、我が坐禅の師、板橋禅師を思い出します。
板橋禅師は出家し修行に励まれ、納得を得られた後福井の一寺院の住職になられました。
しかし一人でいては怠け心が出てしまって修行にならないと、再び修行道場に戻られたのです。
本山で指導役に任じられ、長じて禅師にまでなられましたが、
本山の住職を退いても修行を離れることは無く、福井に御誕生寺を建立されて終生若い修行僧と共に修行生活に生きられました。
ある先輩が禅師様を三毒、人を悩み惑わす煩悩、貪り怒り愚かしさから離れた人だと言っていたことがあります。
禅師様は修行に臨む姿勢、その生涯その笑顔で、私に多くのことを教えてくださいました。
茶器は他の手に渡りましたが、お示しは記憶と朝の座禅の習慣に生きています。
スナフキンのように、物を持たない方が肩は軽いとうそぶくのも時には良いものでしょう。
祥雲寺 安藤淳之
偏りのない、こだわりのない、囚われのない時間。
欲から離れた、我を起点としない時間。これがそのまま非思量、ほとけ心に生きられる修行です。
我を離れることの出来る閑かな時間、坐禅の時間を御一緒にいかがですか?
当分の間は6時半開始、一炷(坐禅一座)のみとなります。初めての方は15分前に来てください。来月の開催は5月27日となります。また、雀宮善応院坐禅会は第四水曜日以外毎週行っています -
令和6年1月 朝坐禅会「指月の会」案内(1月22日朝6時半より)
2024年1月21日いっさいの怨みを棄てよ。
今まで抱いてきたあれこれの思いをさっぱりと棄てよ。
棄てれば、必ず軽くなる。 『スッタニパータ』
先日ある方のお宅にお伺いしたとき、引きこもりになっている息子さんと少しお話をしました。
曰く、職場でいじめに近い扱いを受け、疲れてしまったのだと。
親御さんも当然心配されているので、どうにかならないかという期待の籠もった視線が感じられました。
私も東日本大震災でボランティアをしていた時等で傾聴活動の為避難所を廻ったりしていました。
お坊さんだからこその安心感をもって貰いやすいからとの要望が複数あったものです。
その時にまとめ役の方からよく言われたのが
「君たちが問題を解決しようとするものではない。
私たちがやるのはお話に真摯に耳を傾けること。
誰かに話したい、聞いて欲しい、そうした要望に丁寧に寄り添うことだ。
社会的な物は別にして、個人的ななやみや問題は結局は当人にしか解決は出来ない。
私たちに出来るのは自分で問題に向き合えるようにアシストすることなんだ」
今でも良く憶えています。
お話をご家族から聞く中で、お母さんから心に抱えてしまう物をどうやり過ごすのか、何か秘訣はないかと聞かれました。
若干悩んでしまう問いです。容易に答えられる物ではありません。
昔ある席で20年経っても怨みは無くならない、骨になって墓に入るまで消え去らない、と吐露されたこともありました。
それでも、胸に抱えた怒りや怨みは沢山の物を損なってゆきます。
抱えている限り、思いに焼かれて疲れてしまいます。
上記の言葉は、お釈迦様がスッタニパータという経典で説かれている言葉です。
お前の苦しみを、じっと見つめてみよ。
誰々にののしられた、誰々により損害を受けた、
誰々に手ひどく負かされた、誰々に盗まれた、
という思いを抱いてはいないか。
その思いがすでに怨みであると知りなさい。
怨みを抱いた人生は重いものだ、安らぎというものがなくなってしまう。
いっさいの怨みを棄てよ。
今まで抱いてきたあれこれの思いをさっぱりと棄てよ。
棄てれば、必ず軽くなる。
棄てて、かろやかに生きなさい。
どう捨てるのか、捨てる手法として、個人的には趣味の山歩きかサイクリングがありますが、お坊さんとしてお勧めするのはやはり坐禅です。
坐禅は、身を正し呼吸を正す、それだけに集中し没入していると、波風経っていた自分がいつしか正されて静かになっていきます。何もしない何も考えないことに没頭するのです。
私は坐禅は様々抱えてしまう物から自由になるものだと思っています。
今回の事はどうなるか解りませんが、機会が合えば、一緒に坐りませんかとお誘いしたいです。
祥雲寺 安藤淳之
偏りのない、こだわりのない、囚われのない時間。
欲から離れた、我を起点としない時間。これがそのまま非思量、ほとけ心に生きられる修行です。
我を離れることの出来る閑かな時間、坐禅の時間を御一緒にいかがですか?
当分の間は6時半開始、一炷(坐禅一座)のみとなります。初めての方は15分前に来てください。来月の開催は2月26日となります。また、雀宮善応院坐禅会は第四水曜日以外毎週行っています -
令和5年12月 朝坐禅会「指月の会」のご案内(12月25日朝6時半より)
2023年12月24日諸法無我
「四法印」
11月の晋山結制が終わりましたが、檀務や雑事が多く未だに後片付けが終わりません。
何とか年内には綺麗に片付けて、平常に戻したいものです。
せわしなくしていたら、いよいよ今年最後の坐禅会になりました。
お坊さんとしての節目を越え、年の瀬を迎える機会ですので、私なりの仏道というか僧侶としてのまとめの話をしてみたいと思います。
私は祥雲寺に生まれ育ちましたが、お寺のことには殆ど携わらずに育ちました。
般若心経くらいは読めましたが、正座は大嫌いで、周囲からなんとはなしに向けられる跡継ぎのプレッシャーには見て見ぬふりをして、そのくせ入った宗立の駒澤大学で体験した坐禅は退屈極まりないものでした。
それでも卒業の年となり、駒沢公園で沈む夕日を眺めながら、期待に応えないわけにはいかないからと僧侶になることを決めました。
そんな程度の覚悟しか無かったので、永平寺での修行は最初ひたすら辛かったです。
仲間の助けが無かったら多分挫折していたでしょう。
大学四年間、勉強より没頭した少林寺拳法で培った体力で何とかこなし、半年を乗り切りました。
そうして12月になり、お釈迦様が悟りを開かれた成道会に行われる蝋八大摂心(1週間の坐禅行)で、私は仏心に見えました。
坐禅というのは、形ばかりの物では無く、私たちがどうしても抱え囚われてしまう悩み苦しみを解きうるものなのだと知ることが出来ました。
達磨大師の言われる、私たちの心こそがほとけなのだと見ることが出来ました。
やり過ごそうとするばかりだった私には、この時から本当の意味での修行が始まったのです。
上記の四法印とは、仏教思想の根幹となる四つの教えで、その中の一つが諸法無我です。
「私」なんてものは無い、ということです。
永平寺での修行は集団生活で、だからこそ多人数で寝食を共にすることからくるストレスがあります。
しかし集団生活で自分を優先しようとする我を張ることこそが、苦しみの原因であると解るのも修行のありがたさでありました。
自分で自分にしがみついて、その故に辛い苦しい重たいと喚いていた自分がそこには居たのです。
それを見つけ、解り、我を離れていくことこそが修行だったのです。
私は仏道というのは、ほとけごころに安住する事が出来る人生の歩み方だと思っています。
それは刑事ドラマや時代劇であるような情け深さなどではなく、
欲や自意識と言った重い物を離れ、拘り囚われから解き放たれて、軽やかで縛られない心で生きる事です。
我が坐禅の師、福井御誕生寺の板橋禅師はそれをこんな言葉で表現していました。
かたよらない心
こだわらない心
とらわれない心
広く広くもっと広く
これがお釈迦様の心なり
これが仏教を信じる、行ずる喜びで、だから私は多くの人に仏教を、坐禅をこれからも勧めていきたいと思っています。
祥雲寺 安藤淳之
偏りのない、こだわりのない、囚われのない時間。
欲から離れた、我を起点としない時間。これがそのまま非思量、ほとけ心に生きられる修行です。
我を離れることの出来る閑かな時間、坐禅の時間を御一緒にいかがですか?
当分の間は6時半開始、一炷(坐禅一座)のみとなります。初めての方は15分前に来てください。来月の開催は1月22日となります。また、雀宮善応院坐禅会は第四水曜日以外毎週行っています -
令和5年10月 朝坐禅会「指月の会」案内(10月23日朝六時半より)
2023年10月22日放四大莫把捉 (四大を放って把捉することなかれ)
寂滅性中隨飮啄 (寂滅性中隨って飮啄せよ)
諸行無常一切空 (諸行は無常にして一切空なり)
卽是如来大圓覺 (即ちこれ如来の大圓覺)
『証道歌』
11月晋山結制まで一月を切りました。
いよいよ準備も大詰め、スケジュールが始終埋まっててんてこ舞いです。
十月の頭に筆の達者な方にお願いをして、本堂前に角塔婆を立てました。
大行事につきものの証のような物で、いよいよ感が出てきました。
書き付ける文言は正面にやる行事の趣旨、裏面に日付と建立者名の記入。
左右の面はそれぞれ経典や祖録からの引用を書き付けます。
上記の文は証道歌という祖録から引きました。
証道歌というのは中国仏教の祖師が書かれた、禅の境地を詩として歌い上げた文言で構成されています。
其の中で、私の思うところにしっくりくる箇所を今回用いたわけです。
少しわかりやすく崩して読むならば
起こる物事の理由理屈を突き詰めすぎようとするべきではない。
全てはあるがままにありなるようになっていくのだから流れに従ってあるべくしてあれ。
そもそも万物万象は移り変わってゆきそこに意味など無い。
だからこそ、そんなものに拘り心囚われる必要など何処にも無い、というのが釈尊の悟りなのだ。
私は
永平寺での修行坐禅で、自分に拘りすぎる必要は無いんだ、ということを知りました。
總持寺での参禅弁道で、お坊さんらしくあることが拘りの無い最適のあり方だと教わりました。
御誕生寺での参学問法で、それを続けていくことの大切さを禅師様に身を以て示して頂きました。
私なりの足跡、仏道を歩む発端というか、動機となるところに合致する表現であり、また三十三回忌の法事の時にいつも読んでいて馴染みがあることから用いました。
願わくは過去の祖師方に同じく、佛意を損なわずに話すことが出来ますように。
祥雲寺 安藤淳之
偏りのない、こだわりのない、囚われのない時間。
欲から離れた、我を起点としない時間。これがそのまま非思量、ほとけ心に生きられる修行です。
我を離れることの出来る閑かな時間、坐禅の時間を御一緒にいかがですか?
当分の間は6時半開始、一炷(坐禅一座)のみとなります。初めての方は15分前に来てください。来月の開催は11月27日となります。また、雀宮善応院坐禅会は第四水曜日以外毎週行っています -
令和5年9月 朝坐禅会「指月の会」案内(9月25日朝6時半より)
2023年9月24日ただわが身をも心をも、はなちわすれて、仏のいへになげいれて、仏のかたよりおこなわれて、これにしたがひもてゆくときちからをもいれず、こころをもつひやさずして、生死をはなれ仏となる。たれの人か、こころにとどこほるべき。
『正法眼蔵』生死の巻
しばらく前にネットの記事で、定年した後にお坊さんを選ぶ人達がいる、というものを読みました。
曰く、仕事に邁進して仕事以外の人間関係が疎かな日本人男性は定年後の長い余生をもてあます。
多様な選択肢の中に第二の人生として僧侶を選べる道が近年整備されている。
老いの中で無常を感じることは機縁が整うことでもあるが、金儲けのため知識欲のため老人ホームがわりを求めて等様々な理由があり、俗っ気が抜けないままで修行に臨んでも上手くはいかない。
ある住職が言うには、生半可な覚悟では自己を捨てられず、修行の邪魔になることが多い、
との事。
コメント欄で、自分には自己は捨てられない、との投稿がありましたが、ここが肝の所なのでもう少し掘り下げてみます。
自己を捨てる、だと仕事でまま求められたりカルト宗教のイメージで浮かぶような、他人のいいなりになってロボットのように動くことを強要されるといったことを想像する方も多いかと思います。
私としては、ここは伝統的な我を捨てる、という表現の方が受け取りやすいように思います。
我を捨てる、というのは自己の意思決定を放棄して外の情報を丸呑みするといった意味ではありません。
俺が私が、なんで自分ばっかりといった我見を離れようとするもので、自己中心の世界観の呪縛からの脱却とも言い換えられます。
自己愛自己保存自己優先自己顕示と欲は密接に結びついていて、重たく煩わされるもの、いわゆる煩悩です。
それを小さく少なくしていくのが修行であり、欲に振り回されない自分を育てていくことなのです。
上記は我が宗祖道元禅師の有名な言葉です。
少し崩して現代語訳します。
自分の身と心を手放して、仏の家の中に投げ入れる(伝わってきたとおりの教えや修行に倣う)。
そうすれば、仏の方から全てが行われていく。
自分は仏のはたらきに従うのみである。ただ従うだけで、自分で力むこともなく、あれやこれやと悩むこともなく、生死の惑いから自由になる。そういう生き方をしている人こそ、仏だ。だというのにどうして『自分』に執着し続けるというのか!?
第二の人生としてせっかくの仏縁を得た方達には是非とも踏ん張って欲しいと願います。
まずは倣うこと。
仏の生き方を学び真似び、倣うことが欲や自意識といった重たく煩わしいものから離れる道であると感じることが、きっと長く続ける意欲となるはずです。
願わくはこの機会を持って多くの人が仏道を成ずることができますように。
祥雲寺 安藤淳之
偏りのない、こだわりのない、囚われのない時間。
欲から離れた、我を起点としない時間。これがそのまま非思量、ほとけ心に生きられる修行です。
我を離れることの出来る閑かな時間、坐禅の時間を御一緒にいかがですか?
当分の間は6時半開始、一炷(坐禅一座)のみとなります。初めての方は15分前に来てください。来月の開催は10月23日となります。また、雀宮善応院坐禅会は第四水曜日以外毎週行っています