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令和4年1月 朝坐禅会「指月の会」案内
2022年1月23日上記の道歌を書かれたのは有名な一休さんです。正しい名前は一休宗純和尚。とんちの一休さんとして知られた方ですが、高貴の出身で大寺院で修行に専心し、後にこれまでの経歴を放棄して道を模索し、遂には大悟徹底され風狂禅ともいわれる独自の道を確立して多くの人に親しまれ又尊敬された方です。上記の道歌は一休さんらしい、諧謔味のある言葉です。お釈迦様が世に生まれ心の平穏と悟りという境地を説かれた。だからこそ後の世の人でもそれを目指すことができるが、目指すが故にこそ迷う人も現れる。時にそれを高邁なる売り物として人を自分を騙すことすらも起こりうる。当時一休禅師が厳しく批判した、仏教の権威や形骸化・伝統化を戒められた簡潔に伝わりやすい表現の一つとして、私も自分への警句として折々思い出しています。こうした禅僧の固定観念の打破、権威の否定を記した言葉は決して珍しいものではありません。道元禅師のお師匠、如浄禅師もまた住職就任時仏殿で述べられた法語で、金色の姿は尊いがご高説はまっぴらです、と本尊に向かって物申す姿勢が残されています。何が悟りであるのか。本当に安心解脱を求めるならば、正しい道を歩む癖を身に着け、同時にその正しさに囚われない姿勢を持つ必要がある。多くの仏祖先達の伝える言葉は、そのように自らを戒める言葉であるのだと私は思います。そのようにして目指すところはどこであるのか。その一例、表現となるでしょうか、私の坐禅の師匠、板橋禅師の御誕生寺では参拝者へのご祈祷の最後はこの言葉で結んでいます。「偏らない心 拘らない心 囚われない心 広く広くもっと広く これがお釈迦様の心なり」欲から離れた、我を起点としない時間。これがそのまま非思量、ほとけ心に生きられる修行です。
我を離れることの出来る閑かな時間を、御一緒にいかがですか?
祥雲寺副住職 安藤淳之当分の間は6時半開始、一炷(坐禅一座)のみとなります。初めての方は15分前に来てください。次回は2月28日となります。また、雀宮善応院坐禅会は第四水曜日以外毎週行っています