ごあいさつ

宇都宮市の祥雲寺は歴史のある曹洞宗のお寺です。
栃木県庁のすぐ北にあり、自然林の中には西国三十三番の観音像が祀られています。
また、樹齢350年を超える枝垂れ桜の老樹は県天然記念物として有名です。
たくさんの方々に仏教を親しんでいただくことを願いとし、様々な信仰行事を催しています。

ようこそおまいり

座禅会 栃木県宇都宮市の祥雲寺(曹洞宗) | 桜や祭りが名物の寺

座禅会の記事

  • 令和4年7月 朝坐禅会「指月の会」案内(25日月曜朝6時半より)

    2022年7月24日

    観音様を祀る蓮池がキレイな時期を迎えました。

    雨の日こそ撮影時だと大きなカメラを構えた方が何人か来ていました。

     

    仲間内でやっている勉強会で法華経を読んでいます。

    正法眼蔵に始まり途中参同契宝鏡三昧という古いお経に飛び、正法眼蔵を理解するには法華経を理解しなくてはいけないと言うことから読み始めました。

    一人では中々手が伸びない難しい勉強も、集まってやるならば楽しくやれるもので、僧宝の功徳というものを感じています。

    法華経もようやく普門品、俗に言う観音経にまで来ました。

    観音様のお経で、祥雲寺の境内にも観音様をお祀りしていることから、是非とも読みたいお経でありました。

     

    観音様は古くから多くの人に親しまれてきた菩薩様です。

    仏さまの慈悲の心の現れ、人々の悩み苦しみに手を差し伸べてくれる菩薩さまと言われています。

    百人百様の悩める人々に手を差し伸べようとされることから多くの手を持ち様々な姿形で現れています。

    それだけに観音様への信仰も人によって様々在るようです。

    昔一緒に西国三十三観音霊場お参りをした御老は、戦争の時の様々な悔いからお参りが日常になったそうです。

    またある人は、人生の上手くいかない不遇不幸から観音様にお縋りしようとお参りし愚痴っていると、運命を呪う気持ちが薄れて周囲や自分を許せるようになってきて、観音様に手を合わせて拝むということは自分を拝むということだと想うようになったそうです。

     

    私は朝詣りの時などに観音様のお話をするときは、

    「私にとっての観音信仰とは、観音様のようないつくしみの、優しい心で生きられますようにと願う祈りです」

    と説明しています。

    様々な人のお話やお経を聞いて、これこそと思うようになりました。

    以前テレビで東南アジアの仏教国が放送されていて、道行く人にここはどんな町ですか?と問いかけがありました。

    その人は「困っている人を助けてあげる町だ」と答えていました。

    これは、中々出てこない言葉ではないでしょうか?

    仏教文化、その精神が根付き華開いて居る国だからこそなのでしょう。

    仏さまの慈悲の心、いつくしみの精神で生きられるなら、自分にとっても周囲にとっても世界は温かく優しい場所となるはずです。

    テレビ越しの、そして後日渡航した町の優しい空気、人々の笑顔と暖かさがこの想いを確信させてくれました。

     

    観音様は仏さまの慈悲の心、いつくしみの心の現れ。

    だからこそ多くの人がお参りしお縋りし、人々の祈りを集めてきたのでしょう。

     

    偏りのない、こだわりのない、囚われのない時間。

    欲から離れた、我を起点としない時間。これがそのまま非思量、ほとけ心に生きられる修行です。

    我を離れることの出来る閑かな時間、坐禅の時間を御一緒にいかがですか?

     

    祥雲寺副住職 安藤淳之
    当分の間は6時半開始、一炷(坐禅一座)のみとなります。
    初めての方は15分前に来てください。
    次回は8月22日となります。
    また、雀宮善応院坐禅会は第四水曜日以外毎週行っています
  • 令和4年6月 月例朝坐禅会「指月の会」案内(7月は25日になります)

    2022年6月26日

     

    無常を観ずる時、吾我(自我)の心生ぜず、名利(名誉や富)の念起こらず。

    『学道用心集』

     

    先月に続いて「我」というべき処についてのお話をします。

     

    5月、本山へのお参りで福井県の大本山永平寺、石川県の能登半島総持寺祖院へお参りをしてきました。

    ご本山は懐かしく、20年近く経ってもかつての修行の日々を思い起こさせてくれます。

    また祖院は曹洞宗の僧侶にとって意義深い場所であり、少人数ながら修行道場として一心に運営されていることが見受けられ、心ばえの力を強く見せてくれました。

     

     修行とは何なのでしょう。

    古くから仏教とは何か、という問には

    「悪いことをしない、良いことを行う、自らの心を清めていく、これが仏教だ」(七佛通戒偈)

    と言われてきました。

    日本で曹洞宗を開かれた道元禅師の信仰は

    歴代仏祖の生き方を学びまねることと駒澤大学小川先生は解説されていました。

    曹洞宗の修行とは

    仏の生き方を身につける事、と私は教わりました。

    その修行の大きな要素として、我を小さく少ないものとしていくところが在るのでしょう。

     

     私はお寺で生まれ育ちましたが、永平寺での修行は辛く、坐禅の時間は苦痛以外の何物でもありませんでした。

    しかし九ヶ月経った冬の坐禅の時、修行仲間との諍いで頭がいっぱい疲労困憊で坐禅に臨んでいたら

    「皆が私に優しくしてくれないのは、私が皆に優しくしていないからだ」

    と思いがひっくり返って腹落ちして、身も心も軽くなって坐ることが出来ました。

    修行というのは座禅というのは、理屈ばかり形ばかりのものではないのだと初めて実感できた経験でした。

    今にして思えば、私は「なんで俺が」という想いにしがみついて不平不満ばかりをため込んで修行をやり過ごそうとしていたのでしょう。

    しかししがみついていた想いをこだわりを手放してみれば、なんともかろやかな心身で修行の生活に望めるようになっていて、我を張らないというのはこんなにも楽なのだと気付くことが出来ました。

     

     道元禅師は「放てば手にみてり」という言葉でお諭しになられています。

    握りしめてしまっている抱え込んでしまっているあれこれの事物を思い切って手放してご覧なさい、放してみても案外大丈夫で、実は放した手に既に十分な何かがあることに気付くことも出来るのですよ

    私はそんな風にこの言葉を説明しています。

     

    私にとって修行とは、あれこれのおもいを手放させてくれる道、かろやかな生き方を教えてもらった、そんな時間でした。

    永平寺にお参りする度、私の人生の転換点を繰り返し思い出させてくれます。

    永平寺は、心のチリを払う道場、私の仏道歩む道を示してくれた場所。

    読んで字の如く、有り難いところです。

     

     

    偏りのない、こだわりのない、囚われのない時間。

    欲から離れた、我を起点としない時間。これがそのまま非思量、ほとけ心に生きられる修行です。

    我を離れることの出来る閑かな時間、坐禅の時間を御一緒にいかがですか?

     

    祥雲寺副住職 安藤淳之
    当分の間は6時半開始、一炷(坐禅一座)のみとなります。
    初めての方は15分前に来てください。
    次回は7月25日となります。
    また、雀宮善応院坐禅会は第四水曜日以外毎週行っています
  • 令和4年5月 朝坐禅会「指月の会」案内(5月23日開催)

    2022年5月22日

    無常を観ずる時、吾我(自我)の心生ぜず、名利(名誉や富)の念起こらず。

    『学道用心集』

     

    皆さんはゴールデンウィークを如何お過ごしでしたでしょうか。

    各々様々予定を立てていたようで、坐禅会に参加されているある女性は、兵庫の安泰寺という禅寺に坐禅に行くと言われていました。

     

    この安泰寺、ネルケ無方というドイツ出身のお坊さんが住職をしていたお寺で、私はネルケ師の講演を二回お聞きしたことがあります。

    曰く

    高校生のころ学校の坐禅サークルで坐禅を経験して、初めて自分の頭の下に体があることが分かった。

    仏教を学びたいと思って大学の時に宇都宮に寄宿して修行できる寺を探し、兵庫の安泰寺に行き着いた。

    いざ修行に入ろうと言うときには住職から「おまえが安泰寺を作るのだ」と激励された。

    しかし入ってみると掃除炊事洗濯と、修行とは思えないことばかりやらされる。

    こんなはずは無かった、自分は修行をしたくて来たのだと住職に詰め寄ると

    「おまえのことなんか知るか」と言われてしまった。

    気落ちしたが、後日これこそが師の指導、叱咤激励であるとわかった。

    仏道の修行とは何であるか?

    それは俺が私が、という「我」の心を小さく少なくしていくことだ。

    修行の道場は大勢で運営されるものだ。

    大人数で生活するのだから役割分担がとても大切になる。

    その中で我を張っていては分担は成り立たない。

    だからこそ、法要や坐禅と言った修行らしい修行を支える掃除炊事洗濯といったこともまた大切な修行となる。

    吾我の心、我を張ることを捨てるまたとない修行の機会となるのだ。

     

    ネルケ師は6月に足利にて仏教会の講演会でお話をされるそうです。

    私もまたお聞きしにうかがえればと思っています。

    偏りのない、こだわりのない、囚われのない時間。

    欲から離れた、我を起点としない時間。これがそのまま非思量、ほとけ心に生きられる修行です。

    我を離れることの出来る閑かな時間、坐禅の時間を御一緒にいかがですか?

     

    祥雲寺副住職 安藤淳之
    当分の間は6時半開始、一炷(坐禅一座)のみとなります。
    初めての方は15分前に来てください。
    次回は6月27日となります。
    また、雀宮善応院坐禅会は第四水曜日以外毎週行っています
  • 令和4年4月 朝坐禅会「指月の会」案内(4月25日朝6時半より)

    2022年4月23日

    花祭り坐禅会

    花御堂(誕生仏を祀り甘茶を潅ぐ花飾りのお堂)を中央に皆さん坐禅を修行しました

    合間に黒羽大雄寺様の法話をお願いしました。

    この座禅会を始めて七周年となりました。

    大難の時であるからこそ、足下をしっかりと見定める時でもあろうかと思います。

    初心を思い返し、最初の文章を今年も再掲します。

     

    お前の苦しみを、じっと見つめてみよ。

    誰々にののしられた、誰々により損害を受けた、

    誰々に手ひどく負かされた、誰々に盗まれた、

    という思いを抱いてはいないか。

    その思いがすでに怨みであると知りなさい。

    怨みを抱いた人生は重いものだ、安らぎというものがなくなってしまう。

    いっさいの怨みを棄てよ。

    今まで抱いてきたあれこれの思いをさっぱりと棄てよ。

    棄てれば、必ず軽くなる。

    棄てて、かろやかに生きなさい。

    ― 『スッタニパータ』第一章 ―

     

     

    静かな所で何をするでもなく落ち着いて瞑想をすることで心身の調子が整う、という事は昔から広く知られ、行われてきました。

    近年では科学的分析により血圧が下がる、海馬の機能が促進され脳内の情報整理がされる、精神安定に重要な働きをするセロトニンの生成が促される、等の効果が確認されているそうです。

    しかし坐禅は、これらの効果を内包しながらも、何も求めないで只ひたすらに坐る事こそ最上のものである、と伝えられてきました。

     

    私はそれは、「軽くなる」からだと思います。

     

    人間生きていれば百人百様、様々な想いやしがらみを背負っているはずです。

    古人は人生を「人の一生は重荷を負うて遠き道を行くが如し」と形容したそうですが、時には荷を下ろし、わが身を見つめ直す時間こそ忙しい現代人に必要な物だと思います。

     

    一人で行おうとすると、怠けてしまったり後回しにしてしまい続かない場合もあります。ですがみんなで行えば、難しいことでも楽しく行えるはずです。

     

    この朝座禅会はそのような場となる様発起しました。

    皆さんと行うこの坐禅の一時が、「軽やかな」時間となることを願います。

     

    祥雲寺副住職 安藤淳之

    当分の間は6時半開始、一炷(坐禅一座)のみとなります。

    初めての方は15分前に来てください。

    次回は5月23日となります。

    また、雀宮善応院坐禅会は第四水曜日以外毎週行っています。

  • 令和4年3月28日 朝坐禅会「指月の会」案内

    2022年3月27日

    例年より大分遅れたしだれ桜の開花も、今日の暖かさで一気に五分咲きくらいまで進みました。

    例年より一週間以上開花が遅れました。

     

    「災難に遭う時節には災難に遭うがよく候。死ぬ時節には死ぬがよく候。これはこれ、災難を逃るる妙法にて候」

    知人にあてた良寛の手紙より

     

     何年か前ですが、3月11日東日本大震災慰霊の日に合わせて、テレビで災害特集が行われ、その中でキャスターが

    「私たちに豊かな恵みをもたらしてくれるはずの自然が、なぜこのような災害をもたらしたのでしょうか」

    と言っていたことがありました。

    日本人の自然観はここまで変化していたのか、と思いながら聞いていました。

     

     日本は四季の彩りがはっきり現れる、惠み多く美しい国だといわれています。

    それは裏を返せば気候の変化が大きく、その分苛酷に人々を苛むことがあります。

    地震が多い国であることは言うまでもありません。

    天変地異、災害の多い国で生きる私たち日本人は、災害を協力して生き残るべく淘汰され、「和」という精神を大切にしてきました。

    そしてそんな私たちだからこそ、自然は恵みをもたらすばかりではなく災いをもたらす面もあるのだと、畏れ敬う和魂荒魂という自然崇拝としての神道が育まれたと思います。

     

     自然は思い通りにならないもの、制御できないものと、私たちは長い時をかけて自然との付き合いを覚えてきたはずです。

    自然から遠ざかった都市の内側から見る世界観は、私には些かいびつに思えます。

    それは自然を征服したという人間の驕りや、自分たちのものにしたという執着から生まれてくる考えのように感じられます。

     

    江戸時代の禅僧、良寛さんの残した言葉に上記のものがあります。

    これは注意深く読み取らなくてはならない言葉です。

    災害への遭遇も老病死に会うことも、殆ど不可避のもの。

    それを思い煩い、危ぶみ悩み悔やんでばかりならば心が疲れてしまう。

    不可避の事態なら、「そういうこともある」と腹をくくることも時として必要になる。

    無手無策でいろと言うのではなく、都度あることなのだと真摯に臨む腹積もりを持つ。

    腹を決めて臨むことが、結局は災難に心がとらわれない対処法なのだ。

    私にはそんな風に説いているように感じます。

     

     

     

    偏りのない、こだわりのない、囚われのない時間。

    欲から離れた、我を起点としない時間。これがそのまま非思量、ほとけ心に生きられる修行です。

    我を離れることの出来る閑かな時間を、御一緒にいかがですか?

     

    祥雲寺副住職 安藤淳之
    当分の間は6時半開始、一炷(坐禅一座)のみとなります。
    初めての方は15分前に来てください。
    次回は4月25日となります。
    また、雀宮善応院坐禅会は第四水曜日以外毎週行っています
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