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30年12月 朝坐禅会「指月の会」案内
2018年12月16日この法は人人の分上にゆたかにそなわれりといへども、いまだ修せざるにはあらわれず、証せざるにはうることなし正法眼蔵弁道話「ほとけさま」に手を合わせましょう。法事の際など、お寺で良く聞く言葉です。ここで言うほとけさま、とは如何なる存在であるのか、何故尊いのか合掌礼拝するのか。そんな疑問を持ったことはないでしょうか?私には一つの確信があります。私は、生きて呼吸をし、血肉を備えた生身の仏様にお会いしたことがあるのです。かつて修業時代、福井県の大本山永平寺で摂心という修行に臨んでいる中で、坐禅をしながらの給仕のために坐禅堂を見渡してみれば、そこには数十人を超える生きた「ほとけさま」が座っていられました。それは共に修行に励んでいた同輩や先達、同じく迷い悩みながら精進していた俗人であった私たちが、思わず手を合わせ拝みたくなる「ほとけさま」達として無言の内に世の片隅を照らしていたのです。故宮崎禅師様は「坐禅をすれば良き人となる」と言われていましたがそれは事実です。間違いのないことです。「ほとけさま」とは、私たちの心のはたらきの中に時として立ち現れ出でる尊い「ほとけごころ」の表れなのです。お坊さんとは仏教徒とは、「ほとけごころ」に生きることを目指す人たちなのです。では「ほとけごころ」とは如何様にすれば現れるものなのでしょうか。坐禅の境地で日々に臨むことができればこの上ないのでしょうが、曹洞宗の高祖道元禅師は著書『正法眼蔵』生死の巻でこう説かれています。「思うに、仏となるには、ごくたやすい道がある。それは、もろもろの悪事をなさぬこと、生死に執着する心のないこと、そして、ただ、生きとし生けるものに対してあわれみを深くし、上をうやまい、下をあわれみ、なにごとを厭う心もなく、またねがう心もなく、つまり、心に思うこともなく、また憂うることもなくなった時、それを仏と名づけるのである。そして、そのほかに仏をもとめてはならない。」(増谷文雄訳)生き方を調えることで惑い迷う自己を少しずつ変えていく、その中で心が「ほとけごころ」へと向かっていく、つまり訓練で培っていくものなのです。あの日に見た尊い在りよう生き様。それを忘れぬようこれからもこの仏道を歩んでいきたいです。祥雲寺副住職 安藤淳之一人で修行を行おうとすると、怠けてしまったり後回しにしてしまい続かない場合もあります。ですがみんなで行えば、難しいことでも楽しく行えるはずです。この朝坐禅会はそのような場となるよう始めました。一日の始まりを迎えるこのひと時、ご一緒に「かろやかに」生きてみませんか?日時:12月17日(月)朝6時半~8時(途中参加、途中退出可)12月のみ第三週開催
6時30分~7時10分(一回目の坐禅)
7時20分~8時 (二回目の坐禅)
場所:祥雲寺本堂一階
用意:身一つで大丈夫です。
足の組めない方は椅子での坐禅もできます。
注意:初めての方は最初に指導を行います。
その為可能ならば一回目の坐禅から参加されてください。
また、祥雲寺では毎週水曜夜6時(第四水曜のみ休み)、雀宮布教所「善応院」にて坐禅会を行っています