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令和5年12月 朝坐禅会「指月の会」のご案内(12月25日朝6時半より)
2023年12月24日諸法無我
「四法印」
11月の晋山結制が終わりましたが、檀務や雑事が多く未だに後片付けが終わりません。
何とか年内には綺麗に片付けて、平常に戻したいものです。
せわしなくしていたら、いよいよ今年最後の坐禅会になりました。
お坊さんとしての節目を越え、年の瀬を迎える機会ですので、私なりの仏道というか僧侶としてのまとめの話をしてみたいと思います。
私は祥雲寺に生まれ育ちましたが、お寺のことには殆ど携わらずに育ちました。
般若心経くらいは読めましたが、正座は大嫌いで、周囲からなんとはなしに向けられる跡継ぎのプレッシャーには見て見ぬふりをして、そのくせ入った宗立の駒澤大学で体験した坐禅は退屈極まりないものでした。
それでも卒業の年となり、駒沢公園で沈む夕日を眺めながら、期待に応えないわけにはいかないからと僧侶になることを決めました。
そんな程度の覚悟しか無かったので、永平寺での修行は最初ひたすら辛かったです。
仲間の助けが無かったら多分挫折していたでしょう。
大学四年間、勉強より没頭した少林寺拳法で培った体力で何とかこなし、半年を乗り切りました。
そうして12月になり、お釈迦様が悟りを開かれた成道会に行われる蝋八大摂心(1週間の坐禅行)で、私は仏心に見えました。
坐禅というのは、形ばかりの物では無く、私たちがどうしても抱え囚われてしまう悩み苦しみを解きうるものなのだと知ることが出来ました。
達磨大師の言われる、私たちの心こそがほとけなのだと見ることが出来ました。
やり過ごそうとするばかりだった私には、この時から本当の意味での修行が始まったのです。
上記の四法印とは、仏教思想の根幹となる四つの教えで、その中の一つが諸法無我です。
「私」なんてものは無い、ということです。
永平寺での修行は集団生活で、だからこそ多人数で寝食を共にすることからくるストレスがあります。
しかし集団生活で自分を優先しようとする我を張ることこそが、苦しみの原因であると解るのも修行のありがたさでありました。
自分で自分にしがみついて、その故に辛い苦しい重たいと喚いていた自分がそこには居たのです。
それを見つけ、解り、我を離れていくことこそが修行だったのです。
私は仏道というのは、ほとけごころに安住する事が出来る人生の歩み方だと思っています。
それは刑事ドラマや時代劇であるような情け深さなどではなく、
欲や自意識と言った重い物を離れ、拘り囚われから解き放たれて、軽やかで縛られない心で生きる事です。
我が坐禅の師、福井御誕生寺の板橋禅師はそれをこんな言葉で表現していました。
かたよらない心
こだわらない心
とらわれない心
広く広くもっと広く
これがお釈迦様の心なり
これが仏教を信じる、行ずる喜びで、だから私は多くの人に仏教を、坐禅をこれからも勧めていきたいと思っています。
祥雲寺 安藤淳之
偏りのない、こだわりのない、囚われのない時間。
欲から離れた、我を起点としない時間。これがそのまま非思量、ほとけ心に生きられる修行です。
我を離れることの出来る閑かな時間、坐禅の時間を御一緒にいかがですか?
当分の間は6時半開始、一炷(坐禅一座)のみとなります。初めての方は15分前に来てください。来月の開催は1月22日となります。また、雀宮善応院坐禅会は第四水曜日以外毎週行っています