-
令和5年2月 朝坐禅会「指月の会」案内(2月の開催は27日となります)
2023年2月26日良や愚の如く、道、うたた寛(ひろ)し。騰々(とうとう)運に任せ、誰か看ることを得ん。
ために付す、山形(さんけい)爛(らん)藤(とう)の杖。至る処の壁間、午睡(ごすい)閑(かん)なり。
国仙和尚 良寛印可の偈
(良寛は愚人のようであるが、その仏道の精神は広々としている。
その輝きの力は、生き生きとしていて仏縁に任せてなりきっているので、その心は誰にも理解できない。
だから、山のようにゴツゴツした藤蔓の枝を付与して悟りの証明にしよう。
どこに行っても壁に掛けて、いつもの君のようにゆったりと昼寝をしたまえ)
最近本屋さんで書棚を眺めていて、NHK100分で名著の過去作に
良寛さんの本『「どん底目線」で生きる』を見つけました。
良寛さんは江戸時代の曹洞宗の禅僧で今なお慕う方も多く、私の坐禅の師匠である福井御誕生寺の板橋禅師様も大きな銅像を本堂の中に設えて手を合わせられていました。
しかも書かれているのは曹洞宗の講演会で度々お世話になっている中野東禅先生。
たくさんのご縁を感じて購入し、ただいま読んでいます。
良寛さんは新潟の名主の家出身です。
生家は手広く商売をする栄えた家だったそうですが、生業が性に合わなかったのか18の頃に出家を決意したといいます。
以来十数年の修行に臨み、三十三歳の時に師匠となる国仙和尚から「修行を成就した」と認められ、
上記の印可の偈と杖を授けられたそうです。
この後は諸国行脚をして故郷に戻り、小さな庵で清貧そのものの生活をしながら、地域の人々や子供との交流を楽しんで過ごされました。
伝手も経歴もあり立身出世も望めただろう良寛さんですが、
その生涯は徹底して「持たない」生き方を徹されました。
それは修行の中で、清貧な生き方こそが、世間の苦悩や哀しみのもととなる欲望を超える道なのだと悟られたからなのでしょう。
私個人の主観も入る話ですが、仏道修行とは、本来融通無碍な心を閉ざしてしまう我という塞を取り払っていくことだと思っています。
またある老師は、出家修行とは出世間であると説かれました。
世間の、当たり前にあるもの差しや基準価値観から脱却する。
世俗の価値観の中にいては欲得と比べ合いの習慣から離れることは出来ない。苦悩や哀しみが尽きることはない。
だからこそ出世間、世俗から出ることが肝心なのだと。
本当に道を修め徹底した人は、時に孤高の人ともなります。
上記の国仙和尚の偈は、世俗にはなじめない、けれど真摯に生きようとされる良寛さんをある種祝福し讃える慈しみの視線が感じられるものです。
いついかなる所であっても君らしい囚われない大きな心でおおらかに生きなさい。
そしてまさにその通りに生きられたからこそ、今もなお慕う人が絶えないのでしょう。
そんな読書感想の話でした。
祥雲寺副住職 安藤淳之
偏りのない、こだわりのない、囚われのない時間。
欲から離れた、我を起点としない時間。これがそのまま非思量、ほとけ心に生きられる修行です。
我を離れることの出来る閑かな時間、坐禅の時間を御一緒にいかがですか?
当分の間は6時半開始、一炷(坐禅一座)のみとなります。初めての方は15分前に来てください。次回開催は3月27日となります。また、雀宮善応院坐禅会は第四水曜日以外毎週行っています -
令和5年1月 朝坐禅会「指月の会」案内(1月の開催は23日となります)
2023年1月22日第四不妄語。法輪は本より転ずれば、剰ることも無く、欠くることも無し。甘露は一潤せば、実を得、真を得るなり。『教授戒文』
先日NHKを視聴していて、ちこちゃんに叱られるを聞いていましたら、
「人はなぜ嘘をつくようになるのか」
という問いかけがありました。
回答としては「自分と他人の心の中は違うと分かるようになるから」
児童心理学の見地から、子どもが4~5歳になってくると
経験や体験から心の理論が発達していって
自分と他人の心は違うものであり、各々の気持ちや考えによって行動するものであると
理解できるようになるそうです。
意図的な嘘がつけるようになるのは成長の証でもありそれほど気にするものではない。
他人に罪を着せるような嘘はきちんとたしなめ、そして嘘をついたことを責めるよりも本当のことを言ったときに褒めてあげるようにと締めていました。
この最後のところのまとめが、上記の文章に一脈通じるかも、と思った次第です。
上記は十戒。仏教徒がしないよう注意する十種ある戒律の一つです。
よくある誤解として、戒というのは「してはならない」ではなく「しないことを誓う」ものです。
絶対しない、という枷をはめるようなものではなく、選択の際にしないと選ぶことができる自分に育て整えていこうとするものです。
第一に不殺生殺さない、第二に不偸盗盗まない、第三に不貪淫性を貪らないと続いて第四に不妄語戒と続きます。
字義そのままなら、嘘をつかないことを誓う、という意のものです。
嘘をつくのはいけないこと、それは誰でも知っていることです。
社会的には言葉の信用度を下げ周囲の信頼を失うもの、刑罰に問われかねないものとなるでしょう。
仏教的には自身の心の問題としてこの不妄語を説きます。
昔の禅僧にあるお殿様が言いました。
極楽とはどこにある?
禅僧は、そんなこともわからないのかこの馬鹿殿が、と罵倒しました。
お殿様は怒ってこの坊主め、たたき切ってくれるわ、と刀を抜きました。
禅僧は、ここが地獄じゃ、その心持こそが地獄なのじゃ、と説きました。
お殿様はあっと言って刀を収めごめんなさいと謝りました。
禅僧は、ここが極楽じゃ、その心持こそが極楽なのじゃ、と説きました。
少し内容がずれますが同じことです。
嘘をつくことが良くないことだとはだれもが知るところです。
その後ろめたさ、斬鬼の念は必ず心を、行動を、生き方をゆがめ曇らせていきます。
嘘は一時の利を運んでも、自身の心を極楽へは運んでくれないのです。
それよりは真実の言葉に、行動に生きることを選ぶほうがよほど良いはずです。
嘘をつかないことを選ぶなら、それは自身を汚すことなく、真実に沿うことの明るさや落ち着きに結びつきます。
それを常としたならば、その積み重ねが習慣となって自身を守ってくれるようになります。
地獄に落ちることのない自分へ育ててくれるのです。
上記の言葉は、嘘のない生き方、本当の世界に生きる功徳を讃えた言葉なのです。
番組の締めの本当のことを言ったことを褒められた体験は、きっと嘘をついてしまうことから遠ざかる助けとなるでしょう。
祥雲寺副住職 安藤淳之
偏りのない、こだわりのない、囚われのない時間。
欲から離れた、我を起点としない時間。これがそのまま非思量、ほとけ心に生きられる修行です。
我を離れることの出来る閑かな時間、坐禅の時間を御一緒にいかがですか?
当分の間は6時半開始、一炷(坐禅一座)のみとなります。初めての方は15分前に来てください。次回開催は2月27日となります。また、雀宮善応院坐禅会は第四水曜日以外毎週行っています -
令和4年12月 朝坐禅会指「指月の会」案内(12月の開催は26日となります)
2022年12月25日吾我を離るるには、観無常是れ第一の用心なり」 (正法眼蔵随聞記)
今年も年の瀬となり、来年に向けての大掃除が先日終わりました。
来年の算段も諸々考え動き出しています。
地元の仲間が、来年から大本山永平寺で役寮という運営指導役のご指名を受けました。
栃木と福井を行き来して役に付くのは大変でしょうがどうか頑張っていただきたいです。
その際には修行僧らで挫折する人が出ないようよく見てあげてほしいと切望します。
私自身上山して2,3週間後が一番きつくて折れそうになりました。
あの時仲間に支えてもらっていなかったら全く違う人生を歩んでいたでしょう。
では修行では何が大変なのか、どうして挫折するのかと考えてみると、
上記の「吾我を離れる」という部分に躓くのではないかと思いました。
先日ドイツ人の禅僧ネルケ無方師に宇都宮仏教会の仏教文化講演会でお話を頂戴しました。
内容はご自身の発心修行菩提涅槃、なぜ出家しどう修行して何に気づいたかです。
少し端折って要約するならば
「坐禅を体験して自身の視点が変わり興味を持った。
出家しお寺で修行を始めたが修行らしいことは出来ず雑用ばかりで不満を持った。
不満を訴えたらお前のことなど知らん、と言われて失望した。
しかしそれこそが師の叱咤激励であったのだと気づくことができた。
修行は集団生活で、皆で支えあうのだから裏方も当然せねばならない。
そうしたとき我が強く自身を優先していては場が成り立たない。
むしろ迷い悩みの根源となる我を手放していくことが修行であり精進なのであるのに
いったい何にこだわっているのだ」と。
この自意識の問題、我を離れるというのがなかなか難しいのです。
私も修行の中、我執を離れるとは如何なる事かを感じるきっかけがあって少しは理解できました。
禅の修行は、自身で迷いから離れ気づく、体験をするという所を重視してきました。
他人から教え諭されるのではなく、自身で気づき見つけることでそれが自身の宝となる。
永平寺での修業がやり方を教わるばかりで
これが何なのか何故そうするのかに言及されないのはそういうことです。
現代のお坊さんは家がお寺だからと修行に臨む人が多いです。
動機がそこであっても出家修業とは間違いなく尊い得難い機会です。
この稀なるご縁を損なうことのない様フォローがなされてほしいと願うばかりです。
祥雲寺副住職 安藤淳之
偏りのない、こだわりのない、囚われのない時間。
欲から離れた、我を起点としない時間。これがそのまま非思量、ほとけ心に生きられる修行です。
我を離れることの出来る閑かな時間、坐禅の時間を御一緒にいかがですか?
当分の間は6時半開始、一炷(坐禅一座)のみとなります。初めての方は15分前に来てください。1月は23日となります。また、雀宮善応院坐禅会は第四水曜日以外毎週行っています -
12月上旬 特別行事の案内(1日無縁供養、7日蝋八摂心坐禅会)
2022年11月25日12月1日は祥雲寺年末の大行事、無縁供養の日です。
詳しくはこちらをご覧ください。
https://www.sho-un.jp/blog/event/576/
2017年の開催記録になります。
9時 羅漢の会(石彫の会)羅漢開眼式
10時 無縁供養法要(庫裡裏の無縁供養塔にて)
11時 音楽会(本堂二階)
当日参加も大丈夫です。どうぞいらしてください。
12月7日は特別坐禅会、蝋八摂心坐禅会を行います。
12月8日はお釈迦様が悟りを開かれた日です。
仏典では、1日から菩提樹の下で1週間坐禅を続け、8日目の朝明けの明星と共に成道
されたと伝えられています。
禅寺ではこれにならい、この時期に摂心という特別な坐禅を行ってきました。
この度、1日のみですが夜に坐禅会を修行します。
興味を持たれた方はどうぞお問い合わせください。
時間:12月7日(水)18時から20時半まで
夜6時 開場(坐禅指導は15分より)
6時30分 ~ 7時10分 坐禅
7時20分 ~ 7時40分 法話
7時50分 ~ 8時30分 坐禅
場所:祥雲寺 本堂二階
申込:電話(028-622-5719)もしくは祥雲寺庫裡にて
費用:参加料一千円(当日受付にてお支払いください)
準備物もあるため出来るだけ事前にお申し込みください。
-
令和4年11月 朝坐禅会「指月の会」案内(11月28日朝6時半より)
2022年11月25日拈華微笑
先日NHKでやっているチコちゃんに叱られる、という番組で国宝の定義とは?の問いかけがありました。
チコちゃんの回答は「明治政府の暴走を止めた制度」でした。
曰く、明治政府は天皇を中心とする国家神道を目指し、
その為には一部混在していた仏教が邪魔になり、分ける目的で神仏分離令を出した。
それが加熱して寺が壊され仏像が捨てられる廃仏毀釈となった。
当時日本に赴任していたフェノロサら外国人達を皮切りに有志が美術品保護運動を起こし、保存法として国宝が誕生した、という流れだそうです。
今日様々な仏教美術が国宝として保護され拝観できるのは、こうした制度による保護あってこそというお話でした。
美術品というのは其れを見ることで感動を呼び起こす、何らかの情動を起こすものだそうです。
では仏教美術とは何を引き起こすものなのでしょうか。
私はそれは、安心(あんじん)や平常心と呼ばれる、心の有り様落ち着き平穏を見て取りまた受け取れるものだと思っています。
お釈迦様は説法の際、花を拈じて微笑みと共に一番弟子に教えを伝えたと言います。
爾来禅宗では以心伝心、心を以て心に伝えようと相対する、面授を尊んできたのです。
少し話が変わりますが、昨今は技術の革新によって、機械測定によって人の感情の機微、好悪の程が測定できるそうです。
その研究によると、顔の筋肉の微細な動きや全身のわずかな挙措で人はお互いに言葉を発さずとも多くの情報をやり取りしているとのことです。
言葉を介さずとも、伝わるものは確かにある、という話です。
それならば、言葉を介さずとも注釈が無かろうとも動きが無かろうとも、物言わぬ仏像から伝わるものは確かにあるのでしょう。
そこに表されるもの、表そうとしてきたもの、其れを旨く伝えられるよう精進していきたいです。
それこそが、心を以て心に伝えようとしてきた、ほとけごころというべきものだと思っています。
祥雲寺副住職 安藤淳之
偏りのない、こだわりのない、囚われのない時間。
欲から離れた、我を起点としない時間。これがそのまま非思量、ほとけ心に生きられる修行です。
我を離れることの出来る閑かな時間、坐禅の時間を御一緒にいかがですか?
当分の間は6時半開始、一炷(坐禅一座)のみとなります。初めての方は15分前に来てください。12月は26日となります。また、雀宮善応院坐禅会は第四水曜日以外毎週行っています