2021年8月18日

ミソハギの花。お盆の供養花として知られていますが、今年は咲くのが早かったです。
お釈迦様の涅槃を伝えるのが涅槃経です。
最後の旅に出られたお釈迦様が、付き従ったアーナンダに
「(私の入滅の後は)法を灯とし、自らを灯として生きよ」と諭(さと)されたことは「法灯明、自灯明」と言われて伝えられました。
この言葉は仏教の本質を表した重要なものです。
お釈迦様は紀元前5世紀から4世紀にかけて北インドにおわした方です。その方を仏教徒は、悟られた方、仏陀と信じ、その教えを、悟りの世界からの導き、「法(ダルマ)」として頂いているのです。
これが法灯明です。
法はどのような時代にも、環境にも、変わらない普遍的な真理です。
しかしこの法を全ての人が間違いなく知ることができるのでしょうか。
教えを受け取る側の問題があります。
どのような人間も、時代・環境に制約されています。
生まれも違う。言葉も違う。
物事を考える筋道も違う。
いかに普遍的な教えでも、それが説かれる時代、環境に沿うものでなければ人の心に届きません。
お釈迦様が言葉にされた教えも、それが人々を救おうとして発せられたものである以上、時代、環境の制約を受けているのです。
お釈迦様はこれについて
「私の教え(法)があなたたちを縛るものであるなら、我が法を捨てよ」とおっしゃられました(筏イカダのたとえ)。
自らの教えを相対化することであり、一般的な宗教ではあり得ない言葉です。
法が捨てられたらどうなるか。
信者、修行者が自ら道を求めるしかありません。
時代も環境も言葉も違っているのですから、それに適って腑に落ちていく仏さまの教えを創造していくしかありません。
これが自らを灯とする自灯明です。
大本がなければ迷いの道に入ってしまいますから、常に法に問いかけ、照らし合わせて、仏道に精進するのが仏教徒のあり方です。
私は法灯明は信仰を、自灯明は修行を示すと思っています。
令和3年8月15日
宇都宮市東戸祭1-1 祥雲寺住職 安藤明之