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令和6年9月 朝坐禅会「指月の会」案内(9月23日6時半より)
2024年9月22日釈迦一人連綿として今日に及べり 『伝光録』
近年他宗派の勉強をしています。
浄土宗の法然上人700回忌記念フォーラムで聴講してみたり、浄土真宗の京都東本願寺の図書室に暫く籠もって蔵書を読んでみたり、日蓮宗の総本山身延山久遠寺や大本山誕生寺にお参りしてみたりと、色々と廻ってみています。
他の宗派の事を勉強するのは知見が広がりますし、翻って自分たち曹洞宗の教えの理解がより深まっていきます。
まだ勉強半ばではありますが、他宗も含めた歴代の祖師方は、本当に多種多様の工夫でその時代の人達に応えようとしてきたのだと思います。
我が曹洞宗は鎌倉期の道元禅師によって日本で広まった宗派です。
公家出身で、母との死別で発願して比叡山で学び、臨済の教えを学んで中国に渡り、仏教の正しい教えと確信する禅を体得して日本に戻られました。
既成教団からの弾圧を避け、福井の有力者の招きにより越前志比の里に修行に専念できる場所を求め、永平寺が創立されました。
学び得た仏法を記した主著『正法眼蔵』は禅の道を歩む者の道しるべとして、今日も世界的な評価を得ています。
道元禅師の信仰とは何であったのか。
花園大学の佐々木閑先生は、三国伝来、インド中国日本を千年以上かけて伝播することで変化していった仏教の原点を求め、八割方原点回帰を為し得たのが曹洞宗だと講演されていました。
また駒澤大学の小川先生は、歴代祖師方の生き方にならう事であったとお話しになっていました。
ブッダ(目覚めた人)とはお釈迦様のみの呼び方ではなく、仏教を伝えてきた歴代の祖師方もまたお釈迦様に同じくブッダであり、その生き方に学び真似び倣うことが正しい実践である。
だから禅宗、曹洞宗では生活の全てが修行とされるのです。
「水は方円の器に随う」韓非子
心を整えようとするならば、その器となる自身の生活から改めなければならない。
仏教というのは業、生き方を習慣から改めることで、内面を静め落ち着け整えていく宗教なのです。
このように日本で始まった曹洞宗ですが、越前の山奥にある永平寺で伝えられるだけでは、やがて細って途絶えていたかもしれません。
道元禅師から数えて四代目となる瑩山禅師が永平寺を出て教えを広められたからこそ、曹洞宗は今日の形になったのです。
瑩山禅師は永平寺で出家修行され、あらゆる人を救っていこうと誓いをされました。
日本各地を廻り、各地のお寺で多くの弟子を育てて教団を盛り立てたからこそ、曹洞宗は日本で一番寺院数の多い宗派となりました。
難解な道元禅師の教えを多くの人が理解できるよう尽力した翻訳者とも言われています。
道を示した道元禅師と、道を伝えた瑩山禅師、曹洞宗はお二人を両祖として奉っています。
本年は瑩山禅師700回忌大遠忌の年であり、10月の御征忌に焼香師団参でお参りしてきます。
両祖の工夫精進を改めて思い返して、自分の土台を明らかにする機会としたいです。
祥雲寺 安藤淳之
偏りのない、こだわりのない、囚われのない時間。
欲から離れた、我を起点としない時間。これがそのまま非思量、ほとけ心に生きられる修行です。
我を離れることの出来る閑かな時間、坐禅の時間を御一緒にいかがですか?
当分の間は6時半開始、一炷(坐禅一座)のみとなります。初めての方は15分前に来てください。来月の開催は10月28日となります。また、雀宮善応院坐禅会は第四水曜日以外毎週行っています -
令和6年8月 朝坐禅会「指月の会」案内(8月26日朝6時半より)
2024年8月27日直指人心 見性成仏 『四聖句』菩提達磨
先日東京国立博物館で開催している神護寺展に行ってきました。
お盆明けで天候不順の大雨が降ってくる平日だったので、来場者もまばらで空いてる中で見て回れるかと思いましたが、中々に賑わっていたので意表をつかれます。
高雄曼荼羅をはじめとした平安期の素晴らしい仏教美術を間近に見ることが出来て、八月の時間が無い中でも頑張って行って大正解でした。
見終わって帰りの電車まで時間が在った為、久しぶりに本館の常設展まで足を伸ばしてみました。
東京国立博物館の常設展は教科書にあるような国宝がゴロゴロしているので、書画骨董に興味が出たらいつでも満足させてくれる良い場所だ、と先代住職と度々話題になったりもします。
久しぶりの常設展本館は賑わっていて、見ていると客層がキレイに三分割されていました。
学生の若い集団と、年配の割合が多い一般観覧者と、これまた若い人が多い外国人旅行者です。
なるほどここはインバウンドの人が日本文化を知るには最適な場所です。
二階部分では日本の仏教美術が区分けして展示され、禅宗系のコーナーもあります。
其の中に江戸期の大名茶人として有名な松平不昧公の書がありました。
「直指人心見性成仏」
禅の大切な言葉ですが、展示物の解説書きが些か大雑把でちょっと残念に思います。
この言葉は中国禅宗の祖、菩提達磨が説いたとされる四聖句です。
学説的には後代になって整理された時に作られた言葉だそうですが、初期禅宗の根幹を現す言葉であることは間違いありません。
辞書の解説では、人間が本来備えている仏性(仏と成る素質素養)を体現し仏に到る、と解説されていますが、私にはある老師の説かれていた解説の方が印象深いです。
「祖師西来の意」の禅問答とかけあわせて
達磨はどうしてインドからわざわざ中国まで渡来したのか?
迷える人々を指さし、揺れ惑うその心こそが仏なのだと指し示すために達磨は海を渡ったのだ。
すとんと腑に落ちる言葉です。
私にはこの言葉の裏打ちとなる、納得する根拠となる体験があります。
二十年前の永平寺での修業時代、12月に行う蝋八摂心という大修行があります。
朝四時から夜九時まで1週間、ひたすら坐禅し続ける行事です。
修行の6日目、坐禅をしながら食事を取るため給仕役として坐禅の部屋に入ると、そこには部屋いっぱいの生きたほとけさまがいました。
厳めしい御老師も、顰めっ面の古参も、一緒に苦労をしてきた若輩者の同期生達も、皆ほとけさまとしか言いようのない、手を合わせて拝みたくなる姿でいました。
当時の永平寺住職宮崎奕保禅師は、坐禅をすれば善き人となると説かれましたが、これは全く正しい言葉です。
私の本当の修行、道を求め深めようとする求道はここから始まりました。
坐禅を行ずる時、私たちは仏の眼差し仏の心を体感し、安住することが出来ます。
達磨大師が指し示した様に、この心こそが仏なのだと感じられる坐禅会を試行錯誤していきたいと願います。
祥雲寺 安藤淳之
偏りのない、こだわりのない、囚われのない時間。
欲から離れた、我を起点としない時間。これがそのまま非思量、ほとけ心に生きられる修行です。
我を離れることの出来る閑かな時間、坐禅の時間を御一緒にいかがですか?
当分の間は6時半開始、一炷(坐禅一座)のみとなります。初めての方は15分前に来てください。来月の開催は9月23日となります。また、雀宮善応院坐禅会は第四水曜日以外毎週行っています -
令和6年7月 朝坐禅会「指月の会」案内(7月22日朝6時半より)
2024年7月21日いまだあきらめざれば人のためにとくべからずとおもふことなかれ 『正法眼蔵・自証三昧』
先日栃木足利市で開催されている相田みつを展に行ってきました。
この七月八月は生誕百年記念として、故郷足利の市立美術館で展覧会が行われています。
足利市の商店街とも連携しているようで、下野新聞やNHKのとちぎ630でも度々取り上げられていて、広報にも力を入れているようです。
先日足利の人と話す機会がありましたが、当の足利住民にはあまり周知されていないようです。
足利の方からお話を聞く分には、まだ生前の相田さんをご存じの方も多く、郷土の偉人として見るには違和感があるのかな、といった処のようです。
東京の相田みつを美術館も工事の為閉館してしまった事ですし、故郷の足利ででも常設展示されて欲しいものですが、中々難しいのかもしれません。
私は東京に出た時、待ち合わせの時間まで待つ等の合間時間には、よく有楽町の相田みつを美術館に行っていました。
静かな空間でくつろげるし仏教の勉強にもなるし、なにより励まされる思いで鑑賞できたからです。
相田さんは曹洞宗の坐禅会に長く通い、人生の師と仰いだ武井老師はまさに曹洞宗の禅僧です。
ご自身でも道元禅師の著作正法眼蔵を深く読み解かれ、作品の多くに禅の思想が息づいています。
その作品がこれほど多くの人に支持され、感銘を与えている事実に、私は励ましを貰っていました。
伝え方を工夫しなさい、と。
私が学び見つけ伝えようとしている仏法は間違いなく素晴らしいものなのだ。
今を生きる人の耳目に適した形に整えたなら、多くの人に響くではないか。
伝え方を工夫するべきなのだ。
我が宗祖道元禅師も言われています。
いまだあきらめざれば人のためにとくべからずとおもふことなかれ
悟りを得ないで他人に説くべきでないと思うのはまちがいである。
人に法を説くとは、自分が法を聞くということである。
究極、自他共に悟り到る事もある故に、導く工夫をすすむべし。
だから、先人からの借り物の言葉で飾り鎧うばかりでなく、仏法を戴いた今を生きる自分の命から生まれる言葉で語ることを躊躇するな。
私には相田さんの作品から、その歩みから叱咤激励を貰ってもいました。
昔から、お寺が社会で果たす役割は二つあるのだと思っています。
一つには仏法の道場としての役割。
仏の教えに触れて、その妙味を感じ身と心を静めて、更には実践に望める仏法の空間、心の道場としてのお寺。
一つには慰霊供養の場としての役割。
檀家信徒の大切な方やご先祖を弔い祀り祈るのに相応しい場、供養の施設としてのお寺。
どちらも欠かすことの出来ない、大切な役割です。
この二輪の役割を伝わる言葉で語り果たしていくことが、社会に生きる人々の求めに応じる事であるのだと、お寺を預かる住職の勤めであるのだと思っています。
祥雲寺 安藤淳之
偏りのない、こだわりのない、囚われのない時間。
欲から離れた、我を起点としない時間。これがそのまま非思量、ほとけ心に生きられる修行です。
我を離れることの出来る閑かな時間、坐禅の時間を御一緒にいかがですか?
当分の間は6時半開始、一炷(坐禅一座)のみとなります。初めての方は15分前に来てください。来月の開催は8月26日となります。また、雀宮善応院坐禅会は第四水曜日以外毎週行っています -
令和6年6月 朝坐禅会「指月の会」案内(6月24日朝6時半より)
2024年6月23日衆生無辺誓願度 「四句誓願文」
祥雲寺海外仏跡参拝第三弾、インドネシアボロブドゥール仏跡参拝旅行に行ってきました。
大変楽しい旅となり、また違う文化圏違う宗教の国に行くというのは、これまでと違った見方を体験できる得がたい機会でもありました。
インドネシアはかつてはヒンズー教と仏教の国でしたが、現在ではイスラム教徒が八割の国で、仏教徒は人口の1%未満程だそうです。
戦後の頃に中国系インドネシア人の僧侶ジナラッキタ師を中心に仏教の復興運動が興りました。
ジナラッキタ師は観音信仰の家に育ち、長じて大乗と上座部両方の教えを受けられて、だからこそ
どんな形の仏教であれ、それが等しく釈尊の教えを受け継ぐものならば、必ず優れた思想を含んでいて、尊重することが大切であるとのスタンスをとり、宗派や人種など様々在る垣根を越えてイスラム教徒が大半の国に仏教の花を再び開かせました。
「純粋な仏教などあり得ない。仏教徒であることが第一に重用だ」という言葉に、師の姿勢が良く表れています。
最近『ブッダという男 初期仏典を読みとく』という本を読み、色々と考えさせられました。
曰く、仏教学を学び古典を紐解く者は釈尊を現代の価値観から見ても理想の人格者として強調する誘惑に常に駆られる。
今日の倫理道徳規準から見ても遜色の無い、先駆的な偉大な人物であると描き出す風潮がある。
著者は学者としてそこに疑義を唱え、可能な限り脚色を交えない、紀元前のインドに生きた一個の人間で在り、また様々な壁を乗り越えた特異な人物である釈尊を見いだそう、と挑戦する本でした。
私も講義の先生から釈尊は説教の際には弟子達に「友よ」と語りかけて上下の別無く交わられていたと聞いたりもして、思い当たる節が色々浮かんできます。
学問的研究の発展により、昔は釈尊の直言と言われていたお経が、後世の僧侶による創作「偽経」であると示される事など、根拠としていたものが曖昧になったり崩れたりする事はままあります。
であるならば、仏教は学術的に間違いの無いもののみで語られるべきものであるのか。
私はそうは思いません。
今日を生きる私たちが頂く仏教は、今の環境や社会の中で惑い悩み乱れる心の問題にどう対応するのか、が第一で無くてはなりません。
仏教は世界各地に伝わって、その土地の文化や環境に沿って柔軟に形を変え、適応してきました。
そこに生きる人々のあり方に適して応える教えとなるため、変わってきたのです。
時代風俗文化環境に合わせ、しかし仏の教えの根っこを失わない有り様こそが仏教なのです。
時折、原始仏教つまり釈尊の説いた教えそのもの以外を認めない、という言説の方を見かけますが、私はそれに賛同しません。
歴代の教えを伝えてきた祖師方は、今この土地に生きる人達に届く言葉を磨いて、だから今日の形となったのです。
私は、仏教とは、仏さまの様な心で生きる術を説く教えであると理解し納得しています。
この時代この地に生きる私たちがどうしたら仏心に生きる事が出来るのか、それは紀元前のインドで生まれた言葉や作法のままでは適用しきれません。
故に現代の僧である私の役割は、今にあわせた言葉で語る、意訳も交えた翻訳者だと思っています。
私は現代でこの教えの流れを引き継ぐ者として、大切なものを受け継ぎ育み伝えていけるよう、精進してゆきたいです。
祥雲寺 安藤淳之
偏りのない、こだわりのない、囚われのない時間。
欲から離れた、我を起点としない時間。これがそのまま非思量、ほとけ心に生きられる修行です。
我を離れることの出来る閑かな時間、坐禅の時間を御一緒にいかがですか?
当分の間は6時半開始、一炷(坐禅一座)のみとなります。初めての方は15分前に来てください。来月の開催は7月22日となります。また、雀宮善応院坐禅会は第四水曜日以外毎週行っています -
令和6年5月 朝坐禅会「指月の会」案内(5月27日朝6時半より)
2024年5月26日花はただ咲く ただひたすらに
ただになれない 人間のわたし 「相田みつを」
上記は栃木県足利市の書家にして詩人、相田みつをの作品の一つです。
「つまづいたっていいじゃないか、人間だもの」の言葉は、きっと皆さんも聞いたことがあるかと思います。
今月20日で生誕百年を迎えたとのことで、下野新聞にも記事が載せられていました。
相田さんは足利で生まれ活動し、長く曹洞宗のお寺の坐禅会に通われていました。
ご自身でも深く勉強され、東京の相田みつを美術館では読み込みすぎてすり切れた正法眼蔵が展示されてもいました。
だからこそ、その作品の多くに色濃く禅の思想や道元禅師の影響が表れています。
感心するのは、経典の難しい言葉や思想を平易な、柔らかい、短い言葉で優しい文字でご自身の作品にされていることです。
深く理解し、ご自身の血肉とされているからこそここまで自由闊達な表現が出来るのでしょう。
私は東京に出て、ちょっと時間が空いたときには有楽町の国際フォーラム地下にあるあいだみつを美術館によく行っていました。
勉強ともなり、素晴らしい作品に感銘を受けながら一息付けるので貴重な落ち着ける場所でしたが、残念ながら今年一月で施設工事の為閉館となりました。
再開は未定とのことですが、是非ともまた開業してほしいものです。
尚、今年の生誕百年を記念して、故郷足利の美術館にて7月から8月で展覧会が催されるそうです。
私も行くつもりですが、興味を持った方には是非とも観覧してほしいものです。
さて、上記の言葉は相田さんの素晴らしい作品の中でも、とても強く感銘を受けた作品です。
出来るならば氏独特の字体で表現された原作をご覧頂きたいものですし、芸術表現は受け取る個々人の感想こそが正解なのですが、私なりに拙い感想を述べたいと思います。
人が自然や山野に生きる動物に時に感銘を受けるのはどうしてなのか。
作為も嘘偽りも無く有様そのままに生き生きとし、鎮座する曇り無さに感動するからではないでしょうか。
有るべくしてあるものは、ただそのままに素晴らしく、円かに調和して、時に美しい。
花はその命の有り様そのままに、力むことも心を費やすことも無くただ咲いてただ散る。
迷いやとらわれはからいを持ち込まない、命そのままにただ生きる、ただ美しく在ることの素晴らしさを万の言葉より雄弁に表現し尽くしている。
だから、花は「ただ」咲く ただひたすらに。
でも私たちは、その素晴らしさを知ったとしても、なかなか同じように生きられるものではない。
解っちゃいるけど、やめられない。
「ただ」になれない人間の私。
そんな人間の弱さや悲哀を穏やかに受け止めてくれる、共感の、慈しみの眼差しを、私はこの一文に感じるのです。
人の弱さに寄り添うように眼差しを向けてくれる、観音様とはこの様ではなかろうかと私は思っています。
心にゆとりを持ちにくい現代だからこそ、多くの人に知ってほしいと願う作品です。
祥雲寺 安藤淳之
偏りのない、こだわりのない、囚われのない時間。
欲から離れた、我を起点としない時間。これがそのまま非思量、ほとけ心に生きられる修行です。
我を離れることの出来る閑かな時間、坐禅の時間を御一緒にいかがですか?
当分の間は6時半開始、一炷(坐禅一座)のみとなります。初めての方は15分前に来てください。来月の開催は6月24日となります。また、雀宮善応院坐禅会は第四水曜日以外毎週行っています