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令和7年1月 朝坐禅会「指月の会」案内(1月27日朝6時半より)
2025年1月26日衆生の迷い、根本は我見なり
一月も半ばを過ぎ、静かで穏やかだった正月の頃から打って変わって世の中も大分慌ただしくなってきました。
アメリカではトランプ大統領の就任式となり、下旬はその話題でメディアは持ちきりでした。
そんな中で映画『アプレンティス:ドナルド・トランプの創り方』封切りの広告に目を引かれました。
月末までに時間を作って見に行きたいと思っています。
宣伝文句曰く
気弱で繊細な20代のトランプ青年は、父親の会社が傾いた事をきっかけに悪名高い伝説の弁護士から〈勝つための三つのルール〉を伝授される。
<ルール1:攻撃>、<ルール2・非を絶対に認めるな>、<ルール3・勝利を主張し続けろ>
という冷酷で非情な手法を教わった青年は、やがて弁護士の想像を超えた怪物に変貌していく。
というものだそうです。
或いは昔からなのかもしれませんが、近年その場限りの虚偽を声高に訴え、自らに不利な情報を精査せずにフェイクだと言い切って取り合わない、そんな著名人が増えている印象があります。
情報社会と言われ、新旧問わずメディアに流れる膨大な情報をチェックして是非を考えるよりは、自分に興味関心が持てる受け取りやすい情報のみに聞く耳を持つ人が増えていることが、拍車をかけているのかもしれません。
しかし、嘘は良くないです。
多くのものを損ない、信用を失い、自分自身をも歪めます。
自分本位の見方考え方から抜け出せなくなって、世間とのズレが軋轢ともなり、迷い苦しみの元となります。
この嘘の生き方、自分本位自己中心主義に陥ることを「我見」という言葉で仏教は戒めています。
「衆生の迷い、根本は我見なり」と仏様は説かれています。
迷いとは、嘘の生き方、自分中心の物の見方で世界を観察することによって生じて起こるズレを言います。
だからこそ、我見という自分本位の見方を離れた無我の視点に立ってみれば、世界との摩擦は起こらず、迷いや苦しみというようなものから離れていくことが出来ます。
嘘のない生き方を心がけたいものです。
昨今の風潮で危惧してしまうのは、多くの大人が恥ずかしげも無く嘘を突き通す有様を見せ、それが通ってしまう姿を見て、次代を担う子供たちが真似てならってしまいかねないことです。
「正直者が馬鹿を見る」世の中ではなく、「正直の頭に神やどる」生き方こそが、自らの人格を正し、多くの人が生きやすい世の中と出来うるはずです。
私たちの姿勢が見られているのだという意識が必要なのかもしれません。
祥雲寺 安藤淳之
偏りのない、こだわりのない、囚われのない時間。
欲から離れた、我を起点としない時間。これがそのまま非思量、ほとけ心に生きられる修行です。
我を離れることの出来る閑かな時間、坐禅の時間を御一緒にいかがですか?
当分の間は6時半開始、一炷(坐禅一座)のみとなります。初めての方は15分前に来てください。来月の開催は2月24日となります。また、雀宮善応院坐禅会は第四水曜日以外毎週行っています -
令和6年12月 朝坐禅会「指月の会」案内(12月23日朝6時半より)
2024年12月21日而今
しばらく前の下野新聞に、書道展の作品が載っていました。
上記の言葉は掲載された作品の中の一つです。
中々読みにくい言葉ですが「にこん」出典によっては「じこん」とも読みます。
宇都宮の人ならば、老人介護施設の名前ということで聞き覚えがあるかもしれません。
祥雲寺のご近所さんなら、中央警察署の裏に去年出来た人気の割烹料理屋を思い浮かべもするでしょう。
作品の横に一言コメントで、作家水上勉の造語と書かれていましたが、これは古くからある禅語になります。
意味は今この瞬間に真摯に向き合う、今を真剣に生きる、といった意味で用いられます。
数年前にNHKスペシャルでストレス社会の対処法、といった番組がありました。
曰く、ストレスは強まれば脳に器質的な不可逆の損傷をもたらすこともあるので軽視し看過してはいけない。
ストレスとは二つのものが大きな部分を占める。
過去にあった痛手を思い出し反芻して現在にストレスを感じる。
未来にある嫌な事を想定して現在にストレスを感じる。
対処法としてコーピングとマインドフルネスが挙げられる。
コーピングとは自身にとって心良い、息抜きリラックス気分転換できる様々な所作を数十も用意し適時用いてケアをする方法。
マインドフルネスとは仏教で伝えられてきた修行法を一般向けに再編したもの、とのことです。
やっていることはほぼ変わりありません。
今にしっかりと心を定めることです。
私たち生き物には、常に「今」この瞬間しかありません。
過去は過ぎ去って今ここにはなく、
未来は未だ来ないので今ここにはないです。
確かにありますが、それは私たちの頭の中の記憶やイメージでしかない、強いて言うなら虚像です。
今ここに無いものに気を取られて、あまつさえ心を縛られゆがめられることはないのです。
そんな存在しないものよりも、今目の前の人や物事ににきちんと集中し焦点を合わせて向き合うことの方がよほど大切ではないでしょうか?
故に「而今」あれこれ他のことに気を向けず、今この瞬間この自分を真剣に生きる。
類義語を挙げるならば一所懸命や一期一会になるでしょうか。
心の置き方向き合い方の表現として良い言葉です。
多くの方に知っていただけたらよいなぁ、と思います。
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令和6年11月 朝坐禅会「指月の会」案内(11月25日朝6時半より)
2024年11月24日朝念観世音 暮念観世音
念念従心起 念念不離心 「延命十句観音経」
西国観音巡礼にいってきました。
祥雲寺には西国観音のお砂踏みがあります。
先々代住職、私の祖父が観音信仰に篤い人で、遠い西国に行かなくても檀家信徒が西国札所観音様の御利益に与れるように整備をし、以来毎月18日の朝には一時間ほどのプチ巡礼会として観音朝詣りを行っています。
また札所巡礼も積極的に行い、西国板東秩父お遍路と、何度も参拝旅行を行ってきました。
この度久しぶりに西国札所を巡る企画をスタートさせました。
今秋で京都市外の京都滋賀奈良の札所を巡り、来春以降で一番から巡る予定です。
観音菩薩は仏様の慈悲の心を体現された菩薩様です。
表に表せない心の声を聞き届け、また様々な願いに応じてくださる方としても信仰されています。
今回私自身奈良の興福寺国宝館で、国宝の千手観音菩薩を参加者に説明する時、
「千手観音さんの沢山の手はみんな違う形をして違う法具を携えておられる。人は皆違っていてそれぞれの悩みを抱えている、そのそれぞれに適して応じる事が出来る様にと文字通り手を尽くしている様を表しているのが観音様の千手なのでしょう」
といった言葉を用いました。
また今回参考にした資料に瀬戸内寂聴さんの文章がありました。
「(観音霊場の)三十三という数字は観世音は三十三身に化身して我々衆生を救けて下さるという御利益にちなんでいる。三十三という数字は、仏教では無限を意味する。あらゆる場所であらゆる苦難の時、一心に観世音を祈れば、観音は直ちに光のような速さで祈願者の前に出現して、救助して下さるというのである。そのお姿は観世音の形ではなく、祈願者がその時、最も必要としている姿に化身して現れて下さる。病人の前には名医となって現れるように。」
私には今年に入って二度、身に覚えがあります。
夏の頃打合せの不備から法要の迎えが来なくて慌てて運転して行き、腹立たしい気持ちを抑えようとしながら始まりの鐘を鳴らしていると、仏と成った故人に諭されました。
「怒るのは自分を傷つけ損なわれたと思うからだが、無我を説く僧侶の身であり、自意識に囚われないことが安楽の道だと腹落ちした者が、他人の過失によって一体何を損なわれたというのか」
腹立たしさはキレイに無くなり、かつて無く静かな心持ちでお勤めに臨めました。
また秋の頃には、立て続けの檀務と行事で疲労した状態で余所のお施餓鬼に随喜しましたが、お経を読んでいたら壁側の聖僧さまに親しくしてくれた先代老師がかぶり、「喝」を入れてくれました。
これらは単なる見間違いやこじつけ、自分の心理無意識がその場に必要な解を場の主役的な人の影絵で伝えてきた、等と理屈を付けることは出来るのでしょう。
ですが宗教者としては、それこそ観音様のお導きだったと受け取ってもよいのではないかと思うのです。
亡くなり失われた人とも、没後も面と迎える時もある。
ご縁を続けていけることもある。
迷いの多い凡愚の身なればこそ、仏の救いの手は大きくあたたかくさしのべられる。
観音霊場のかむさびた厳かな佇まいは、そういうものだと私達に語りかけてくれるようでした。
祥雲寺 安藤淳之
偏りのない、こだわりのない、囚われのない時間。
欲から離れた、我を起点としない時間。これがそのまま非思量、ほとけ心に生きられる修行です。
我を離れることの出来る閑かな時間、坐禅の時間を御一緒にいかがですか?
当分の間は6時半開始、一炷(坐禅一座)のみとなります。初めての方は15分前に来てください。来月の開催は12月23日となります。また、雀宮善応院坐禅会は第四水曜日以外毎週行っています -
令和6年10月 朝坐禅会「指月の会」案内(10月28日朝6時半より)
2024年10月27日迷故三界城(迷うが故に、三界は城なり)
悟故十方空(悟るが故に、十方は空なり)
本来無東西(本来、東西はなく)
何処有南北(何処んぞ南北あらんや)
お遍路、四句の祈り
先週、足利の両崖山を歩いてきました。
数年前足利の山火事で全国ニュースになっていた低山ハイキングの山です。
元々山歩きは好きで、小学生の頃に日光男体山のご来光を拝む登拝祭に出て以来、県内方々の山を歩いてきました。
とはいえソロの日帰りで楽しむ程度なので、専ら日光や那須の人が多いところを歩く事が多く、それも住職になって以降忙しくなってサボり気味でした。
大遠忌本山参拝が終わって時間が出来たので、勉強会仲間と短いながらも歩いてきましたが、やはり山登りはいいものです。
山歩きの楽しいポイントは様々あります。
仲間との時間を共有して緑や岩場の自然を楽しむ、高いところからの景観を楽しむ、運動の後のグルメや温泉を楽しむ等など有りますが、私にとっての一番のポイントは
「煩いのない時間と生の実感を楽しむ」です。
作為のない山の自然の中、力を尽くして歩む時間は、喜びでもあります。
もう一つの趣味でもある自転車や坐禅の時間にも通じてくる物ですが、昔歩いたお遍路や、板東の巡礼の旅でも似たものを感じていました。
巡礼の懐深い霊場に人生の荷物を預け委ねて、煩いから離れて一心に祈る、純粋になれる時間が通じる所があると感じさせてくれるのでしょうか。
霊場の巡礼というのは日本で古くから行われていました。
日本最古の霊場である西国三十三観音札所巡りは観音様の奇瑞が現れた場所を霊場として祀る寺が建てられ、平安期の貴族の信仰を集めて霊場巡りの場が整えられました。
三十三札所の三十三という数字は観音様は三十三身に化身して我々衆生を救けてくださるという御利益に因んでいます。
三十三という数字は、仏教では無限を意味します。
あらゆる場所であらゆる苦難の時、一心に観音様を祈れば、祈りに応じて救助して下さるというのです。
そのお姿は観音様の姿ではなく、祈る者がその時必要としている姿に化身して現れてくださる。
病人の前には名医となって現れるように。
ごく最近の私にとっては、迷っているときに坐禅をする文殊菩薩様のお顔が恩師の和尚さんの顔と重なり、活を入れてくださった時のように。
来月中旬は祥雲寺では久しぶりの西国三十三観音霊場巡りの旅になります。
申し込んでくださった皆さんと一緒に観音様の霊跡をお参りし、喜びを感じる時間と出来るように頑張りたいです。
祥雲寺 安藤淳之
偏りのない、こだわりのない、囚われのない時間。
欲から離れた、我を起点としない時間。これがそのまま非思量、ほとけ心に生きられる修行です。
我を離れることの出来る閑かな時間、坐禅の時間を御一緒にいかがですか?
当分の間は6時半開始、一炷(坐禅一座)のみとなります。初めての方は15分前に来てください。来月の開催は11月25日となります。また、雀宮善応院坐禅会は第四水曜日以外毎週行っています -
令和6年9月 朝坐禅会「指月の会」案内(9月23日6時半より)
2024年9月22日釈迦一人連綿として今日に及べり 『伝光録』
近年他宗派の勉強をしています。
浄土宗の法然上人700回忌記念フォーラムで聴講してみたり、浄土真宗の京都東本願寺の図書室に暫く籠もって蔵書を読んでみたり、日蓮宗の総本山身延山久遠寺や大本山誕生寺にお参りしてみたりと、色々と廻ってみています。
他の宗派の事を勉強するのは知見が広がりますし、翻って自分たち曹洞宗の教えの理解がより深まっていきます。
まだ勉強半ばではありますが、他宗も含めた歴代の祖師方は、本当に多種多様の工夫でその時代の人達に応えようとしてきたのだと思います。
我が曹洞宗は鎌倉期の道元禅師によって日本で広まった宗派です。
公家出身で、母との死別で発願して比叡山で学び、臨済の教えを学んで中国に渡り、仏教の正しい教えと確信する禅を体得して日本に戻られました。
既成教団からの弾圧を避け、福井の有力者の招きにより越前志比の里に修行に専念できる場所を求め、永平寺が創立されました。
学び得た仏法を記した主著『正法眼蔵』は禅の道を歩む者の道しるべとして、今日も世界的な評価を得ています。
道元禅師の信仰とは何であったのか。
花園大学の佐々木閑先生は、三国伝来、インド中国日本を千年以上かけて伝播することで変化していった仏教の原点を求め、八割方原点回帰を為し得たのが曹洞宗だと講演されていました。
また駒澤大学の小川先生は、歴代祖師方の生き方にならう事であったとお話しになっていました。
ブッダ(目覚めた人)とはお釈迦様のみの呼び方ではなく、仏教を伝えてきた歴代の祖師方もまたお釈迦様に同じくブッダであり、その生き方に学び真似び倣うことが正しい実践である。
だから禅宗、曹洞宗では生活の全てが修行とされるのです。
「水は方円の器に随う」韓非子
心を整えようとするならば、その器となる自身の生活から改めなければならない。
仏教というのは業、生き方を習慣から改めることで、内面を静め落ち着け整えていく宗教なのです。
このように日本で始まった曹洞宗ですが、越前の山奥にある永平寺で伝えられるだけでは、やがて細って途絶えていたかもしれません。
道元禅師から数えて四代目となる瑩山禅師が永平寺を出て教えを広められたからこそ、曹洞宗は今日の形になったのです。
瑩山禅師は永平寺で出家修行され、あらゆる人を救っていこうと誓いをされました。
日本各地を廻り、各地のお寺で多くの弟子を育てて教団を盛り立てたからこそ、曹洞宗は日本で一番寺院数の多い宗派となりました。
難解な道元禅師の教えを多くの人が理解できるよう尽力した翻訳者とも言われています。
道を示した道元禅師と、道を伝えた瑩山禅師、曹洞宗はお二人を両祖として奉っています。
本年は瑩山禅師700回忌大遠忌の年であり、10月の御征忌に焼香師団参でお参りしてきます。
両祖の工夫精進を改めて思い返して、自分の土台を明らかにする機会としたいです。
祥雲寺 安藤淳之
偏りのない、こだわりのない、囚われのない時間。
欲から離れた、我を起点としない時間。これがそのまま非思量、ほとけ心に生きられる修行です。
我を離れることの出来る閑かな時間、坐禅の時間を御一緒にいかがですか?
当分の間は6時半開始、一炷(坐禅一座)のみとなります。初めての方は15分前に来てください。来月の開催は10月28日となります。また、雀宮善応院坐禅会は第四水曜日以外毎週行っています