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令和元年8月 朝坐禅会「指月の会」案内
2019年8月25日私が昔から作ってきた色々な悪い業は、
遠い過去から積み上げてきた、貪瞋癡すなわち三毒によるものです。
それは、体で行った・話した・思ったという三業から生まれたのです。
私は今、それら全てを懺悔します。
懺悔文(華厳経より)
皆さんはお盆をいかがお過ごしでしたでしょうか。
お寺は年で一番の忙しい時期となり、私も例にもれず慌ただしい日となりました。
迎え盆というと日暮れなのですが、今は暑くない朝のうちに来られる方もいるので朝5時には玄関を開けて来客の備えをして、最初に鉢を鳴らしてお経をお唱えしながら境内のお墓を巡る「墓おこし」と呼んでいる行事をして、お盆で戻ってこられたご先祖方を迎えます。
祥雲寺墓地は斜面にあるため上り下りして一時間半ほど行って、それが終わるとそろそろ駐車場が混雑してくるので駐車整理に回ります。
今年は大変暑い日となり、十時ごろには坂下で倒れた方がいたので救急車を呼ぶ騒ぎにまでなりました。
十一時ごろ、暑さも駐車場の混雑もピークを迎え、救急車騒ぎで駆けずり回ったため体力の余裕もなくなり、道をふさいで客を待とうとするタクシーについつい強い口調で当たってしまいました。
すると一緒に駐車整理をしていた人が、自分の誘導を叱られたと受け取って大変怒ってしまい、「副住職のあんな顔見たこと無いよ」と言われてしまいました。
これは大いに反省しなくてはならないことでした。
上記の懺悔文とは古くから宗派を問わず唱えられている、悪いことをしてしまう心のはたらきを表した文章です。
「私が行ってしまう悪い行いは、わき上がるむさぼり、いかり、おろかしさによるものです。身と口と心から、この三つの毒は生まれるのです。これを理解し反省します」
私は僧侶です。悟りという心の平穏を体現したお釈迦様に憧れ、その生き方を現在に模倣し人々に広めることを使命とするものです。
それでありながら私は
・もう体調的に無理なのにまだ出来るという見栄虚勢を押し通した「むさぼり」
・相手の職責を思いやらず自分の都合を押し通さんとした「いかり」
・無常(おもいどおりにばかりはならない)が故に都度真摯に向き合わねばならない道理を忘れた「おろかしさ」
この故に不和を招き、折角寺に来た人に悪い思いをさせてしまったことは、正に不徳の致すところというより他ありません。
出来ることと出来ないことをきちんと見定め、準備を周到にしてこの年に一度のお盆を良い仏縁の日と出来なくては、この身の甲斐がないというものです。
むしろそれを気付かせてくれたあの運転手を、それこそ導きの観音様と受け取り、そうしてこそ悪縁を善縁へと変えていくことが出来るのでしょう。
私にとってこのお盆は、忙しくも心に期すべき時でありました。
祥雲寺副住職 安藤淳之
一人で修行を行おうとすると、怠けてしまったり後回しにしてしまい続かない場合もあります。ですがみんなで行えば、難しいことでも楽しく行えるはずです。この朝坐禅会はそのような場となるよう始めました。一日の始まりを迎えるこのひと時、ご一緒に「かろやかに」生きてみませんか?日時:8月26日(月)朝6時半~8時(途中参加、途中退出可)
6時30分~7時10分(一回目の坐禅)
7時20分~8時 (二回目の坐禅)
場所:祥雲寺本堂一階
用意:身一つで大丈夫です。
足の組めない方は椅子での坐禅もできます。
注意:初めての方は最初に指導を行います。
その為可能ならば一回目の坐禅から参加されてください。
また、祥雲寺では毎週水曜夜6時(第四水曜のみ休み)、雀宮布教所「善応院」にて坐禅会を行っています
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令和元年7月 朝坐禅会「指月の会」案内
2019年7月21日自証自悟(『正法眼蔵』自証三昧より)
去年から、県内の有志による正法眼蔵の勉強会を定期的に行っています。
福井県永平寺を開かれた曹洞宗の高祖道元禅師は、その思想の集大成として大著『正法眼蔵』を遺されました。
曹洞宗の人間として読み込まねばならない所ですが、難解なところが多く、中々手が伸びていかない。だからこそみんなで集まって読もう、ということで自主学習会となりました。
独りでは大変でもみんなでやるならばどうにかなるし、むしろ面白くもなる。
僧宝の功徳、僧団のありがたさ、ここに現成せりしかな。
さて、上記の言葉は眼蔵八十八巻の内の『自証三昧』に用いられる言葉です。
ある老師は、眼蔵を一つ勉強するならばこの章をこそ読みなさいと説かれていて、漸く手をつけることが出来ました。
この道を行く者は伝統的には自らを証し自ら悟るべきもの(自証自悟)ではあるが、それは独りよがりの思い込みであってはならず、伝えられてきた経典や先達となる師の薫陶あって初めて身につくものである。
そして教えを受けたならば、それを実践し人に説くことをためらうべきではない。
「他人の為に説くということは、自己のために説くことに他ならない」
他人に説くことで自らも反芻し、それがいつしか自らのものともなりえるだろう。
だからこそ、半可通の身であるともためらわず歩み出すことで、道は深まり、そしてそれこそが自分と他者が共に道を成すことへとつながろう。
このように自他共に体得する、それこそが仏祖の大道である。
(意訳による大意)
私が本山での修行を終えて、雀宮善応院で坐禅会を始めて、もう十五年程になります。
修行道場でやってきたことではあれど、人に説明する練習などまったくしていない身でどうしたものかと頭を抱えながらなんとか微力を尽くしてきました。
おかげなのか近年は、この道の妙味や難しかった正法眼蔵の味わいが一層感じられるようになった気がします。
願わくは、我らと衆生と皆共に仏道を成ずることができますように。
祥雲寺副住職 安藤淳之
一人で修行を行おうとすると、怠けてしまったり後回しにしてしまい続かない場合もあります。ですがみんなで行えば、難しいことでも楽しく行えるはずです。この朝坐禅会はそのような場となるよう始めました。一日の始まりを迎えるこのひと時、ご一緒に「かろやかに」生きてみませんか?日時:7月22日(月)朝6時半~8時(途中参加、途中退出可)
6時30分~7時10分(一回目の坐禅)
7時20分~8時 (二回目の坐禅)
場所:祥雲寺本堂一階
用意:身一つで大丈夫です。
足の組めない方は椅子での坐禅もできます。
注意:初めての方は最初に指導を行います。
その為可能ならば一回目の坐禅から参加されてください。
また、祥雲寺では毎週水曜夜6時(第四水曜のみ休み)、雀宮布教所「善応院」にて坐禅会を行っています
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令和元年6月 朝坐禅会「指月の会」案内
2019年6月16日袈裟の功徳私たち僧侶は、仏教徒の伝統的な装束として「袈裟」をまといます。お釈迦様のインドより続く、出家者の正装です。曹洞宗の高祖道元禅師は、どんな人であっても袈裟をまとったならばその功徳によって無常の菩提を成就することができるとまで説かれました。以前ご近所の先輩僧侶が「私たちは袈裟の功徳によって僧侶として有ることが出来る」という話をされました。曰く、僧侶として修行を終えて寺に戻っても、独りで居るならばどうしても怠け心が出てきて自分に甘くなってしまう。でも、僧侶の格好をして人前に出るならば、と考えたときに、「らしくあらねばいかんなぁ」という気持ちが後押ししてくれて、怠け心に負けず自然に僧侶として振る舞うことが出来るようになる。そして僧侶としての振る舞いで人に接することで、応援までしてくれる人も現れる。僧形であればこそ、この清浄の生活が自ずとできる。これこそがお釈迦様の加護「袈裟の功徳」にほかならない。仏教とは、心をどうやって安らかなものとするかを問う宗教です。行いを整え、習慣を正すことによって内面を、つまり心を整えていく、それが修行です。そうして整えられた心の有り様こそ「ほとけごころ」であり、ほとけさまそのものなのです。最後に、「僧侶らしい」あり方を書いた古いお経を引用します。「幸せに至る道幸せになる道とは身をつつしむこと。言葉をつつしむこと。心をつつしむこと。つつしむことは自分を縛ることではない。むしろ、このうえなく安楽にする。そして、つつしみによって得られるのは苦しみからの脱却と幸福である。」『ウダーナヴァルガ』第七祥雲寺副住職 安藤淳之一人で修行を行おうとすると、怠けてしまったり後回しにしてしまい続かない場合もあります。ですがみんなで行えば、難しいことでも楽しく行えるはずです。この朝坐禅会はそのような場となるよう始めました。一日の始まりを迎えるこのひと時、ご一緒に「かろやかに」生きてみませんか?日時:6月17日(月)朝6時半~8時(途中参加、途中退出可)6時30分~7時10分(一回目の坐禅)
7時20分~8時 (二回目の坐禅)
場所:祥雲寺本堂一階
用意:身一つで大丈夫です。
足の組めない方は椅子での坐禅もできます。
注意:初めての方は最初に指導を行います。
その為可能ならば一回目の坐禅から参加されてください。
また、祥雲寺では毎週水曜夜6時(第四水曜のみ休み)、雀宮布教所「善応院」にて坐禅会を行っています
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令和元年5月 朝坐禅会「指月の会」案内
2019年5月22日直指人心 見性成仏先日研修会で、中国禅宗の思想少史として駒澤大学の小川先生の講義をお聞きしました。上記の文言は禅宗が中国に入った唐の時代、禅宗思想を端的に表す言葉として出てきたものです。禅宗の初祖達磨大師はなぜインドから中国に渡ったのか。それは各々の心を指さし、その心こそ仏なのだと自覚させる為である(直指人心見性成仏)先日にも書いたことですが、私は坐禅こそが即ち生き仏であると永平寺で知ることができました。私の僧侶としての確信に、改めて傍証を得た思いです。多くの方に「ほとけごころ」を感じてもらえるよう、またこの度も励んで臨みたいです。祥雲寺副住職 安藤淳之一人で修行を行おうとすると、怠けてしまったり後回しにしてしまい続かない場合もあります。ですがみんなで行えば、難しいことでも楽しく行えるはずです。この朝坐禅会はそのような場となるよう始めました。一日の始まりを迎えるこのひと時、ご一緒に「かろやかに」生きてみませんか?日時:5月27日(月)朝6時半~8時(途中参加、途中退出可)
6時30分~7時10分(一回目の坐禅)
7時20分~8時 (二回目の坐禅)今回は出張の為一回目のみとなります。
場所:祥雲寺本堂一階
用意:身一つで大丈夫です。
足の組めない方は椅子での坐禅もできます。
注意:初めての方は最初に指導を行います。
その為可能ならば一回目の坐禅から参加されてください。
また、祥雲寺では毎週水曜夜6時(第四水曜のみ休み)、雀宮布教所「善応院」にて坐禅会を行っています
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31年4月 朝坐禅会「指月の会」案内
2019年4月20日『捨てれば必ず軽くなる 捨てて、軽やかに生きなさい。』-スッタ二パータ
この朝坐禅会を初めてちょうど四周年となりました。
何人もの方に来ていただいて共に修行の時間が過ごせることを、
大変ありがたく感じます。
初心を振り返る意味で、最初の文を再掲します。
先日NHKの番組で、ぼんやり術の特集、というものがありました。静かなところで何も行わず、ただぼんやりとすることで、頭がすっきりして血圧が下がる等の効果があり学校教育にも取り入れられている、という内容でした。
お寺では、昔からこれに類することを行ってきました。坐禅です。
昔から禅寺では、朝に暁天坐禅という坐禅の時間を設け、心身を整えて一日の修行に向かってきました。
心を落ち着け体の調子を整え思考をクリアにしてくれる坐禅は、「安楽の法門」ともよばれています。
時間に追われる忙しい現代においてこそ、何にも取り組まず頭をからっぽにして「軽やかになる」時間を持つことは、とても必要なことだと思います。
一人で修行を行おうとすると、怠けてしまったり後回しにしてしまい続かない場合もあります。
ですがみんなで行えば、難しいことでも楽しく行えるはずです。
この朝坐禅会はそのような場となるよう始めました。
一日の始まりを迎えるこのひと時、ご一緒に「かろやかに」生きてみませんか?
日時:4月22日(月)朝6時半~8時(途中参加、途中退出可)
6時30分~7時10分(一回目の坐禅)
7時20分~8時(二回目の坐禅)
場所:祥雲寺本堂一階
用意:身一つで大丈夫です。
足の組めない方は椅子での坐禅もできます。
また、祥雲寺では毎週水曜夜6時(第四水曜のみ休み)、雀宮布教所「善応院」にて坐禅会を行っています。