ごあいさつ

宇都宮市の祥雲寺は歴史のある曹洞宗のお寺です。
栃木県庁のすぐ北にあり、自然林の中には西国三十三番の観音像が祀られています。
また、樹齢350年を超える枝垂れ桜の老樹は県天然記念物として有名です。
たくさんの方々に仏教を親しんでいただくことを願いとし、様々な信仰行事を催しています。

ようこそおまいり

座禅会 栃木県宇都宮市の祥雲寺(曹洞宗) | 桜や祭りが名物の寺

座禅会の記事

  • 令和2年6月 朝坐禅会「指月の会」案内

    2020年6月21日

    梅雨の時期は紫陽花の季節

     

     

    栴檀林せんだんりん雑樹ぞうじゅし、鬱密うつみつ森沈しんちんとして獅子ししのみじゅう
    (香木の林に他の雑木が生えることの無いように、弁道精進の場には志ある人が集う)
                                    『証道歌』
     
     先日境内草木の手入れをしていたところ、お参りに来ていたアジア人の青年と立ち話をしました。
    県内在住でお寺へのお参りを時折されているとのことで、信仰している宗教は無いがお寺に来ると気持ちが落ち着くのだそうです。
    お寺も仏教も心を安らかに、落ち着けていくものなのだから機会があればどうぞいらして下さい、という趣旨の話をしたら「また菩薩さまに会いに来ます」といって帰られました。
     
     以前NHKの番組で題材にされていましたが、お寺の建物を表現する伽藍という言葉は「僧侶の修行する林」を現す言葉を原型としています。
    インドの時代僧侶は、誘惑の多い町中ではなく近郊の林を修行の地としていました。
    それは市中の俗塵世情から離れた惑わすもののない自然の環境こそ、心を落ち着ける最適の環境であると知っていたからでしょう。
    今日のお寺もまた、浮き世の波風から離れた心を落ち着けるに足る作りを伝統として踏襲しています。
    異国の青年との語らいは、私たち仏教徒の受け継ぎ育み伝えるものが人種や文化の垣根を越えて通じるもの、尊びうるものなのだと再確認させてくれました。
    或いは大げさな言い方なのかもしれませんが、ささやかなりとも古人はこうした出会いと導きを「観音様のお導き」と受け取っていたのでしょう。
     
     
                                祥雲寺副住職 安藤淳之
    明日の坐禅会は風通しの良い広い堂内で短縮して行います。
  • 令和2年5月 朝坐禅会「指月の会」案内

    2020年5月24日

    5月の本堂と境内

    これわが最後に教誨する処なり
                 『遺教経』
     
     先日市内のお坊さんの葬儀に参列しました。
    僧侶として活動して以来の付き合いでしたから、16年ほどの付き合いがありました。
    突然死であったためお勤めしていても実感がわかず、最後にお骨を祭壇に安置して参列者が帰られ静かになってから漸く、もうお話しできることはないのだと理解できました。
    一人堂内で御遺影と10分ほど対面し、身近に居た人を無くした寂しさと思っていた以上に暖かい思い出を頂いていたのだという驚きと、そしてお釈迦様の最後の説法とされる『遺教経』の一節をかみしめていました。
     
     お釈迦様は今から2600年の昔、インドに生まれて80年の人生を歩まれました。
    その最後は、沙羅双樹の元に横たわり多くの弟子に見守られながらのもので在ったと言います。
    自分が世を去った後弟子達が惑うことのないように、臨終の床にありながらこれまで説かれてきた教えを丁寧に再確認できるように纏めて説かれたのが今日『遺教経』という形で伝えられ、そしてその最後の教えは自らの死にゆく姿を見なさいと言う無言の内の説法であったと言います。
    人は誰しもが亡くなっていく、死とはこのようなものなのだ。
    だからこそ生きている今、怠ることなく務め励み精進し、道の達成心の安心を成しなさい、と。
     
     今、一人の和尚が世を去られて、多くのことを示してくれました。
    願わくは私も暖かい思い出を人に持ってもらえるような、あの和尚さんの様に人に接することが出来ればと思います。
    その行いの中に、仏と成られた和尚さんとのご縁が、きっと確かに息づいていることを信じています。
     
                           祥雲寺副住職 安藤淳之
    明日の坐禅会は風通しの良い広い堂内で短縮して行います。
    その為暖かい格好でお越しください。
  • 2020年4月26日

    4月7日 宇都宮仏教会花まつり法要を祥雲寺で行いました。写真は宇都宮保育園稚児の舞です。

    例年は大通りでパレードを行い、文化センターで舞を披露するのですが、今年は自粛し会員のみで法要を行いました。

    この坐禅会を始めて五周年となりました。
    大難の時であるからこそ、足下をしっかりと見定める時でもあろうかと思います。
    初心を思い返し、最初の文章を今年も再掲します。
    お前の苦しみを、じっと見つめてみよ。
    誰々にののしられた、誰々により損害を受けた、
    誰々に手ひどく負かされた、誰々に盗まれた、
    という思いを抱いてはいないか。
    その思いがすでに怨みであると知りなさい。
    怨みを抱いた人生は重いものだ、安らぎというものがなくなってしまう。
    いっさいの怨みを棄てよ。
    今まで抱いてきたあれこれの思いをさっぱりと棄てよ。
    棄てれば、必ず軽くなる。
    棄てて、かろやかに生きなさい。
                        ― 『スッタニパータ』第一章 ―
    静かな所で何をするでもなく落ち着いて瞑想をすることで心身の調子が整う、という事は昔から広く知られ、行われてきました。
    近年では科学的分析により血圧が下がる、海馬の機能が促進され脳内の情報整理がされる、精神安定に重要な働きをするセロトニンの生成が促される、等の効果が確認されているそうです。
    しかし坐禅は、これらの効果を内包しながらも、何も求めないで只ひたすらに坐る事こそ最上のものである、と伝えられてきました。
    私はそれは、「軽くなる」からだと思います。
    人間生きていれば百人百様、様々な想いやしがらみを背負っているはずです。
    古人は人生を「人の一生は重荷を負うて遠き道を行くが如し」と形容したそうですが、時には荷を下ろし、わが身を見つめ直す時間こそ忙しい現代人に必要な物だと思います。
    一人で行おうとすると、怠けてしまったり後回しにしてしまい続かない場合もあります。ですがみんなで行えば、難しいことでも楽しく行えるはずです。
    この朝座禅会はそのような場となる様発起しました。
    明日4月27日の朝坐禅会は、6時半から開催しますが、短縮し広い空間でばらけて行います。
    その為参加される方は厚着でお越しください。
  • 令和2年3月 朝坐禅会「指月の会」案内

    2020年3月22日

    例年は彼岸明けから三月末で開花するのですが、今年は彼岸前には花開きました。

     

    この日曜日でほぼ満開になりました。見ごろは今週中ごろでしょう。

    諸行無常
     
     新型コロナの世界的蔓延で、世の中の色々なところに支障が出ています。
    祥雲寺でも地域の観音堂例祭や御詠歌講、花祭り写経会が中止になりました。
     私には医学の心得はありませんが、感染症の話題になる度に、学生時代に読みふけっていた村上龍の『ヒュウガウィルス』をいつも思い出します。
    この本は簡潔に言えば、九州で酷い病気がはやり、細菌戦の部隊が処置に赴く話です。
    作中の架空の病気ヒュウガウィルスは未知の病気で、エボラ出血熱を更に酷くした空気感染するウィルスが一帯を変わり果てた死体の山にします。
    その様子を見て、なんで人間はそんなに弱いんだ、と嘆いた人に、老科学者が返した言葉が印象深く、今でも良く憶えています。
    「弱くて脆い部品が精密に作動するから生物は進化した。
     われわれのからだを構成する分子は脆くて壊れやすいつながり方でつながっている。
     だから化学反応が可能で、全体として信じられないような生体のシステムが生まれた。
     強い結合で結ばれれば鉱物になってしまう。
     鉱物は何億年経ってもほとんど変化がない。
     人間は柔らかい生き物だ。
     その柔らかさ、脆さ、危うさが人間を人間たらしめている」
    あまりにも繰り返し読んでいて、私の人間観の基ともなっていますが、これって言葉が変われば、そのまま「無常」を表現しているものだと思っています。
     私たちは無常(変化)だから生まれ育ち、変化するから老い病み死んでいく。
    無常には良いも悪いもない、変化するから私たちはこうして在ることが出来る。
    だから無常は厭うものではなく、受け入れその都度真摯に対応するのが最も良い身と心の処し方と言えるのでしょう。
     
     残念なことに、新型コロナとの付き合いはもうしばらく長引きそうです。
    私たちが成すべきは、こういうこともあるさと腰を据えて向き合って、日々対処して自分と周りを整えていくことなのでしょう。
    それこそ疲れないようじっくりと。
                                  祥雲寺副住職 安藤淳之
    一人で修行を行おうとすると、怠けてしまったり後回しにしてしまい続かない場合もあります。
    ですがみんなで行えば、難しいことでも楽しく行えるはずです。
    この朝坐禅会はそのような場となるよう始めました。
    一日の始まりを迎えるこのひと時、ご一緒に「かろやかに」生きてみませんか?

    日時:3月23日(月)朝6時半~8時(途中参加、途中退出可)

    6時30分~7時10分(一回目の坐禅)

    7時20分~8時    (二回目の坐禅)

    場所:祥雲寺本堂一階

    用意:身一つで大丈夫です。

    足の組めない方は椅子での坐禅もできます。

     

    注意:初めての方は最初に指導を行います。

    その為可能ならば一回目の坐禅から参加されてください。

    また、祥雲寺では毎週水曜夜6時(第四水曜のみ休み)、雀宮布教所「善応院」にて坐禅会を行っています

  • 令和2年1月 朝坐禅会「指月の会」案内

    2020年1月25日
    今年もどうぞよろしくお願いします。
    四大分離して甚れの処に向かってか去る。 『無門関』
    お話しする機会があった方からリクエストをいただいたので
    以前の話ながら再掲します。
     しばらく前に「千の風になって」という歌が大変流行しました。
    私のお墓の前で泣かないで下さい、私はそこに居ません。
    千の風になって、あの大きな空を吹き渡っています。
     この曲の特別なところは、死者からのメッセージであるという所です。
    死という断絶。それを超えて語りかけてくれる「向こうからの言葉」
    うちひしがれている人にとって何よりの慰めとなる、この歌にはそうした力があるのだと思います。
    この歌詞は一説にはネイティブアメリカンの言葉が元になってアメリカで広まり、それを新井満氏が翻訳して歌にしたそうです。
     私たちは縁あってこの世に生を受け、様々な結びつきの仲で育ちやがて枯れていきます。
    縁によって生まれいでた私たちは、死ねば何処に行くのでしょうか。
    何処に行くのでもありません。世界から結びつきによって生まれた私たちは、ほどければまた世界に帰っていくのです。
    私たちの命は、すがたかたちを変えてまたこの世界を巡る大きなはたらきへと立ち返っていく。
    だからこそ、悲しみに萎れた顔を上げて耳を澄まして見たならば、木漏れ日の煌めきや風のそよめき、土の臭いや水の流れにあの人の命のはたらき、面影を見ることも出来るのでしょう。
     ですが、お墓こそが故人を思い返す、偲ぶのにこの世で最も適した所であることも間違いないはずです。
    故人を弔い、文字通りその名残を石の永遠性に託して刻み、この世にあったのだという証拠を立たせているのですから。
     どうかお墓参りの時にはたくさん声をかけてあげて下さい。
    故人には出来なくなった掃除をして届けたい物や思いをお供えしてあげて下さい。
    そうして合わせた手の向こう側に、きっと喜ぶ顔を感じることが出来るはずです。
                             祥雲寺副住職 安藤淳之
    一人で修行を行おうとすると、怠けてしまったり後回しにしてしまい続かない場合もあります。
    ですがみんなで行えば、難しいことでも楽しく行えるはずです。
    この朝坐禅会はそのような場となるよう始めました。
    一日の始まりを迎えるこのひと時、ご一緒に「かろやかに」生きてみませんか?

    日時:1月27日(月)朝6時半~8時(途中参加、途中退出可)

    6時30分~7時10分(一回目の坐禅)

    7時20分~8時    (二回目の坐禅)

    場所:祥雲寺本堂一階

    用意:身一つで大丈夫です。

    足の組めない方は椅子での坐禅もできます。

     

    注意:初めての方は最初に指導を行います。

    その為可能ならば一回目の坐禅から参加されてください。

    また、祥雲寺では毎週水曜夜6時(第四水曜のみ休み)、雀宮布教所「善応院」にて坐禅会を行っています

祥雲寺行事案内

祥雲寺で行ってる月例行事や年間行事、その他法要・祭りなどについてのご案内です。 行事カレンダーもご確認ください。