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令和7年12月朝坐禅会「指月の会」案内(12月22日朝6時半より)
2025年12月21日「仏道をならふといふは、自己をならふなり。自己をならふといふは、自己をわするるなり。自己をわするるといふは、万法に証せらるるなり。万法に証せらるるといふは、自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり。」
『正法眼蔵』 「現成公案」巻
今年も年末が近づいてきて、寒さも深まって感じられる所です。
しかし境内掃除で入り口の梅林の木を仰いでみれば、紅梅のつぼみが少しずつ膨らんできていて、寒い中でも春を迎える準備は進んでいるようです。
正月を迎春と呼称するのは旧暦の正月が二月であった事の名残りの様ですが、春を待ち遠しく思う身には気持ちばかりでも春を先取りして呼び込もうとする賑々しい言葉遣いに感じられます。
寒さ深まる年末ですが悪いばかりでもなく、大掃除や整理整頓が済んでくればお寺の用事も段々少なくもなってきて、時間が作りやすくなる時期でもあります。
夏以来評判になって長らく気に掛かっていた映画「国宝」を漸く見に行くことが出来ました。
大変に、良かったです。
6月以来のロングラン放映で朝一上映だから空いてるかと思いきや結構人が入っていて、客層見てると若い人やカップルもいて、これだけ評価高いと全年齢的になるようです。
余談ながら見てきた話をマダム層の多いヨガ教室でしたら皆さん一気に涌いて、私は二回見てきた私は三回よ、とリピーターが多いというのも納得できる反応でした。
「国宝」の筋立ては大まかに言うなら、昭和中期の極道の跡取りが見込まれて歌舞伎の名門に弟子入りし、そこの御曹司と切磋琢磨しながら役者として成長し、もがき苦しみながら芸道の高みへと上り詰める波瀾万丈のストーリーです。
徹頭徹尾美とは何か、「きれい」を追究し続ける軸が通っているのが見やすさの秘訣なのでしょう。
「国宝」の良かった所語りたい所は沢山あるのですが、私に強く刺さったのは先駆者として出てくる人間国宝万菊師匠の台詞です。
出奔した主人公の相方であった御曹司が戻ってきて、万菊師匠が指導しているときの言葉。
「あなた歌舞伎が憎くて憎くてしょうがないんでしょ。でもそれでいいの。それでもやるの。それでも毎日舞台に立つのがあたしたち役者なんでしょうよ」
技芸の道に錬磨した先達の目の確かさ、柔らかな肯定と飲み込めと促す発破がけ、実践してきた人間だろうからの説得力。
語りたいことの多い部分ですが、これは多くの研鑽を要する「道」に共通するものだと思うのです。
綺麗事で語れるのは初等の頃ばかりで、深まるほどに軋轢としがらみは増し、純粋純一でなくなり窮屈に重苦しくなって、いつしか最初の輝きを見失っていく。
それでも歩む、その先にあるものを信じて。
それが道、ってものなのでしょう。
上記の言葉は我が宗門の祖、道元禅師の遺された言葉でおそらく最も有名なものでしょう。
ふつつか乍ら私なりに意訳するならば
仏教を学び実践するということは自己の存在を定義することでもある。
だが仏道を歩む中でいつしか我(自分中心に物事を見て思考する世界観)は薄く小さくなっていく。
我を起点としなければ縁起の道理、お陰様に私は生きて生かされている「事実」に「証せられる」
自他の関係性の中で構築され定義される身と心から脱げ落ちていくのである。
仏道も又長い道のりを歩み、生涯をかけて取り組むものです。
多くの立派な先達のお姿を信じ、国宝主人公の激しさには及ばず乍らもこの道を歩いて行きます。
祥雲寺 安藤淳之
偏りのない、こだわりのない、囚われのない時間。
欲から離れた、我を起点としない時間。これがそのまま非思量、ほとけ心に生きられる修行です。
我を離れることの出来る閑かな時間、坐禅の時間を御一緒にいかがですか?
この指月坐禅会は第四月曜日朝に毎月行っています。当分の間は6時半開始、一炷(坐禅一座)のみとなります。初めての方は15分前に来てください。来月の開催は1月26日となります。また、雀宮善応院坐禅会は第四水曜日以外毎週行っています。


